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石原莞爾平和思想研究会コミュの近隣諸国の独立

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スターリンは日本が屈伏する前に、日本に侵攻しなければならないと急いだ。ドイツ戦争の疲れから癒えない将兵を激励して、シベリア鉄道を、開設以来かつてないスピードで運転して、兵力を極東に集中しました。8月8日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ソビエト軍はソ満国境を越えました。ソビエト側の将兵は総数160万、戦車5千台余、航空機4千機以上という圧倒的な兵力で、西、北、東の三方から満州になだれ込んだのです。

兵力、装備の差、奇襲されたことなどから、勝機は絶無ですが、それでも関東軍のいくつかの部隊は執拗な抵抗を試み、相当の損害を与えました。また一方で、慰留民の安全確保を放棄して、後退する部隊もあったのも事実です。ソビエト軍は、南へと逃れる開拓団の老若男女を殺到し、ハルビンで、新京で、奉天で、破壊と略奪の限りをつくしました。満州国の充実した重工業の設備を始め、主要な機会や財貨などすべてがソビエトに持ち去られました。そのなかには、何ら国際法上正当性のない仕方で連れ去られ、抑留された60万人の将兵らもいたのです。

運良くソビエト軍の魔手を逃れた慰留民たちも、飢えや現地住民らによる暴行、略奪などで命を落し、家族の離散も強いられました。さらには朝鮮半島まで辿りつきながら、平壌などの収容所に入れられて、飢餓や疫病で命を落したものも少なくなかったのです。満州国総理である張景恵は、日本の敗北を悲嘆して、声をあげて泣いたといいます。張景恵は五族協和の理想を信じていたのです。張景恵の真率な悲しみを熙洽が嘲笑しました。溥儀は、ただ自分の身が、中国側の手に落ちることを恐れていたのです。

ビルマは、1943年8月に、バーモウを首班として独立しました。国軍司令官アウンサンは、イギリスが進攻してきた後にも独立を維持するために、イギリス東南アジア軍司令官マウントバッテンと交渉をしたが、イギリス側はビルマの英国連邦のなかでの自治を主張した。戦後日本に亡命していたバーモウらもアウンサンと連携し、イギリスにたいする独立運動をすすめて、ついに1948年1月、完全独立を果たしたのです。

ベトナムでは、1945年3月に日本軍の支援のもとアンナン皇帝バオダイを擁して独立を宣言していたが、8月15日のバオダイの退位とともに、16日ホーチミンが主席となり、ベトナム民主共和国が成立しました。インドネシアの独立は小磯内閣の成立と共に国策として承認され、3月に日本とインドネシア側共同での独立準備調査会が発足し、8月17日にインドネシア共和国の独立宣言が行われた翌日、スカルノが首班として選出されたのです。

玉音放送の余韻がやや治まった頃、石原莞爾は落ち着いた声で云った。「敗れたとはいえ、東亜の大義は滅びません。日本が敗れてこそ、東亜の道義と平和は達成されるのです。みなさん、力を落す暇はありません。力を落す場合でもない。むしろ奮い立って東亜連盟の創立のために邁進すべき時が来たのではないかな。」と言った。東亜連盟は占領軍マッカーサー司令官に潰され、その後、名を協和会と変え、現在は石原莞爾平和思想研究会として恒久平和のため活動を続けているのである。

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