ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾将軍との出会いと忘れ得ぬ人々(中)4、5

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

◎和田 勁氏

満洲国軍の創設に関与し、人情深い豪傑だった

――和田 勁さんについては?
武田 立派な人だと思いますね。将軍に対して本当に礼儀正しい人でした。秋田の連隊を中尉で辞めたんですが、その理由が秋田で一番の芸者さんと仲良くなったからですよ。当時の軍隊では芸者との結婚は許されなかった。和田さんは「そんなら軍人など辞めてやる」と言って結婚した。それが獅郎さんのお母さんですよ。獅郎さんって知らない?
――ええ。
武田 獅郎さんは、ある時期ハーモニカを習っていた。新井克輔先生の弟子か兄弟弟子ですよ。将軍と一緒に旅行しますね。すると将軍は膀胱が悪いから、しょっちゅうオシッコに立つわけです。皆が熟睡していると、将軍は眠りを妨げぬように気付かれぬようにそっとオシッコに行く。すると和田さんはサッと立って便所に行って電燈を点けるんだそうですよ。
和田 勁さんは、「真剣を持たせたら陸軍では誰もかなう奴はいない」とまで称された。西郷四郎(会津藩家老の西郷頼母の養子)と従兄弟の関係かな。「剣の和田 勁、銃の西郷四郎」と称されたほどの、四郎さんは武張った会津の人らしいですね。
――これは、後藤昌次郎さんという弁護士の方からお聞きしたのですが、後藤さんが東亜連盟の会合に出席された時、ご自身の足が不自由なので小さな椅子に腰掛けて将軍の前に席をとったのだそうです。そうしたら、後方から雷が落ちるかのようなとんでもない声で大喝されたと言うのです。振り返ってみたら、それが和田 勁さんだったと。和田さんは事情を知らずに「無礼者め!」と思い込んで大声を放ってしまったのですが、石原将軍はすぐに事情を説明して諌めたそうです。それにしても和田さんのような豪傑が当時、おられたのですね。
武田 人情深いというのか後輩を心配されるというのか、満州国の軍隊を作るのに非常に貢献した人でした。だから、異民族の兵隊が親のように慕ったらしいですね。将軍が亡くなられた後も西山によくお見えになったですよ。僕らの畑は地味が悪いから作物の出来は良くないのだが、それでもたまに出来が良い時がある。例えば、菜種がある程度できた年があったんです。和田さんは「武田さん、菜種良くできましたなあ。いやあ良かったですねえ」と言って、僕らよりも嬉しがるんですよ。純情ですよ。心から嬉しいんですね。
――無骨者に見えて、優しい方だったのですね。

私の「同衾しても裏切らない」話に、一本取られた中山 優先生

武田 これも将軍亡き後のことですが、和田さんは建国大学教授をしておられた中山 優先生と二人でよくお見えになりました。ある時、桐谷 誠さんのところで二人が一杯やっておった。二人とも酒飲みですから、中山先生が「部落会長の武田さんも、ここに来て一杯やるべきだ」と言い出した。まあ、これは中山先生の表現であって、本当は僕が行ってもてなすべきだと思って、僕も久しぶりに行った。もう二人は雑談で話に花が咲いている。
里見岸雄さん(田中智学の三男)は、石原将軍がベルリンで犬かきをしておったという話を書いていますね。僕はもうそれを全部チョン切ったんですよ。『石原莞爾研究』の、里見さんの文章だけをチョン切って山形に配ったんです。精華会から文句言われて、それで僕は精華会を飛び出したんです。その因縁つきの話が、三人の酒の席で出た。中山先生の話というのは、和田先生に対する話として発言するんです。「しかしあれだねえ、里見君のあの文章はなかなかリアリティがあるなあ」と中山先生が言うんですよ。
僕はこれは聞き捨てならんと思ったもんだから「中山先生、中国にはこういう言葉があるでしょ。桃の下で帽子を直すと桃を盗んだと言われる。ウリ畑で靴のヒモを直すとウリを盗んだと言われる。誠に釈迦に説法ですが……」と言ったんだ。中山先生は漢学の大家だからね。中山先生も悠然たるもので、「それはそうだ」と(笑)。「僕は中山先生は立派な人だから、桃の下で帽子を直しても桃を盗んだとは思いません。ウリの畑で靴を直してもウリを盗んだとは思いません。見た人が皆な盗んだと言っても、僕だけは盗んだと思いません」と言うたら、「おーっ、それは光栄だ」と中山先生は僕に言った。
それと同じで、僕は「石原将軍が奥さん以外の人と寝床に入っておっても、絶対に奥さんを裏切るようなことはしたと思わない!」と言った。中山先生はどう言うかと思ったら、頭をこうやって撫でて「こりゃ参った。こりゃ参った」と。そしたら和田先生が「どうだ参ったか!参ったか!」と言った(笑)。僕の一生で中山先生には教えられることばかりだったけれども、この時ばかりは僕が一本取った。あの時の中山先生は、実に負けっぷりが良かった。

漢学の素養に優れ、近衛文麿首相の補佐役だった中山 優氏

――武田先生の強い「信念」を知る面白いエピソードとともに、中山先生のユーモアたっぷりの負けっぷりも面白いですね。中山先生の石原将軍に対する評価は、とても鋭いものがあると思いますね。
武田 それはもう最高級ですよ。中山先生の表現というのは漢学の素養に満ちていて、他の人ではあんな誉め方はできない。何といっても深い蘊蓄がありますよ。あの人は徹底しているんです。中山先生にはこういうエピソ―ドがありますよ。
ある時、辻 政信さん(関東軍参謀の後、参謀本部作戦班長などを歴任)と飛行機に乗っておった。その飛行機が墜落しそうになった。それも相当高いところからだ。中山先生はちょうど本を読まれていた。「浮き輪をつけてくれ」という指示があった。中山先生は「浮き輪をつけろと言ったって、ではどのくらい待てば助けに来るのか」と聞いた。「2時間以上かかるだろう」との答えだ。そこで中山先生曰く「俺なんか泳げもしない。まして2時間も浮いていられない。どうせ死ぬんなら、そんなものいらん」と。「ところであと何分ぐらいで海に突っ込むのか」と問い直したら、「20分くらいだろう」と言う。そこで先生曰く「ならばその間、俺は本を読んでる」と。辻さんが本当に参ったと、悠然たるものだと言うんですね。
――中山さんの来歴は、どういうものですか?
武田 中山先生は、朝日新聞社におって外務省の嘱託に入った。近衛文麿さんに気に入られた。尾崎秀実らとともに近衛さんを補佐する10人くらいのグル―プの一人だったらしい。昭和12年(1937年)6月、第一次近衛内閣が誕生した。近衛さんが初めて国民に向けてラジオ演説する。演説原稿は近衛さんが書かれたものだが、中山先生は近衛さんから「文章を整えてくれ」と請われて演説原稿に筆を入れることとなった。
中山先生は辞退したんだけれども、近衛さんが無理やりに頼み込んだ。「文章を直す以上は思うとおりに直す」というのでやった。それがまた気品の高い内容のものだったらしくて近衛さんが惚れ込んだ。そして中山先生を正式の顧問にしたんです。近衛さんの原稿に筆を入れたという思い出書かれた、中山先生の文章がありますよ。

▲武田邦太郎(たけだ・くにたろう)氏のプロフィール
大正元年(1912年)12月〜平成24年(2012年)11月。広島県福山市生まれ。昭和10年、東京大学文学部西洋史学科卒業。同11年、鐘紡農林部に入社。中国にて大農牧場の建設・経営に参加。同21年、山形県遊佐町西山開拓地に入植、開拓農業協同組合長。同年3月、国民党結成。同26年、日蓮教同志会結成。同27年、協和党結成、中央委員長。同36年、池田勇人総理の諮問機関、新農政研究所に入所、農政部長。同40年、(財)新農政研究所発足、副所長。同52年、所長。同58年、武田平和研究所設立、代表。同61年、武田新農政研究所設立、所長。この間、赤城宗徳農林大臣顧問。田中角栄内閣日本列島改造問題懇談会委員。三木武夫内閣国民食糧会議委員等を委嘱される。日本新党副代表。平成4年、参議院議員。外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する特別委員会委員。国会等の移転に関する特別委員会委員長。著書に『食糧危機と日本農業の展望』『日本農業前途洋々論―農業イノベーションのすすめ』(共編)『コメは安くできる! 農家は豊かになれる―農業イノベーションの提唱』『永久平和の先駆 石原莞爾』『永久平和の使徒 石原莞爾』(編著)など多数。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

石原莞爾平和思想研究会 更新情報

石原莞爾平和思想研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング