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石原莞爾平和思想研究会コミュのクラウゼヴィッツに学んだ知将モルトケ

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ドイツ統一成功の陰に『戦争論』あり。対照的な2人がコンビを組めた謎。ビスマルクは朝寝坊で大食漢でおしゃべりだといいます。モルトケは早起きで小食で寡黙です。およそ対照的なふたりで、決してうまの合う仲ではなかったのですが、がっちりスクラムを組んで、ドイツ統一の偉業を達成し得たのはなぜだろうか。

まず、最初にあげられるのはドイツ統一という大目的を共有していたことです。この大きな旗印がなかったら、とてもコンビは組めなかったでしょう。下馬評ではオーストリア有利といわれた普墺戦争ですが、いざふたを開けてみると、参謀総長・モルトケの作戦が見事に当たり、わずか7週間でオーストリア軍を粉砕し、首都ウィーンに迫ったのです。

モルトケはじめプロイセン軍首脳は、ここで一気にウィーンを陥れようと主張しました。勝ち戦に意気上がる軍隊とすれば、当然です。ところが宰相ビスマルクはこれに断固反対でした。ビスマルクはもうひとつ先を読んでいました。ドイツ統一を果たすためには、いずれフランスと一戦を交えなくてはならない。

その時に備えて、ここは自重してオーストリアに恩を売っておくにしくはない、というのがビスマルクの深謀遠慮です。モルトケは、後になってこのビスマルクの慧眼に納得したらしいが、そのときは大いに不満でした。しかし外交は政治家に任せ、軍人は口を挟むな、というクラウゼヴィッツの教えを守って、あえてモルトケは逆らわなかったのです。

これがよかった。4年後の普仏戦争でオーストリアは中立を守り、モルトケは後顧の憂いなくフランスに兵を進めることが出来たのです。その意味では、ドイツ統一のクラウゼヴィッツありといえないこともないのです。普墺戦争の時、モルトケは軍事が議題に上る時には閣議に列しています。

これは「戦争論」でクラウゼヴィッツが提案していたところです。さらにモルトケは作戦に関しては国王に直接上奏する帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)を与えられたが、ことが外交にからむ場合は軍の意見を述べるにとどまり、昭和の日本軍部のように、上奏権を行使して、ごり押しするようなことはなかったといわれています。

7週間で大国オーストリアを破り、6か月でもうひとつの大国フランスを降伏させ、ナポレオン3世を捕虜にするという、信じがたい戦果をあげたモルトケの辣腕に、世界中が驚倒しました。座右の書として聖書とホメロスをあげ、「もっとも影響を受けたのはクラウゼヴィッツ先生の『戦争論』」と言い切ったモルトケの言葉に、世界は2度びっくりした。

なぜならその頃はまだ『戦争論』はプロイセンでしか読まれていなかったからです。以来、『戦争論』は世界中でもてはやされるようになります。日本で『戦争論』を最初に約したのはのちのちの文豪、森鴎外です。

鴎外はドイツ留学中に『戦争論』を読み、帰国後、陸軍将校たちに偕行社(陸軍の将校クラブ・石原莞爾平和思想研究会で使用)で講演したりしています。『戦争論』の思想は軍人勅論にも受け継がれ、明治の将軍たちの行動規範になりました。けれどもどうやら将軍たちは『戦争論』を熟読玩味したりはしなかったようです。

軍務繁多な将軍たちはやむをえないとしても、軍事学のメッカのはずの陸軍大学でさえ、本格的には研究しませんでした。軍事学の研究自体、欧米やソ連に比べてはるかに遅れていたと、「最終戦総論」を書いた石原莞爾は慨嘆しています。

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