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石原莞爾平和思想研究会コミュの満州国へ帰還して

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石原莞爾が満州を去ったのは1932年のことですが、5年ぶりに戻ってきた時には状況は一変していました。満州における政治的独立と民族の協和と平等に希望を抱いていたのですが、この希望は、関東軍の内面指導により、満州国政府の隅々にまで息苦しい支配という官僚の暗影の中で朽ち果てていたのです。石原莞爾が恐れたように、日本の民間人も軍人も、奴隷状態にある傀儡国家で、権力的、特権的地位を確立し、独占していたのです。満州全民族にエネルギーを注入する中心であったはずの協和会でさえ、満州国官僚制度のなかに組み込まれ、関東軍が指揮を執り始め次第に衰弱して行ったのです。

満州国の日本人の中では、特に関東軍参謀の辻政信大尉や、若干の民間の協和会創立者や石原莞爾の満州派関係者などが、石原莞爾が関東軍に戻る数年前から、この傾向を是正しようと努めていましたが、彼らはどの方面でも妨害を受けました。関東軍当局、特に当時関東軍憲兵隊司令官の東条英機は、協和会の影響力を復活させるいかなる企てにも反対する方針を堅持し、東亜連盟の理念を宣伝する協和会の出版物を、政府転覆の恐れありとして禁止したのです。

こうして石原莞爾が満州に着いた時には、関東軍参謀部での立場と実際の変革能力は、同地で石原莞爾に同調する改革派が失脚したことによって既に弱まっていたのです。それにもかかわらず、石原莞爾は同じ関心を抱き、しかも極めて情熱的であったので、まもなくこのグループとの関係が復旧し、彼らに代わって戦うことになりました。そうするうちに、石原莞爾はもう一つの厄介な問題に直面しました。

それは関東軍が一般にその特権と優先事項に変更を加えることに反対しただけでなく、協和会に特に復讐心を抱く東条英機が、何と前年3月に関東軍参謀長に昇進していたことでした。頑固者で評判の東条英機が今や石原莞爾の直属の上官となったので、関東軍の政策に対するあからさまな挑戦は危険な仕事でした。だが、石原莞爾はそれを止めようとはしなかったのです。

公の場で、石原莞爾は関東軍司令官へ地道に覚書を書き送って、意見を具申しようとしました。そのメモのなかで、石原莞爾は満州の現状に反対し、明確な政策転換を行うよう熱心に勧告しました。こうしたやりとりから、どの場合も石原莞爾の反対論に共通するテーマを幾つか引き出すことができます。第一に、関東軍は内面指導政策を放棄し、特務機関を廃止して、満州国に新鮮な自治の空気を吹き込まなければならないと、石原莞爾は力説しました。5年前のように、石原莞爾は日本が満州に有する特権はすべて満州国政府に引き渡すべきだと論じたのです。協和会は官僚的体質を一掃し、満州における政治的権威の指導的な源として復活するべきであると述べました。

第二に、石原莞爾はアジア大陸におけるソ連の軍事力が、危険なほど優越していると指摘しました。満州へのこれ以上の政治的介入を慎み、司令部を簡素化することによって、関東軍は同地での日本の軍事的地位を維持強化することだけに注意を集中することが出来る、と論じたのです。この点に関して、関東軍は日本政府に対して、満州に駐在する軍隊の規模を拡大すること、日本からの海上通信の防御を強化すること、満州国内の鉄道輸送能力を向上させること、何よりも、大陸での圧倒的な空軍力を確立することなど、緊急の必要措置を求めるべきであるとしたのです。

最後に、石原莞爾は満州国における日本の政策変更が、アジア連盟の成否の鍵であると繰りかえし論じました。もし内面指導政策を止め、満州国が民族の平等と協和の成功例となるまでに発展し、その結果、日中提携の可能性が実証されれば、中国を東亜連盟に加盟するよう説得できるであろう。石原莞爾によれば、この連盟自体が日中戦争を解決する唯一の道で、しかも、その連盟内での中国との協力と無比の空軍力とが、最終戦争に備える決定的に重要な要素であると結論付けました。こうして将来の日本の外交政策は、専らアジア連邦を効果的に実現できるか否かという基準によって判断すべきだ、と主張するのでした。

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