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石原莞爾平和思想研究会コミュの東亜連盟への接近

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同志・工藤司氏は、昭和19年に小学校を卒業すると、中学校へはいけず、小学校の高等科に進んだ(高等科はまもなく廃止されたが2学年だった)。高等科で1人の先生に出会う。この人との出会いが、その後の人生の方向を決めたといえるかもしれないと語っています。

この原子昭三という若い代用教員は、それまで知っていた、どの先生とも違う型破りな人で、その授業も常軌を逸するものだったと言います。すべて自分の主観にもとづくままの、感情をむきだしにした直情的な授業で、生徒にとっては、何とも言えない自由な空気を与えられた思いがした。

まだ日本の敗戦が決まる前なのに、この先生は教科書に記された日本歴史はまちがっている、明治維新については異論があると言い、この戦争は近く負けるというのです。当時とすれば、言うまでもなく危険思想で、理解不能なものだったが、なにか愉快でもあった。

先生はまもなくその思想・行動ゆえに危険視されて学校を追われますが、その思想こそは満州事変の立て役者、石原莞爾の指導する東亜連盟同志会そのものだったのです。東亜連盟同志会は敗戦後マッカーサーによって超国家主義団体として解散させられました。

しかし、あるときは公然と打倒東条内閣を掲げ、世が鬼畜米英を喧伝しているときでも米英も文明国だといい、敗戦を予告して上手な負け方を国民に説くなどもするような、ウルトラナショナリズムに一括するわけにはいかない団体だったのです。

それゆえ戦時下の厳しい思想統制下にあって、反骨の青年らにとって唯一の拠りどころであり、酵素肥料の普及運動もしていたので篤農家の会員も多かった。またこの団体は地方重点であり、ムラの班活動を組織運動の原点としてもいた。津軽地方は石原の郷里の山形県庄内地方に次いで多くの会員を擁しており、「庶民の質的向上の基本」を説いていた。

原子先生の影響を受けた数人が、工藤司同志の家の屋根裏部屋を集会所にして東亜連盟思想の研究会をはじめるが、思いたったらとまらない性格である。暇を作っては村々の知り合いを訪ねて組織運動をやった。さらに組織拡大の足掛かりとすべく、青年団運動にも加わり、寸暇を惜しんで歩き回った。

都市解体、農工一体、簡素生活といった言葉には、当時の工藤司同志にとって異様なまでに快い響きがあった。そして、物・金が全てという世の中を何とかしたいという気持ちが工藤司同志のなかに強く根を張った。

その一方で、なぜ農村の者だけが自分の小遣いもままならず、いつも追い立てられるように、切羽詰まった生活をしなければならないのか、という思いがいつも脳裏を去らなかった。(この頃から、世の人からは一種無謀といわれる志向が工藤司同志の中に根を下ろしたのだろう)

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