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石原莞爾平和思想研究会コミュの蒋介石の後ろにはドイツが

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日中戦争の拡大は、防共協定によって結ばれた日独関係にも、緊張をもたらしていました。1927年の反共クーデター以降、孫文以来のソビエトとの密接な関係を毀損してしまった国民党はドイツへと接近したのです。張学良が、ヨーロッパ周遊以来、ファシズム、ナチズムに心酔して、その綱領を自軍に取り込んだことが象徴しているように、満州事変以降、国民党は積極的にファシズム政党への脱皮を図り、蒋介石自身、ファシスト団体を指導して党内基盤の強化を図っていたのです。

ドイツにとっても、国民党政府との協力は、極めて好都合なものでした。第一次世界大戦の後、ヴェルサイユ条約のもとで軍備を制限されていたドイツにとって、中国は魅力的な武器市場でした。軍事顧問団を中国に送り込み、大量の武器、軍事物資を中国に供給することによって、軍事産業の成長を図ることができるからです。

そのために、ドイツは当初ゼークト元帥、後にファンケルファウゼン中将が主導する異例の高官からなる顧問団を南京に送り込み、大戦から戦後内戦にいたる武勲で飾られた元帥の顧問団への参加は、蒋介石をはじめとする国民党幹部の心を強く満たしました。武器体系の構築はもちろん、用兵、練兵、要塞建築、対戦略までを徹底的に指導した。中国共産党絶滅の淵に追い込んだ第四次作戦は、ドイツの軍事顧問団の作戦立案のもとで行われたのです。

国共合作の成立の後、ドイツ軍事顧問団の課題は、対日本戦略の構築でした。ファンケルハウゼン中将は、鉄道等の輸送設備が十分でないことを理由に、華北正面での衝突を避け、上海―南京の線で戦闘をすることにしました。中将は、日本の国力を疲弊させることを戦略目標とし、大規模な衝突を繰り返しつつ、決戦に至る前に前線を後退させて、日本軍を大陸内に引きずり込もうと考えたのです。退却に際しては、都市や農村の資源をすべて移送、破壊することで、日本軍に物資の補給を許さないという焦土作戦を取ることで、日本軍の補給線を限界まで延ばさせる中将の作戦は、蒋介石の「空間をもって時間に替える」戦略として知られることになります。

そのとき蒋介石は抗戦のための全面的な戦略を決定していた。これが世にいう『空間をもって時間に替える』戦略であって、時間をかせぐために必要に応じて空間が放棄されるが、敵はそのような空間を得るために人的、物的に高価な代償を支払わなければならないのです。一種の焦土戦術がとられて、中国軍の放棄した地域には敵の利用する家屋も食糧も残されない。この独特の戦略によって、日本軍は奥地深くおびき寄せられ、その戦線は希薄に広がり、輸送路は延びすぎて丸裸になってしまったのです。

ファンケルハウゼンは、蒋介石に、対ナポレオン戦争におけるロシア側の戦略を授けたのでした。戦争の初期正面として予定されていた上海には、ドイツ軍事顧問団の指導のもと、最終的には30個の精鋭師団が投入されるとともに、念入りな陣地構築が行われました。ヒンデンブルク・ラインなどと名付けられたいくつもの防衛線が、第一次大戦の豊富な塹壕線の経験をもとに構築されたのです。石原莞爾はこの辺りの戦略は十分に研究熟知していました。まぁ〜石原莞爾自体は蒋介石との衝突を避けよう避けようと努力していたので戦闘として指揮をとることはなかったでしょうが。

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