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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾将軍との出会いと忘れ得ぬ人々(上) 3

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 マルクスのお墓に触れ、人間平等、民主主義を説く

――石原将軍への面談で、ほかに何か印象に残っていることがありますか?
武田 初対面の時に、石原将軍は池本博士と独ソ戦争の展望をやっていたのですが、ひょっと私のほうを向いて、突然マルクスの話をされたのです。ロンドン郊外にあるマルクスの墓には、夫婦の墓と、彼らと一緒に生活した姉さんの墓が三つ並んでいる。今はちょっと変わっているらしいのですが、「マルクスというパーソナリティが、いかに人間平等、民主主義的な人間だったかが判りますよ。あなたも行ってみなさい」と。僕は、まさか軍人からそういうことを聞くとは思わなかった。全く、目の覚めるようなお坊さんのように清潔な方なんですね。
 それで僕はハッと思ったんです。その後、いろいろな話をしている時に、どこからか電話がかかってきた。そしたら、「そんなこと、軍服を脱いでからやるよ」と言っておられました。つまり、日中戦争は早くやめろ、ということで、軍人を辞めて早く農村運動、平和運動をやりたかったんでしょうね。
――そういう気持ちは、あったでしょうね。

 「理想農村社会の実験場」に勤務、帰国時には将軍のお伴に

――その後の親交は、どうなったのでしょう?
武田 ご承知のように、石原将軍は師団長を辞められてから、東亜連盟運動に挺身されました。戦争末期の昭和20年(1945年)には支部組織が74、会員はおよそ20万人おりましたが、僕がたまに日本に出張で帰ってくると、将軍にお供して歩いていました。鐘紡は将軍にお伴して旅行すると、出張扱いにしてくれました。
――それは、やはり池本博士の存在があっての厚遇でしょうね。
武田 そうかも知れません。それに鐘紡と石原将軍との合意では、日中戦争を避けるために鐘紡の資本と技術で中国各地に理想農村をつくることになっていました。最初、満州国吉林省の蒙古地帯に5000ヘクタール、のち7000ヘクタールの綿羊牧場つくり、世界でも最優秀の綿羊を3000頭も入れて、生まれる子羊を満洲の各州に配っていましたが、そのウエイトを中国に移し、最初に手掛けたのが河北省寧河県の「鐘紡啓明農場」でした。
ここも7000ヘクタールぐらいの用地があって、当時、用水路と排水路を分離して、近代的な田んぼをつくったのです。そればかりでなく、農協や学校、病院を建てるなど、そのため、ここは池本課長が描いた「理想農村社会の総合的実験場」と呼ばれました。いわば、将来の中国水田農村のモデルづくりですが、僕はここの事務主任として働きました。
――終戦は、どこで迎えられたのですか?
武田 ここに6年ほどおって、それからまた満洲国吉林省の綿羊牧場「王府牧場」へ行って、そこの副場長で終わったのです。昭和11年から9年間、大陸に居たことになります。
――そうでしたか。先生は戦後すぐに、今度は石原将軍の下、山形へ行かれますね。
武田 終戦直後も、鐘紡はまだ国内に相当の農場を持っていました。帰国して、鐘紡本社へ挨拶に行くと、「鹿児島県の鹿屋に6000ヘクタールの小作地があるから行かないか」と勧められたのですが、中国での仕事がなくなり、これからの日本がどうなるのかと思って、退社の手続きを済ませて、将軍の下を訪ねたのです。
 石原将軍はその時、遊佐町、当時は合併前の高瀬村で開拓を始めておられたのですが、戦後の日本の見通しを尋ねると、将軍は喜んで「これから日本は良くなるんだ。軍隊がなくなったから、本当に良くなるんだ」と意気揚々と話されました。
――当時、悲惨な敗戦の中に、解放感みたいなのがあったんでしょうね。
武田 将軍は「あんた、これからどうするのか」と問われるので、鐘紡が過分の退職金をくれたので、「2〜3年勉強します」と言ったら、「ここへ来て、一緒に開拓をやらないか」というのです。私は当時、34歳でしたが、開拓農協長として4年後に将軍が亡くなられた後も、ずっと山形にいるのです。

◎韓雲階氏

 満洲国の元財政部大臣・韓雲階氏が見せた、相互尊敬のあるべき姿

――将軍が亡くなられた時の模様は如何でした? 亡くなる数時間前には、側近の皆さんを一人一人呼ばれて最期のお別れをしたそうですね。
武田 そうそう。西山の人は全部一人一人呼んで、お子さんがお腹の中にいる人はお腹を撫でてあげて、「いいお子さんを産んで下さいよ」と言って手を握ったりしました。
――息を引きとられる間際まで、いらっしゃったのは先生ですか?
武田 いえ、私のほかに相当数おられました。霊気療法でずっとやられたのは、高木清寿さん(元報知新聞記者、満洲協和会東京事務所指導部長)でした。それから看護婦の小野克枝さんも、ほかの方の記憶は今、ハッキリしません。
――曹寧柱先生も、おられましたか?
武田 多分、いなかったはずです。
――10日後の葬儀(昭和24年8月25日)の時には、写真に写っていますけれども……。
武田 確かに、代表で弔辞を読まれました。将軍が亡くなられた時には、僕らは半ば錯乱状況でしたから、当時のことを聞かれてもよく判らないのです。墓参に来られた人の中では、一人印象に残る人がいます。
――どなたでしょうか?
武田 将軍没7年後、満洲国の財政部大臣をされた韓雲階さんです。戦後、台湾におって、日本に来られるようになって訪ねてきたわけですが、将軍の墓前で思い出の書を読むのですよ。満洲国時代、石原将軍と提携してやっていたから、東條一派に殺されそうになっていたわけです。それで将軍が韓先生のお邸に行って、「このままだったら暗殺される。長期にわたって満洲国の使節として欧州に行き、ムッソリーニ、ヒトラーに会って、仲のいいことを宣伝しなさい。そうすれば、東條はあなたを殺さないから」と言われたそうです。

――石原将軍は、そういうキメ細やかな配慮も忘れない人ですよね。
武田 韓先生は国民に信望があったものだから、サイパンが落ちていよいよ日本が危ないという段階になった時に、東條は韓先生に「満洲国の国務総理になってくれ」と言ってきたらしいです。「今どきそんなことを言われてもダメだ」と蹴飛ばしたそうですが、そういうことをいろいろ書いて墓前で読むのです。
 二回ほど読めなくなって、嗚咽して泣くんです。中国の大人(たいじん)があんなに感情を露にするというのは初めて見ました。その書は、鶴岡の図書館に入っていますが、日本が戦争に勝とうと負けようと、民族を超えた本当の相互尊敬というあるべき姿を見たような気がしますね。
――実に、感動的なお話ですね。

▲武田邦太郎(たけだ・くにたろう)氏のプロフィール
大正元年(1912年)12月〜平成24年(2012年)11月。広島県福山市生まれ。昭和10年、東京大学文学部西洋史学科卒業。同11年、鐘紡農林部に入社。中国にて大農牧場の建設・経営に参加。同21年、山形県遊佐町西山開拓地に入植、開拓農業協同組合長。同年3月、国民党結成。同26年、日蓮教同志会結成。同27年、協和党結成、中央委員長。同36年、池田勇人総理の諮問機関、新農政研究所に入所、農政部長。同40年、(財)新農政研究所発足、副所長。同52年、所長。同58年、武田平和研究所設立、代表。同61年、武田新農政研究所設立、所長。この間、赤城宗徳農林大臣顧問。田中角栄内閣日本列島改造問題懇談会委員。三木武夫内閣国民食糧会議委員等を委嘱される。日本新党副代表。平成4年、参議院議員。外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する特別委員会委員。国会等の移転に関する特別委員会委員長。著書に『食糧危機と日本農業の展望』『日本農業前途洋々論―農業イノベーションのすすめ』(共編)『コメは安くできる! 農家は豊かになれる―農業イノベーションの提唱』『永久平和の先駆 石原莞爾』『永久平和の使徒 石原莞爾』(編著)など多数。

コメント(2)

とにかく、次に 向かって 動く事。地固めを 諦めない事ですね。
そのためには会報を発行できるように財源を確保しないとならないことでしょう。

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