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石原莞爾平和思想研究会コミュの残された者の歩きかた

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この頃、食事をする度に一瞬、考えてしまうことがある。粗食なもの、比較的質素なものなどを食べる時は、そうでもない。いわゆる懇親会などでご馳走をいただくときに、なんとなく躊躇する気持ちがあるのです。

「こんな時に、こんなに旨いものをたらふく食べてもいいものだろうか」と、ふと思う。また、出された食事をカメラに収めてインスタグラムやツイッター・フェイスブックにアップロードするときも申し訳ない気持ちで作業してしまう。

被災地に住む方やアフリカの難民のニュースをテレビの報道番組で見たあとは特にそうだ。世界中のさまざまな飢餓の現状を知った直後など、以前からそんなことがしばしばあった。もっともそれは食事前の一瞬で、あとはたちまち食うことに夢中になるのが常です。

飢餓線上にある人数と、栄養過多の肥満でダイエットに苦しむ人の数がほとんど等しい、などと教えられると複雑な気持ちになったりもする。しかし、この度の東日本大震災のあとは、今もずっと食事のうしろめたさがつきまとうのは、当然のことかもしれない。

あまりにも衝撃的な映像を目にしすぎたせいか、夜、寝る時もなんとなく心苦しいのです。これは単なる同情心とか、共感共苦の感情とかいった高尚なものではない。情緒的な後ろめたさでもない。なんといえばいいのだろう。どうもうまい言葉がみつからないのです。

津波で義理の兄が亡くなりましたが、さしずめ、「生き残ってすみません」とでもいおうか。その感情は今もずっと続いている。父はよくお米を一粒でも残すようなら怒鳴られました。また、食べたくても食べられない人がいる話は繰り返し刷り込まれた。

父はいわゆる昭和ヒトケタ派の世代です。第二次世界大戦のさなかに子ども時代をすごし、少年時代に石原莞爾将軍に遣えて終戦をむかえた。石原莞爾平和思想研究会の同志の仲には学徒動員で戦場へとおもむいている。

当時、旧制中学校を主席で卒業した父が真っ先に石原莞爾将軍の下に馳せ参じたことが元酒田市長のお手紙に書かれています。

先輩たちは、兵士として続々と戦場へむかい、当時の言葉でいえば、見事にお国のために散華したのである。父は敗戦のとき、ギリギリのところで少年兵を志願できなかった。そして結果として生き残った者の一人となった。生き残った者としてのうしろめたさは、父にもあったのでしょう。

戦後、石原莞爾平和思想研究会の前身である「東亜連盟」はマッカーサーから解散させられた。無法地帯で大山倍達などと空手を学び体を鍛えた。生き残ったことすら偶然である。しかし、偶然にしろ、幸運にせよ、生き残ったことは、決して誇れることではない。

むしろ、その反対である。戦争の時代に命を失った人びとが無数にいた。兵士として無意味に死んでいった者。敵空軍の作戦上の一環として焼かれた者。核兵器の犠牲となった者。そのほか戦争で死んだ人びとは無数にいる。

父の世代は、その死の世代を生きのこった者たちである。そして、終戦時に外地、すなわち旧日本帝国の植民地に住んでいた者たちは、さらなる差別を受けることになる。父は終戦の夏、広島にいた。広島は3月と4月に小数機が来襲しただけでした。

その頃は東京はじめ主要都市は焦土と化し、軍港のあった海軍中佐である祖父・父の生まれた呉市も、6月から7月に大空襲を受け壊滅していた。広島市民たちは広島が爆撃されないのを不思議に思っていたし、反面いつやられるのかという思いの毎日を送っていた。

そしてついに広島に原爆が投下された。父は広島市に足を踏み入れてしまった。修羅場のなかで、放射線量が高い中、倒れずに生き残った人間には、みな見えない差別がある。それは生き残り、という差別なのであろうか。

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