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石原莞爾平和思想研究会コミュの日中戦争終結を望む

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石原莞爾は日本軍が南洋諸島にあまりに多くの兵を分散し、開戦後数ヶ月の間に薄く展開しすぎていると批判しました。それは本質的に正しい指摘でした。しかし、石原莞爾の主たる関心は、『東亜連盟』誌上で論じているように、日中戦争の終結です。日本は中国で兵力を消耗し続けながら、アメリカ合衆国と戦争するのは、勝つ希望を持ちえないと、力説しています。当然、石原莞爾は東亜連盟こそが、日中戦争を終わらせる最善の手段であると主張し続けたのです。

1944年のサイパン島陥落により、軍事的勝利の見込みが全くなくなりました。日本が破滅を避ける望みは、ソ連への働きかけを通じて、英米との間の亀裂をなくすことだと軍部は考えることになっていました。だがロシア人の反応は消極的だし、日本人が反共産主義なので、そのような和解は認められないと石原莞爾は考えています。

戦争の最後の数年間、石原莞爾は軍事的闘争を続行する様々な方法について、語っていました。満州に最後の砦を作るべきだと提案し、戦争の最後の何年かは、陸軍が長野の山中に退却して最後の戦いを続行しても、日本の民間人はアメリカの侵攻軍に抵抗せず、降伏するように言っています。石原莞爾がそうした意見を述べたのは、既に敗戦後の日本の再建に向い始めていたからでしょう。

太平洋戦争での日本の戦争指導について、石原莞爾が戦後述べたことの多くは、自己正当化と後知恵によって潤色されているように言う人もいるでしょう。しかし、東京裁判の証言の中で、日本は確かに物質的には劣勢であったが、もしうまく戦略を立ててそれを実行していれば、負けるはずなかったと公言しています。アメリカの記者マーク・ゲインに対して、石原莞爾は自分が総司令官ならば、日中戦争を終わらせ、「どこに根拠地を求めるべきか」判っていたので、日本の防衛線を強化していたと述べています。

こうした論評は、1942年以来日本の軍事的、政治的指導を一身に集めた東条英機に対して、石原莞爾が戦時中反対し続けたことの反映にすぎない。石原莞爾は東条英機を全くの無能であるとみなしていました。1942年末に東条英機が会見を申し込んできたのですが、石原莞爾はあなたには国家を運営し戦争を遂行する能力はないので、身を引くべきだと面と向かって言っています。

これには東条英機も激怒した。さらに石原莞爾が1944年夏の東条暗殺未遂事件に関係しているのではないかという噂が立ったのだが、なぜか処分しませんでした。暗殺計画は、中央部の下級将校数名と少なくとも1人の東亜連盟協会員によって企てられたと言います。石原莞爾は、鶴岡から軍法会議へ証人として呼び出されました。色褪せた軍服に下駄という姿で東京に現れた石原莞爾は、その処置を軍閥の猿芝居だと即座に批判しました。政府は憲兵隊の厳しい監視の下に、石原莞爾を鶴岡へ帰しました。監視は戦争終結まで続きました。

石原莞爾は敗戦直後、「降伏内閣」を組閣した東久邇宮から、内閣顧問になるよう依頼されましたが、政治の動向にほとんど関与しませんでした。石原莞爾が顧問就任を断ったのは、東亜連盟理念の普及のために、時間を使いたいという理由のためだったのです。

コメント(3)

タクさん、こんにちは。
ご無沙汰してpります。
お元気」ですか?
私も何かと忙しくしております。
義母と二人、腹をたてながら暮らしております。(笑)
>>[1] みっちゃん。同志、こんにちは。
お元気ですか。
私は生死をさまよいました。
忙しいのはいいことです。
義母は大変ですね。
総会の委任状、ありがとうございます。(^_-)-☆
>>[1] みっちゃん。同志、こんにちは。
書留が届きました。
委任状を確かに受け取りました。
また、お見舞いをいただき感謝いたします。
季節の変わり目みっちゃんもご自愛くださるようお願い致します。
いつもありがとうございます。(^_-)-☆

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