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石原莞爾平和思想研究会コミュの 孫文の未来構想

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日本は第一次世界大戦中、ほとんど戦争らしい戦争もせずに莫大な利益を参戦という名目の中から引出しました。戦争のためにイギリスやアメリカの商品が中国、南洋方面で手薄になると、日本商品はその後になだれ込み、連合国には武器、軍需品を売りつけて莫大な利益を得た。日本資本主義は、空前の大繁栄に遭い、驚異的な発展を遂げたのです。

この期間に金鉱工業生産高は大戦勃発の5倍を超え、なかでも機械器具工業は8倍、金属工業は6倍半になった。製鉄、造船の躍進は日本の重工業を確立させ、三井、三菱などの財閥独占資本は膨張して、日本は最も新しい帝国主義国の性格を完成した。

この日本帝国主義は、厖大(ぼうだい)な人口と資源を有する中国に専心向けられた。しかし、大戦後のイギリスは、中国市場の支配権奪回を試み、また中国の市場に足がかりをもたなかったアメリカは、門戸開放、機会均等を唱えて日本の中国支配に干渉したので、日本政府も当分英米との妥協につとめざるを得なかった。

これが幣原喜重邸外相による外交政策で、「親英米」とか、「軟弱外交」とかいわれたものです。中国には古くからイギリスの植民地政策があったが、第一次世界大戦後、国力を回復したイギリスは、再びその政策を中国に強めてきた。

中国の民族意識は、まず反英運動となってはじまり、続いて対支二十一箇条条約を契機とする反日運動に発展してきた。上海地区の紡績工場の従業員、香港の海員ストライキ、京漢線ストライキなどが起こった。これら労働の蜂起は、いずれも民族解放運動につながっています。

孫文の国民党は毛沢東の中国共産党と協調して統一戦線をつくったが、これはコミンテルンのボロジンの熱心な仲介によったものである。大正12年のことで、世にこれを国共合作と呼んでいます。

これ以降、国民党はソ連の援助を受けて軍官学校を設立したりして、革命的な性格を強化した。大正15年7月、国民革命軍は蒋介石を総司令にして、北方の軍閥退治に立ち向かうのだが、これを北伐とよんだ。「革命の父」孫文は、それを見ることなくして、北京の客車舎で死んだのである。

大正13年、最後の来日を果たした孫文が、神戸の県立第一高等女学校で行った演説は、通称「大アジア主義講演」として有名です。孫文は冒頭に、世界最古の文明をもつアジア民族が、ここ何世紀かの間に、西洋諸国に支配されたが、この30年の間に回復してきた。

その立役者は日本であり、日本が不平等条約をはねのけて独立国になり、日露戦争に勝利をおさめたことにある、と語った。

そして西洋文明は科学の文明であり、科学を武力に転じる「覇道」の文明である、東洋には仁義、道徳の文化にもとづく「王道」の文明があり、この王道をもととした「大アジア主義」によってアジア諸民族の連携をはかり、あらゆる被抑圧民族の解放にとりくまなければならない、と述べて、以下の呼びかけで締め括りました。

「あなたがた日本民族は、欧米の覇道文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質をもっています。日本がこれからのち、世界文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです」

この孫文の問いかけは、近代においてアジアが日本に向けてきた問いかけの、あるいは呼びかけの集約であるという事ができるでしょう。日本は、この問いに今日に至るまで答えていません。孫文が来日して、3回にわたって内閣を組織した桂太郎と会っています。

その際、桂は孫文に対し、人口増加の勢いからも日本は満州に発展するほかない、と説いていました。孫文はかねがね革命成就のためには満州を日本に譲ってもよいとの考えだったと言っていますので石原莞爾のいう、満州の地に五族協和、王道楽土を実現できることがアジアの平和に結びついたことでしょう。

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