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石原莞爾平和思想研究会コミュの日中戦争に陥った経緯

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昭和11年12月の西安事件後、華北では宋哲元軍や東北軍など41万の兵力が5000人の日本軍を包囲するかたちとなり、さらに徐州方面でも中央政府軍35万が北上の機会を伺うなど、日中両軍の緊張が高まる中、日本はあくまでも、事態の不拡大方針を堅持していました。

翌12年7月7日夜、北平郊外の盧溝橋で、演習を終えた支那駐屯軍第一連隊の一木大隊に、突如、中国側から数発の銃弾が打ち込まれたのだが、不拡大方針に基づき、同大隊に応戦命令は下りなかった。翌日も、再三にわたって不審な発砲を受け続けて7時間、ついに日本側は中国軍に攻撃を開始し、これを撃滅した。これが日中戦争の発端、「盧溝橋事件」です。

この事件の処理をめぐり、外務省と陸軍中央はただちに事態の不拡大・現地解決の方針を固めたと同時に、日本陸軍では、拡大派と不拡大派が対立し始めたのです。この事件での東京裁判では、当時中国共産党の副首席であった劉小奇が「盧溝橋事件これがきっかけで日本は大陸深く攻め入ることとなり、日本の侵略戦争のはじまりとされているが仕掛け人はこの私だ」と発言しました。

そのため戦犯として拘留中の河辺大将、牟田口中将が理由も告げられずに釈放されました。盧溝橋事件の1ヵ月後の8月13日、ソ連共産党派の張治中将軍は、蒋介石の命令に反して上海に精鋭部隊40万人以上を投入して、全面的な戦争に発展した。これが世に言う上海事変です。

昭和24年の中華人民共和国樹立宣言の際、周恩来首相は、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石軍の両方に銃弾を打ち込み、さらに日華協定を妨げたことが、中国共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と言明しています。

日本軍の「拡大派」の主張は、中国で反日侮日の気運が高まるなか、ここで逆襲しなければ中国軍をますます増長させ、日中関係をこじらせ国内世論も黙ってはいないだろうというもので、日ソ戦では、中国がソ連ら荷担する可能性も高く、ここで中国に一撃を加えて反省させ、反日政策を改めさせようとの「対支一撃」論で、両国間の懸案を一気に解決しようというもので、決して全面戦争を求めるものではなかったのだから、そういう意味ではこれも不拡大派だったのです。

もし日本が出兵したら泥沼にはまり、長期戦に陥る可能性があり、その間列強に西洋諸国や中国共産党軍が漁夫の利を与えかねないので、それより満州経営に専念し、対ソ戦に備えるべきだと、石原莞爾がその中心になり意見を述べました。

だが、中国の反日運動は、共産党の討滅を優先し、反日政策を控えていた蒋介石主権も、西安事件で国共合作(「共同抗日」)が成ると、抗日姿勢を強化せざるを得なくなり、日中関係は悪化の一途を辿ったのです。

蒋介石の中央政府軍としては元来、まず共産党軍を殲滅し、そのあとで地方各派の軍事勢力を統合し、中国を統一することを最終目標としていたので、日本軍との直接対決は極力避け、力を温存し、強化しようと考えていたのです。

昭和12年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争は、昭和13年10月27日の武漢三鎮陥落で終結した。それは、日本軍の戦闘態勢が終わったというわけで、日中間に和平が成立したわけではないが、それから昭和20年の日本の敗戦までは、重慶政府と延安政府の抵抗運動が、外国の支援を受ける各地の政府間抗争となったことです。

日本軍が占領した面積は、中国の50%弱、住民数は全人口の5割を占め、耕地面積は46%、主要都市のほとんどを支配下に置き、近代的工場の労働者数は90%で、生産額は94%に達した。中国側と比べると圧倒的に微々たる戦力でしかない日本軍が、中国大陸の半分を支配下に置いたのです。

これに対し重慶政府の支配下での工業生産額はわずか6%で、しかも臨時首都には約1千万人の難民が流入しているのに、重慶側は、日本軍支配地域を「敵区」と呼び、自分たちの勢力範囲は「大後方」と呼んでいたのです。国土と人口の約半分を日本軍に奪われた重慶政府は、対日戦を継続するのは、無理でした。

この状況のなか、日本政府は昭和13年11月3日、「東亜新秩序の建設」を発表した。これは「第二次近衛声明」とも称され、日本の戦争目的は東亜永遠の平和にあるとし、新秩序建設に国民政府の参加を拒否しない旨を表明し、同年12月3日には、近衛三原則「善隣友好・共同防共・経済提携」という方針を打ち出している。

しかし重慶側はこれに同意しなかった。やがて国民は分裂し、汪兆銘派は重慶を脱出し、南京政府をつくって日本と提携した。これによって日本軍は大規模な作戦をやめ、南京政府と協力して、治安の維持にあたりながら本格的な持久戦態勢に入ったのです。このように日中の戦闘態勢は終了したのだが、しかし国際環境は大きく、激しく変動する。

それは日本軍による翌14年6月14日の天津・英仏租界での抗日分子の一拠点の封鎖による日本と米英との関係悪化であり、同年5月からのノモンハン事件による日ソ間の緊張の高まりであり、9月1日の第2次世界大が、ドイツ軍のポーランド侵攻で始まり、昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発するのです。

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