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石原莞爾平和思想研究会コミュの西山農場での共同生活

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山形県にある西山農場では、石原莞爾将軍と50名ほどの東亜連盟同志たちが、共同生活をしていました。その中には初代極真会館館長大山倍達に空手を教えた曹先生のような朝鮮半島出身者がおり、曹先生と弟子である大山倍達も一緒に鍬を握りました。集落長の武田邦太郎先生(前参議院議員)のような農業専門家や、稲垣志向のような画家もいました。もちろん私の父もここで同じ釜の飯を食べていました。

農工一体の「工」については、製塩工場を運営することになった石原旧知の土光敏夫氏が、設備の設営をしました。工場は、当初うまく稼動していたのですが、一年もたたないうちに、釜が塩で腐食してしまい、動かなくなってしまったと言います。農は、もともと砂地だったためであり、開墾自体はたいした手間を要さなかったのだが、土地は農作に適さず、辛うじてイモや麦、スイカなどが実るだけで、それらの作物も強風のために一夜にして折角の芽が根こそぎ吹き飛ばされることが度々あったといいます。

農場の生活は、簡素生活というよりも、人間の堪え得る最低の生活に近く、理想に燃えて参加しながらも、脱落するものが後を絶たなかったのです。この農場で、石原莞爾将軍は六畳の土間と四畳半の部屋しかない、文字通りのあばら屋に起居していました。小屋には塀などの遮断物はなく、冬に風が吹くと、石原莞爾将軍が病臥していた畳が持ち上がることもあったといいます。私も石原六郎氏存命の頃は何度も足を運びました。

石原莞爾将軍が長年農業顧問として師事してきた池本喜三夫氏の敏子氏が、石原莞爾将軍の媒酌で桐谷誠氏に縁づき、西山での生活に加わりました。石原莞爾将軍の弟、六郎氏の死後、土地は武田邦太郎先生ら残った参加者に分割され、大半が役場に買い取られ、住宅地として造成をされました。石原莞爾のお墓の土地は石原莞爾顕彰会で買いきれなかった分は父が生命保険を解約して購入しました。

その住宅地の一角に、桐谷さんが今も住んでいます。数ヶ月前に武田邦太郎先生の家に行った時に桐谷さんの自宅でお茶・・・、、、( ^^) _旦~~をご馳走になりました。お茶は私がいれましたが(笑)武田邦太郎先生も週に一度は桐谷さんのご自宅まで来てお話するそうです。桐谷さんが記憶している石原莞爾将軍は、まさしく菩薩のような人物で決して声を荒げることがなく、優しい声音で話す。病勢が落ち着くと、冗談をたやさないでいると。

しかも、家庭関係にたいする配慮がきわめて濃やかで、てい子夫人が桐谷さんに用を頼むときには、必ず夫の桐谷誠氏を通して、直接に支持したりしないよう、云いつけていたという。かくして、その理想の追求の試みが、砂地に埋没するのを眺めながら、あばら屋のなか、石原莞爾将軍は菩薩のように微笑みながら、この間病魔に苦しんでいたのです。

石原莞爾将軍の病状は、悪化の傾向をたどるばかりで、肺に水が溜まっていて、横になると呼吸ができなくなるくらいだった。8月15日午前5時5分、私の父の自らの血を何度も輸血したのにもかかわらず石原莞爾将軍は最後の息を引きとったのです。石原莞爾将軍は亡くなりましたがその教えは現在も石原莞爾平和思想研究会として受け継がれているのです。

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