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石原莞爾平和思想研究会コミュの 盧溝橋事件からの生き様

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盧溝橋事件のその夜、北支駐屯軍部隊は、北平南方の芦溝橋竜王廟付近において、夜間演習をはじめました。馮治安部隊は、これを見て、日本軍の襲撃と誤解して、突然発砲したということでしたが、最近になって中国共産党の仕業であったことがわかりました。日華双方の感情が、からみ合っていて、危険な雰囲気が漂っていた矢先に、夜間演習の行なわれたことは、ガソリンが漏れている車の中でタバコを吸うようなものだったのです。

この時の現地軍は、牟田廉也部隊長、和知鷹ニ参謀、中央は、杉山元陸相、海津美治郎次官、閑院宮載仁参謀総長、多田駿次長でした。この中で、一番政治力をもっていたのは、海津でした。牟田も、不拡大のために努力はしたものの、中央舞台の幕を開けば、そこには、盧溝橋事件を拡大しようとする陸軍省と、喰い止めようとする参謀本部との対立があったのです。拡大派の中心は梅津次官、不拡大派の中心は、石原莞爾第一部長、石原莞爾はこの年三月一日付をもって、陸軍少将に昇進していました。

石原莞爾が、この事件の拡大されるのを恐れたのは、一部軍閥の陰謀が、日華両国民を戦火の中に追い込み、日本も中国も、結局共倒れになって、抱いている偉大なる平和構想に、大きな障害となると考えたからです。陰謀派の眼中には、世界情勢もうつらなければ、日華両国の将来の運命も繁栄しない。お先真っ暗、交渉しても、解決の見透しはつかない。石原莞爾は、腹もわって見せ、赤裸々なって、お互いこの通りだ、兄弟喧嘩はやめようではないか、という処へ持ってゆこうと近衛文麿総理大臣と、蒋介石中国国民党政府首席とが、平和交渉に当るより外はないと決断していました。

近衛首相に電話をかけ、「閣下、飛行機で、南京へ私と飛んで、直接、蒋首席とおあい下されば、話はすぐにわかります。中間の雑音を取り除くため一切秘密に中国に対して、日本は、何ら領土的野心をもっていない。中国と戦う考えは毛頭ない。陸軍も海軍も、直ちに中国から引き上げさせる。日本の希望は、中国との経済提携、満州国の独立、ソ連に対して、十分な国防態勢がととのい、日本も安全だが、中国も安全であるということを強調してください」といったのだが、近衛首相の優柔不断は毎度の事だが、この機に、政治的大英断が実現しなかったことを、石原莞爾は残念がっていました。

近衛首相が、御信任もあつく、国民の信望もあって、三回も内閣を組織して、難局に当ったからには、大きな胆力がほしかった。陸海軍の協調を計る為に、東条を押えることが出来なかったと手記に残されているが、軍はもとより、国を挙げて、事変から戦争へと戦勝の強気に酔っている時に、石原莞爾の提案した無条件にも等しい対華講和を、胆力あって、大英決断を下すにも、それが許されない、日本の政治情勢であり、悲しき日本の運命であったと言えます。現に、石原莞爾自身がこのために、左遷されているのですから軍閥は、参謀本部に石原莞爾がいては、日華事件を拡大する事が出来ないといい、石原莞爾を墓場へ送り込むことも難しいと見るや、左遷の辞令を出す事となったのです。

参謀本部作戦第一部長から、関東軍参謀副長に降格したのです。赴任に先立ち、石原莞爾は、参謀総長宮載仁元帥にお伴して、参内の上、天皇にお会いし、今回の事件の経過、自分の見透し、満州国における王道楽度の政治、ソ連に対する完全防備の方法、陸軍部内における一部が侵略政策をもって、日華親善を妨げている事情など、申し上げました。天皇はじっと聴いておられたが、「よく言ってくれた。全く石原の云う通りだ。日華相争うことは、両国々民のみでない、世界人類の不幸ともなるであろう。今後も、気づいた事は、何でも言ってもらいたい」と、頷かれた。この時、石原莞爾は、「自分は、軍人として、これ以上の満足はない。今回の満州行きについて、追放とか、島流しとか、左遷とか言われているが、そういうことは、もはや問題でない」情をこめて、そういったそうです。

満州国に於いて、東条一族の軍閥が、白い眼を持って石原莞爾を迎えたことも、何ら気にしていませんでした。石原莞爾は、我が子同然の満州を奪回して、もとの満州に立て直そうとする以外何も考えてなかったのです。勿論、東条参謀長や、その夫人勝子、総務長官星野直樹、産業部次長岸信介、満州重工業総裁鮎川儀介、満鉄総裁松岡洋右など利権にとっては、石原莞爾はうるさい存在でした。折角自分達が、わが世の春を悦んでいる矢先、突如として、石原莞爾が関東軍にやってくることは、花園をあらす暴風に等しきものであったのです。

石原莞爾は参謀副長として、正義派を集めようとしたが、石原莞爾に味方すると憲兵の弾圧を受け、人知れず迫害をうける、石原莞爾の態度が、立派であり、石原莞爾の主張が道義に適っていることは分かっていても、背後に動く、黒い力が恐ろしくなって、大抵は、沈黙を守っていたので、石原莞爾は、全く孤独でした。一方、日華事変は手を広げた結果、行き詰まりとなり、南京・漢口・広東を奪取したからといって、蒋介石は絶対に軍門にくだらぬと云ったので、石原莞爾の見透しが的中しました。

「こうなったら、蒋に対して全面講和を申し込み、もし聴き入れなかった場合は、奥地から撤兵するんだ。その時あらゆる鉄道資材を一緒に撤去してくる、車輌も、船舶も、何ものこさず撤収する。そして、天津、塘沽、青島付近、上海付近、小池域をこじんまり占拠して、大部分の軍隊は、内地へ引き上げる。すると、蒋さんは、手も足も出ぬだろう。恐らく講和を受け入れるだろう。・・・どっちみち、戦争は、一日も早くやめなくてはならん。」思いも及ばぬ戦略、こういう名案が、浮かび上がってくる石原莞爾の頭の働きは、全く天才的でした。それが、東条一派の気に入らぬところでもあったのです。

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