ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

石原莞爾平和思想研究会コミュの過去の自分の政治活動と無念の繆斌工作

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「たかせ真木」出陣式次第 2007年4月15日 10:30より私が司会で行いました。高瀬真木とは幼馴染で、原宿時代からお墓までもが一緒です。自然あり、歴史あり、祭りありと、1500年の歴史を持つ、流山市から介護と子育てを柱に水と緑、音楽のまちづくりを行う為に後輩の高瀬真木が立候補を決意して出陣式を迎えることとなりました。

若い頃からハートが熱く、気持ちは真っ直ぐの性格です。高瀬真木を全面的にバックアップしてくれているのが、当時の民主党千葉県・第7総支部長 衆議院議員の太田和美様です。さらに、民主党千葉県・総支部・連合会代表 衆議院議員の長浜博行厚生労働大臣、元環境庁長官 民主党参議院議員の広中和歌子様、民主党千葉県・第8区・総支部長衆議院議員の松崎公昭総務副大臣などなどです。

元参議院議員・石原莞爾平和思想研究会顧問・武田邦太郎先生や元野田市議会議員 議長・石原莞爾平和思想研究会・副会長である戸邊榮一様よりも応援しています。真木が尊敬できる祖父、松崎良太郎様は、元千葉県・議会議員で、御年96歳です。高瀬真木も石原莞爾平和思想研究会の青年部会の役員及び会員です(〃⌒ー⌒〃)ノ

この時から気になるふざけた議員がいました。民主党4名の候補者の中でも多くの議員さんが応援にかけつけて来ていたのですが、出陣式に出席となっていてドタキャンしている方が連絡しても返事なしです。自分が当選したらこうですからね。

クリスマス会のときの事件でも逃げちゃったしこれが千葉県議会で一番若い議員・花崎です。このころから不真面目で先が思いやられると思われていたのですね。当時、日本一若い太田和美代議士とは比べ物になりませんでした。現在は日本新党を立ち上げた石原莞爾平和思想研究会から武田邦太郎元最高顧問と一緒に当選した小池百合子都知事には頑張って頂きたい、

さて、繆斌工作の話です。杉山元は、終戦直後、自刃する前に「あの時、繆斌工作をやっておけばよかった。おしいことをした。」と側近に語っています。杉山は日本軍閥の1人でした。だが、重光葵元に比べれば、杉山には、これだけのことを言う素直さがあったのです。日本では「本土決戦」が叫ばれ、全国の隣組では、竹槍の猛訓練が行なわれていました。

この日本の決意には、さすがの知日派の繆斌氏も驚いていたといいます。こんな原始的な武器で最後の決戦に国民を駆り立てようとしている日本の指導者に、繆斌氏は義憤を感じていたのです。「中国の民衆は納得の行かないことでは政府のいうことでは聞きません。日本の民衆は大人し過ぎます。日本の指導者は世界中で一番楽でしょう。日本の民衆は気の毒ですね。」

繆斌氏に対して小磯総理大臣から経費の点に関して話があったが、繆斌氏は日本の政府から金銭を受ける理由はないと謝絶したので、小磯総理大臣は繆斌氏の希望する「清朝実録」という書籍を贈ることを約束しました。しかし、これもついに実現されずに終わったのです。

繆斌氏は、直ぐに帰国せず、日本の桜を見物するという理由で、今の市ヶ谷6番町の五條珠貴方に身を隠していました。このまま繆斌氏を帰すに忍びないと最後の努力が続けられ、石原莞爾が繆斌氏に会いに山形から出て来たのです。石原莞爾は洋服に下駄ばきで航空本部総監の阿南惟幾大将に会いに出かけました。

石原莞爾と阿南大将の会談があり、繆斌工作を話し合いました。翌日、阿南大将に陸軍大臣の内命があり。さらに三鷹の阿南氏の自宅で、繆斌工作について会談しました。阿南陸相は「自主的撤兵ならする。小磯総理大臣はやめる必要はない。陸軍に繆斌工作を協力させる。」とのことだったので、この工作の重要人物であった緒方氏のところに駆けつけたが、緒方氏は総理に辞表を出して帰って来たところで一足遅れてしまったのです。

阿南陸相は、辻政信大佐を南京によび戻して、日本軍の撤兵を強行させると確約していのした。しかし、陸軍大佐になった阿南陸相は、強硬派に包囲されてしまった形でした。阿南陸相との連絡は、周囲によって遮断され連絡のしようがなくなりました。中山優氏が最後の努力に協力して、外務省関係の説得に努めたが、外務省は依然としてソ連にすがる方針を変えなかったのです。

阿南氏は自殺する直前、「もう一度石原莞爾に会いたいなあ」と夫人が語っています。山形県鶴岡の石原莞爾の家には、阿南大将の死を弔う弔旗が立っていた。彼は軍人の政治干与を禁じ、もう1度、皇軍を粛正にするつもりであったらしいが、あまりにも遅すぎたのです。繆斌氏と石原莞爾との会見は劇的でした。2人の話はつきなかった。

石原莞爾は「紙と木で出来た日本の家は、戦争なんか考えていなかった証拠です。日本の在宅を見られても日本人がもともと平和の好きな民族であったことをお解かり願いたい。東京の城は、天皇の住いではありません。あれは武家の城だったのです。日本の天皇の住いは京都にあります。京都の街のまん中に皇居があります。堀も城郭もなく、市民の誰でもが皇居を通り抜けています。日本の天皇は代々日本の民の中に住んでおられました。日本の天皇の皇居は日本の平和を表象しています。」2人は枕を並べて寝て、夜遅くまで話していた。仲のよい友達のように……。この夜、また空襲があった。遠くで爆撃の地響きがしていた。

コメント(2)

良いお話を有難うございました-・・感謝

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

石原莞爾平和思想研究会 更新情報

石原莞爾平和思想研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング