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石原莞爾平和思想研究会コミュの東亜聯盟と国柱会

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協和会とは民族協和の性格を示しています。その理由は、日本が、孫文の後継者である蒋介石と対立していたことにあるとしか考えられません。協和会は、真に東亜聯盟の大同団結を主張するのか、それとも関東軍の植民地主義なのか。この辺りが、日本の悲劇を象徴しているといえます。東亜を真に一つにしようとするのであれば、アジアのニ大国であった日本と中国は、決して戦ってはいけなかったのです。

日本は、覇道ではなく、王道を求めるべきでした。石原莞爾はそれを理解しており、日華事変の拡大に強硬に反対したことは周知するところです。しかし帝国軍人であった石原莞爾は、同志を見殺しにすることはできずに、結局、強硬派に押し切られて、対支三個師団派兵を決断してしまうのです。この決断は人間として非情にはなれなかったのです。

石原莞爾は日蓮の信仰と国体天皇、日本の精神的優越を確信していきました。それは、日本を中心とした東亜の統一です。それは立場を変えて考えれば、日本の覇道にほかならないという事にならないのであろうか。よく多くの方に指摘されるところでございます。石原莞爾が、関東軍参謀副長の職を辞して帰国した昭和13年、軍服でなく、協和会服を身にまとっていたことが、石原莞爾の東亜連盟に賭ける決意が現れていると思います。

陸軍省は、石原莞爾の辞職願を慰留し病気療養扱いとしたが、この間、茨城県の大洗海岸で静養中に、東亜連盟の構想は石原莞爾の中で固まったといいます。昭和14年の秋、東京の協和会本部を拠点として、月刊誌『東亜連盟』が発刊され、全国的に会員が募集されました。このとき、石原莞爾はまだ現役の陸軍中将であり、運動はまだ、必ずしも反政府的な色彩を帯びていませんでした。

東亜連盟誌の題字を書いたのは、石原莞爾の盟友である板垣征四郎であり、創刊の辞は、戦後、建設大臣などを務め、「元帥」と呼ばれた木村武雄です。(孫は石原莞爾平和思想研究会)題字は毎号人が変わり、第二号では公爵・近衛文麿、以下は陸軍大将本庄繁、陸軍大臣畑俊六、総理大臣米内光政と続くのです。この顔ぶれを見ても、この運動が政界と軍部のある程度の認知を得ていたことが解ることでしょう。

主な執筆者は、「満州産業開発五ヵ年計画」の立案者であり同志である宮崎正義、国柱会の里見岸雄、満州国国務大臣の張景恵、国民政府院長汪兆銘、農民運動化の加藤完治、陽明学者の安岡正篤、哲学者の三木清、作家の尾崎士郎、変わったところでは、戦後右翼の児玉誉士夫もいます。同じ頃、石原莞爾にとって大きな出来事がありました。師であった国柱会の田中智学が亡くなったのです。昭和14年11月7日のことです。その1年後には海軍中佐であった私の祖父もこれからの日本の行く末を見ずに亡くなるのです。

国柱会の田中智学の死と『東亜連盟』誌の発刊が重なったのは、偶然とは思えないと宮下隆二著書のイーハトーブと満州国に詳しく描かれています。ちょうどこの時期をきっかけにして、石原莞爾の思想が、法華経を基盤とした理想郷の建設から、アジア諸国の連帯へと大きく飛躍していくのです。開祖である田中智学を失い、求心力を喪失していた国柱会や近衛文麿の新体制運動と体制翼賛会の成立により、東亜連盟の政治運動としての可能性は、ほぼ途絶え、戦後はマッカーサーによって解散させられましたが、現在も石原莞爾平和思想研究会の会員の中には国柱会会員の幹部も加わり、多くの政治家を輩出しているのです。

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