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石原莞爾平和思想研究会コミュの 石原莞爾の生涯

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1889年1月8日、庄内藩士の末裔である警察官の次男として、山形県鶴岡に誕生した石原莞爾は、13歳にして仙台の陸軍幼年学校に通い、軍人の道を歩み始めました。次いで、東京の中央幼年学校で更に2年間訓練を受け、1907年、暮れ陸軍士官学校へ入校しました。第21期生です。1909年7月、同校卒業後、少尉を拝命し、東北地方の歩兵連隊付小隊長に任命されました。1910年、日韓併合後、連隊は朝鮮半島へ渡るが、石原莞爾は最初ソウルから25キロ北東の小さな駐屯地、春川に赴任し、後に当時ソウル郊外にあった竜山の連隊本部勤務となりました。2年間の朝鮮での当番勤務の後、連隊と共に東北地方へ戻り、1915年に難関の資格試験に合格して、陸軍大学校に入学しました。大学での成績は群を抜いていて、1918年11月、陸大を次席で卒業し、自動的に軍刀組という軍内のエリート中のエリートにランクされることになったのです。

1920年、石原莞爾は教育総監部で軍人として不満のたまる仕事を終えると中国勤務を志願して漢口の中支那派遣隊へ赴任しました。この駐屯地での一年間の勤務の間、職務を最大限に利用して華中を広く馬に乗って旅をしました。1921年、東京に帰還した後、陸軍大学校兵学教官に任命され、そこで1922年6月まで教鞭を執った。石原莞爾はもう一度中国への赴任を希望したが、上官は将来のために、ヨーロッパへ留学し、前途有望な青年将校として、通常のエリート・コースを歩ませるべきだと考えた。その結果、石原莞爾は語学研究ならびに個人研究のために3年間ドイツに派遣され、個人研究の大半を戦史研究に費やした。1925年10月、少佐に昇進した36歳の石原莞爾は、再び戦史担当の陸軍大学校教官に命じられたのです。

職業軍人として歩み始めた当初から、石原莞爾は想像力に富み、空想的で、一風変わった将校でした。実際、日本の軍官僚によくありがちな癖のない、順応的な性格と比べると、個性が際立っていました。石原莞爾平和思想研究会の最近の精神分析的研究によると、人格は生涯つきまとった病弱という問題と深くかかわっていると言います。石原莞爾が、1931年の満州事変で作戦指揮を執っている時や、2・26事件で大活躍をしている時を始め、生涯の重大な時期に、様々な慢性病に悩まされていたのは事実です。腎臓感染症、胃腸障害、中耳炎など、数々の病が体力を奪い、60歳にして亡くなってしまうのです。しかし、その容貌と人格から、石原莞爾を病弱と思う者はいません。むしろ、写真からは頑健な人間という印象を受けます。

そして、石原莞爾は苛酷な事件で積極的に活動したが、その活動が病身のためにひどく妨げられたとは思えません。このことは石原莞爾が本来精力的で、バイタリティーに溢れ、勇敢であったことを物語っているようです。しかし、石原莞爾は苦痛に満ちた病が、いつも重荷になっていたということ確かな事だったでしょう。晩年出血がひどい石原莞爾に直接輸血をした私の父が語っていました。

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