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石原莞爾平和思想研究会コミュのアメリカ人から見た石原莞爾

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戦時中、石原莞爾は東条英機体制に代わることは出来ませんでしたが、東条英機体制の敵となり、犠牲者として名声があがりました。予言者として喝采を浴び、歴史の変化によって、過去の発言の正しさが実証されたように思われたので、日米両国のジャーナリストも、日本の戦時行政のために積極的支持が禁じられてきた多くの追従者たちも、熱心に石原莞爾の言葉に耳を傾けました。新たな言論活動の機会を利用して、石原莞爾は終戦の数週間後には遊説を始めています。

石原莞爾が特に時間を割いたのは、東北地方の聴衆を前にして、日本の敗戦の原因について話し、準備も整わないのに戦争へ歩み始めた「東条軍閥」を批判しました。1945年9月中旬、山形県酒田市で開かれた大会には、全国各地から2万人以上もの追従者が集まりました。10月に京都で行われた「新日本の建設」と題する演説は、公の発言のなかで、古くからのテーマについても多く語ったが、新たなテーマに若干言及しました。道徳的新生、科学に基づく強化という発想、東亜連盟の原則論でした。

石原莞爾はまず日本の敗戦の最大の原因は道徳にあり、将来の再建の鍵となるのも道徳であるという見解を述べています。戦後日本の道徳的崩壊をもたらした責任は、近代日本の体制に侵入した西洋の物質主義という不純物にあるので、アジアの路線に沿った日本の新生こそ、日本の再建に不可欠であるというのです。国家再建の目標は、やはり最終戦争における勝利でした。しかし、日本がその戦いに備えることは、太平洋戦争での敗戦で全く不可能になってしまったのです。

石原莞爾はこの事実を認めるけれども、「最終戦争に対する必勝体制の整備は武力によるべきではなく、最高文化によるべき」であると、主張した。新時代において、最高レベルの文化を達成することは、科学の分野で優越することを意味し、科学こそ世界強国への最も確かな道になるという。「一研究所、一工場、時には一個人の素晴らしい発明が・・・一挙に戦争の決を下すことも、ありうるのである」。

日本は道徳、科学、文明というより高い次元へと自国を築き上げ、東亜連盟結成のために働かなければならないと、石原莞爾は信じていました。東亜連盟を合理的な思想であるとみなし、そう遠くない将来に、今まで長い間紛争の種になってきた国境は、もはや無意味となるだろうと予想しました。従って、東亜聯盟がひとたび結成された暁には、日本が朝鮮や台湾を失おうと、満州国が中国に吸収されようと、それはもはや問題ではないと、石原莞爾は聴衆に語りました。それは、最終的に国境は消滅して、アジアは調和した統一体へと統合されることになるからです。

しかし、1946年始め、連合国は石原莞爾の活動にたがをはめた。マッカーサー司令部は、日本のいかなる指導者も、石原莞爾が説いた国家再建を提案することを、許そうとはしなかったのです。従って、数ヶ月間大衆の喝采を受けた後に、石原莞爾は追放され、東亜連盟協会も禁止されたのです。石原莞爾の活動は制限され、内臓疾患の再発に苦しみ、活動できなくなってしまいました。病状が非常に悪化したので、東京の病院に入院せざるをえなくなりました。

アメリカ合衆国の記者マーク・ゲインが、1946年4月に通訳付でインタビューの中で、ゲインは石原莞爾という人物の思い出深い印象を次のように記事にしています。「石原にあったのは、その病院の小さな一室だった。その部屋の窓枠はまだ爆撃のため歪んだままだった。彼は痩せた男で、渋紙色に焼け、頭は剃ったように短く刈っていた。厳しい滅多に瞬きもしない黒い眼は、私たちを射抜くような光をたたえていた。彼は手を膝において、寝台の上に日本式に座っていたが、黄色い支那絹の不恰好な寛衣をまといながらも、彼の体は鋼鉄の棒のように真っ直ぐだった。・・・私たちはただ2つだけ質問した。敗戦の日本は?そして彼自身は?彼はすぐさま鋭い確固とした口調で長々と答えた。自分の発した言葉の一つ一つに確信を持っている人の語り方だった。」

ゲインとのインタビューのなかで、石原莞爾は満州事変と日中戦争で果たした役割に触れ、東条英機との反目について怒りをぶちまけながら、過去の経歴と石原莞爾が一躍有名になった重大局面について、語りつくした。次いで、東亜連盟に対する弾圧の問題に、憤って話題を転じました。「マックアーサーが東亜連盟を解散したとき、我々は日本の軍国主義者とアメリカの軍国主義者とは何の違いもない事を知った。東亜連盟こそは共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」。彼は占領軍当局から受けた個人的拘束と監視について苦言を呈し、故郷の町では、東京から彼宛の手紙が届くのに、3ヶ月もかかると不平を述べた。東条英機の検閲下でさえ、「一週間以内には届いたものだ」と、苦々しげに言った。

石原莞爾は自己の歴史図式に基づいて、20年間アメリカ合衆国を最大の敵であると目してきた。そうした仮借のない敵意の上に、敗北の恥辱と個人的屈辱感が、アメリカ占領軍当局によって彼に加えられたのである。公職追放となった翌年、1947年に、東京裁判の弁護側証人として召還された時、彼のこの積もり積もった恨みがほとばしり出るのであった。

これより前、石原莞爾は山形県に戻っていました。病が重く東京へ証言に行けなかったので、石原莞爾の調書をとるために、1947年5月1日と2日、(父の日記に書かれている)酒田で特別軍事法廷が開かれました。国際軍事裁判所の50名以上の聴衆を前に、石原莞爾は満州事変と日中戦争における自分の役割について述べました。両事件について現在我々が知っていることからすれば、石原莞爾の証言記録の多くは不正確で、言い逃れのような印象を受けるが、法廷外では怒りにまかせて、誰はばかることなく刺のある発言を行ったのです。石原莞爾はトルーマン大統領こそ、一般市民に対して無差別爆撃を命じた本人で、起訴されるべきだと議論を挑んだ。父の書物によれば、日本の膨張主義を一世紀にも及ぶ西洋との闘争の文脈のなかに位置づけ、以下のようにアメリカ合衆国の検察官を攻撃したのです。

「なんだ、ペルリを知らないのか。君は貴国の歴史を知らないのか・・・。日本は当時徳川封建時代で、どこの国ともおつき合いをしたくない、といって堅く門戸を閉ざして鎖国主義をとっていた。それを、貴国からペルリが黒船に乗ってきて、門戸を開放しろ、もし開放しなければ大砲を打ちはなって日本をおどしつけ、門戸開放を迫り、列国との交わりを強要した。それで日本も門戸を開放して外国と交際をしてみると、列国はみな侵略主義の恐ろしい国と知ったのだ。それから自衛のために貴国らを大先生として日本は泥棒の侵略主義を習い覚えた。いわば弟子である。ペルリをあの世から呼んで来て戦犯としてはどうか」と。

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