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石原莞爾平和思想研究会コミュの日中戦争突入前の出来事

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七夕の夜、日本の駐屯軍1個中隊が盧溝橋付近で夜間演習を実施して演習の終りを伝える伝令に向って突然数発の銃弾の洗礼をうけました。その発砲は中国共産党が仕組んだ罠だとはわからぬままに、中隊長は急ぎ演習中止を命じ、集合ラッパを吹かせました。そこへまた10数発の銃弾が打ち込まれたのですが、この時点では日本軍は応戦していません。部隊に帰った中隊長は、この出来事を大隊長に報告し、大隊長から北京城内へ出張中の、牟田口廉也連隊長のもとへ電話連絡され、牟田口はこの事態を重く見て、こう命令した。「盧溝橋駐在の中国軍に威力調査、謝罪を要求せよ」

この命令により豊台では兵を非常呼集して、盧溝橋と交渉するため部隊を前進させました。すると中国側から再び、銃撃が加えられたのです。そこで一木清直大隊長は永定河堤防陣地の中国軍に反撃を開始して、日中戦争がはじまったのです。日本軍はたちまちその堤防一帯を占領しました。その勢いで軍は盧溝橋城の中国軍に撤退を要求し、それに応じなければ攻撃すると通告し旅団長河辺正三少将も現地に到着し、攻撃するよう命じました。

その一方北京では、特務機関長松井久太郎大佐が、日中軍衝突を避けるための交渉が、中国軍首脳部と重ねられていた。幸いこれが成功し、中国側が盧溝橋から永定河右岸に撤退する協定が成立したのです。これで事件は一応解決を見たはずだったのですが、陸軍省でも参謀本部でも、華兵出兵の気運が急速に高まり「この好機をのがさず、中国軍に一撃を加え、華北を支配下におこう」関東軍と朝鮮軍にもこの意向を打診すると、すぐ返事が返って来て「その準備あり」参謀本部第三課長武藤章大佐や陸軍省軍事課長の田中新大佐らはこう公言して息巻いた。「ただ一撃で、中国は降伏する」

しかし軍内部では、事件の拡大に反対する声も強かった。参謀本部では参謀次長多田駿中将、第一部長の石原莞爾、陸軍省では軍務課長柴山兼四郎大佐です。石原莞爾は明確にこう言い切った。「中国とは戦ってはならない。戦えば、必ず持久戦となる。今は対ソ連準備を完成するのが急務である」それが7月11日の閣議で、今度の事件は、中国の計画的武力抗日と断定し、その日の夕方には、中国出兵の声明を出してしまった。このときの首相は近衛文麿だった。近衛文麿は軍部、政党、財界からも期待をもって迎えられ新鮮味が溢れていた。

昭和天皇は事変の拡大を憂慮され、7月14日、侍従武官宇佐美興屋を通じて、天津の北支派遣軍司令官香月清司に書面を送った。事変を拡大せぬように――。香月は天皇と軍との板ばさみになって苦悩した。しかし事態は香月の意図することとは反対の方向に進んで行ったのです。近衛内閣の中国出兵声明は、中国側に想像以上のショックを与えました。中共中央委員会はこれを中華民族の危機と受けとり、今に伝えられる有名な言葉があります。「北京があぶない。天津があぶない。華北があぶない。中華民族があぶない」

南京政府主席の蒋介石も演説してその決意を示した。「いまや中国は生死関頭にあり。予も国を挙げて抗日体制の先頭に立つ」その間、石原莞爾は参謀本部で、こう叫び続けた。「今のわが国の動員可能師団は30個師団で、うちその半分の15師団しか中国に当てられない。これではとうてい全面戦争はできない。だが、このままいけば全面戦争化、長期化の危険がある。戦争を拡大すれば、戦史が示すように、スペイン戦争におけるナポレオンと同様、底なし沼にはまることになる。この際わが軍のとるべき道は、思い切って華北にあるわが軍隊全部を、一挙に山海関の満州、中国の国境までさげるべきである。そして近衛首相みずから南京に飛び、蒋介石主席と膝を交えて会談し、当面する根本問題を解決していただきたい。そのときにはおよばずながら、この石原も同行させていただく用意がある」

戦時編成で30師団は約17万2800人です。その半分だとすれば、9万人にも満たない。意外と少ない兵力です。これでは広大な中国大陸では戦えないのだが、近衛は南京に飛ばなかった。事変拡大論は日増しに強まるばかりだったのです。また参謀本部内でも連日不拡大、拡大をめぐって激論が交わされていました。拡大の急先鋒は作戦課長の武藤章で、武藤は部長室で石原莞爾の前に立ちはだかり、右手を振り上げ、目をぎらつかせて「部長閣下、支那討伐の大動員をいつやるのでありますか」

石原莞爾は冷静に応じた。今自分が冷静さを失えば、武藤をいきり立たせるだけだと思っていた。「動員はせぬ。不拡大だ」「それはいけません。どうしてやらないのでありますか。やるなら今です。今やらないでいつやりますか」「作戦課長、落ちつけ。まだ話合いの余地は残っている」「それは部長閣下らしからぬご発言です。それでは支那軍を増長させるだけです。ここはどうしても一撃を加えなければなりません。それから交渉して十分間に合います。わが国にとって、有利にこそなれ、不利になることはありません」「それは違う。蒋介石は全面抗戦を叫んでいるのだぞ」「そのような弱腰では、現地軍は納得しないでしょう。閣下、何とぞご決断を――」「駄目だ。あくまでも不拡大だ。現地軍にはこれで行ってもらうしかない」

武藤章(のち中将)は大東亜戦争後、「東京裁判」で戦争指導責任を問われて絞首刑に処せられています。同日、参謀本部戦争指導課の高島中佐が自分の意見書を武藤に提出した。それには今事変を拡大することが、いかに無謀であるかが説かれていた。武藤はそれに一通り目を通すなり、高島をどなりつけ、引き裂いてしまった。「こんな作文を書いて、何になる。腰抜けのたわごとだ」そればかりではなかった。石原莞爾が現地軍と長期電話で細部にわたり不拡大の指示を与えると、それが終わるやいなや武藤は、別の送話機で進撃を指令していたのでした。

コメント(4)

タクさん 武藤章さん 終戦時 マレーの虎の山下奉文さんのフィリピン防衛の参謀長だったそうですね・・・。ある意味 名コンビだったそうですね・・・本石原さん フィリピンに赴任される山下さんを評して「かわいそうだけど山下は 日本の地を帰ってくることが出来なくなる・・・」と予言したそうですね・・・。武藤さんも 後日 日中戦争拡大の事を回想して「石原さんのいうことは正しかった・・・」と言っていたそうですね・・・。あの時 石原さんの言っていることで皆で結集していれば 歴史も変わっていたのではと思わせるのが石原さんなのでは・・・。僕の妄想ですか・・・!?
>>[1] 名コンビだとは思いません。東條の犬のような存在が武藤です。山下奉文大将の最期を見届けた牧師である片山氏の記憶のお話である。山下将軍は、さすがに冷静であった。将軍は片岡さんたちに語った。「君たちが日本へ帰ったら、人々に告げてほしい」と前置きして、戦死者の遺族に対し、総指揮官として謝罪したい、自分は指揮官として最善の努力をしたと信じ、この点は何ら恥じないが、にもかかわらず無能だったといわれたら、返す言葉がない、今後の日本の将来を考えたとき、義務の履行、科学教育の振興、幼時教育の重要性、という3点を忘れずに訴えてほしい、……等々。

また敗戦の後、自決を真剣に考えたが、司令官としての事後処理のため機会を逸し、「ために屈辱的な裁判を受け、軍人としての名誉を傷つけるはめになった」と残念そうに言われた。山下将軍の名が一般に知れ渡ったのは、大戦初期のマレー・シンガポール半島攻略のときだった。当時、休戦を申し入れてきた英軍司令官パーシバル将軍にたいし、山下将軍が机をたたいて「イエスか、ノーか、返事せよ!」とどなったという話があり、「マレーの虎」というニックネームがついた。

反面、日露戦争の乃木大将の態度。敵将ステッセル将軍に対する紳士的扱いと比較して、非難する空気があった。山下将軍は最期のとき、これを非常に気にしておられた。そして「あれは新聞記者の創作だ」と言われた。「あのとき、休戦にまつわる交渉がややこしくなり、パーシバル将軍がすっかり困っていた。私は見かねて、副官に、『細部のことをうるさく言う必要はない。イエスかノーかという結論さえ出してもらえばよい』と口をそえた。

細かい問題でパーシバル将軍をそれ以上、痛めつけたくないと思ったからだ。ところがそれが誤り伝えられた」真相をどうか伝えて、誤解を晴らしてほしいと念願されていた。話しながら、将軍は何かを飲んでいた。ビールであったかウイスキーであったか、片岡さんの記憶は定かではない。だれがいつ部屋へそれを持ち込んできたのかも、どうしても思い出せない。ただそのとき、将軍が口走るように叫んだ一言がある。

「俺は東條の奴に売り飛ばされたんだ!」あの一言が、今も耳に焼きついている。その具体的意味については、何も説明されなかったが……。突然、見張りのMPがどなった。「10分前!」室内の空気がピーンと張り詰めた。森田さんが静かに読経をはじめた。MPが数人やってきて、将軍を立たせ、皮のバンドで手足を固定してしまった。そして、中でも屈強なのが2人、両側から将軍の腕をかかえて、まるで走るような速さで刑場へ向かう。
タクさんの文章を読み、いつも、感動します・・・良く本を読まれ学ばれているのには、頭が下がります。
何時も、うなずきながら、拝見しています・・・
石原莞爾氏は、常に冷静な判断をされる方だったんですね・・・

国防とは、国策の防衛なりと莞爾将帥見聞記にありました・・・・大東亜戦争敗戦の結果は反省と謝罪

後後、矜持を確立することが必要だったのでしょうね。

またまた・・・勉強になりました・・・・・ありがとうございましたチューリップクローバー

私なんかわからないことばかりです。
同志はすごい方ばかりですから。

東亜連盟運動は日本(朝鮮は高度の自治を獲得して民族軍隊をもつ)、満洲国、中国を主体とし、(1)政治の独立、(2)経済の一体化、(3)国防の共同の三原則による国家連合をめざした。第4に、汪兆銘氏が東亜連盟中国総会を開いたころ「思想の一元」、或いは「文化の溝通」が加えられたこともある。現在の国家連合では欧州連合を除き、ほとんど「経済の一体化」が圧倒的ウェイトをもっているが、「国防の共同」が武器によらず「戦争放棄」によって厳守され、完成されることを熱願せざるを得ない。なぜなら、人類が核兵器をもって以後、武力による各国の安全、世界の平和は期待できないからである。

と書かれていますね。

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