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石原莞爾平和思想研究会コミュの東條軍閥VS東亜連盟

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石原莞爾は昭和16年3月1日、京都の師団長を最後に、東條英機に首を切られました。東條は陸軍大臣になると、すぐにでも石原莞爾の首を切りたいのを我慢して、1年待って、それとなく首を切ったところに東條的苦心が現れています。東條英機が石原莞爾を首にした理由は、石原莞爾が政治に関与したというのだが、これは全くの反対で、石原莞爾こそ軍人の政治関与を硬く戒めていましたので、実は他に理由があったのです。

代議士の中で、東條英機に反対する者が、東亜連盟協会(現石原莞爾平和思想研究会)の木村武雄代議士を中心に集まってきました。この動きは東條英機にとっては薄気味の悪い存在でした。当時、東條の弾圧下にあって、なお独自の運動を続けていた団体は、東亜連盟運動だけになっていたのです。東亜連盟運動は、国外にあっては中国との和平運動として展開され、国内にあっては東條の軍閥独裁に反対する運動として展開されていたのです。

東條英機は、各方面にスパイを配置していました。板垣総参謀長のところには、土橋勇逸を参謀副長としてつけていました。昭和16年1月、日本から南京に東亜連盟関係の代議士の視察団一行がやって来た。この代議士の南京訪問には、石原莞爾は最初から賛成していなかった。この視察団は、ただ南京を見物したいために加入したピントのはずれた代議士も混じっていたため、恥さらしになるような失態もあったのです。しかし、東亜連盟関係の代議士が中国に出かけたということが、東條英機を激怒させました。スパイの土橋がこの代議士団一行の動きを監視していたのです。

この視察団が出す声明書は、石原莞爾の拶挨を参考にして作っています。この拶挨というのは、前年に中国側の視察団が日本に行ったことがあり、その時に視察団は東條英機の意見に反して京都にいた石原莞爾のところに経緯を表しに行ったのです。その際に石原莞爾がした挨拶でした。この挨拶は中国側に深い感動を与え、彼らは、南京に帰って来ると早速、この石原莞爾の挨拶を印刷して密かに配布していたのです。

彼らは「私たちは日本に行って、沢山御馳走になり、大変に歓待を受けたが、心にふれるものは何もなかった。ただ石原さんの言葉だけが一番うれしかった。」と語っていたのです。声明書は、「日本と中国とはもともと東亜の兄弟なのに、こんなつまらない戦争を引き起こして、中国のみなさんに対してまことに申し訳がない」という意味のものです。この声明書が日本の新聞にも掲載されました。

これを読んだ南京総軍司令部の軍閥たちが怒り出し、作戦参謀をしていた眞田穣一郎が軍刀を片手にどなり込んで来て、「我々は、天皇の御命令によって支那で戦争をしているのに、何を文句いうか。この声明書を書いた犯人を出せ。」と喚き散らした。代議士団は青くなって、新聞記者が名乗り出ると、「ただではすまさぬ」怒り出したが、これを板垣総参謀長の計らいで治まったのです。

コメント(2)

ありがとうい御座います。

歴史を感じました・・・私は知らないことが多すぎます。あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
>>[1] こちらこそ、ありがとうございます。

私も知らないことばかりです。(^_-)-☆

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