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石原莞爾平和思想研究会コミュの白人社会への第一歩

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アメリカにおける日系移民の迫害、排斥は深刻なもので、石原莞爾だけでなく日本人全体が憂慮しつつ憤激していました。対米関係を重視し、またアメリカの反日勢力に口実を与えないために、日本の外交当局は、極めて慎重な姿勢を保持していましたが、それでもアメリカ、特にカリフォルニアにおける日本人排斥の風潮はおさまらず、1924年に排日移民法が成立するになり差別を受ける扱いになったのです。

アメリカやオーストラリアなどが、日本人移民を排斥したことは、日本と英米の、ひいては日本と国際社会の関係を緊張させました。その緊張は、単純に英米に対する敵意心が、日本国内に蔓延するということだけではありませんでした。それ以上に、移民が閉ざされたことで、日本は当時の世界秩序に対して深刻な閉塞感を抱き、その枠内では日本は国として存続できず、日本人は生きていけないという危機感を持つに至ったのです。

石原莞爾は、漢口時代に、不景気のために店をたたんで帰国する商人たちの姿を眺めながら、語っている国際情勢と、その中におかれた日本の立場の認識は、はなはだ粗削りなものではありますが、第一次世界大戦後に日本が迎えつつあった難局の核心を正確に把握していたのです。

「英米人ノ圧迫」の中で、「移民ノ道」と「工業ヲ大々的ニ発展」という課題を、同時に解決する方法として構想されたのが、満州事変でした。石原莞爾の構想は、はじめから石橋が小日本主義で展開していたような議論を踏まえていました。第一次世界大戦後における自由貿易の不可能性という認識に立って、市場たりうる空間を、英米の膝下の外に求めるという意図から満州国は作られたのです。

日本の生存のための「建国」は、満州事変の過程において、より広範囲な諸民族の生存のための場所として、石原莞爾にとらえられ、試みられ、祈願されるようになっていったのです。いずれにしろ、石原莞爾は、英米が作っていた世界秩序の姿と本質を、漢口からベルリン留学にいたる期間に、自分の仕方で把握して本人の生涯のみならず、日本の命運、そして世界史全体を変えたのです。石原莞爾が見た、第一次世界大戦後の世界秩序を、国際政治の実態に即して語ればワシントン体制ということになるのではないでしょうか。

コメント(4)

色んな、本を読みますと、日本人の戦争部隊も、あまり良い事ばかりではなく、他国から
嫌われたことも、分かるように思います・・・戦争だから,殺害しなければ日本もやられる
後世に残る嫌な話も沢山あります・・・石原莞爾氏がこの世にいたら・・当時の本筋を
聞いてみたいものです。
タクさん みみさん 後から見たら石原さん当たっていることばかりですもの・・・本
リアルタイムでは 苦しい胸の内があられたのでしょうね・・・。そんな姿は決して見せなそうな方ですものね・・・パンチ
>>[1] 大東亜戦争末期、広島では、米軍による原爆投下によって、20万人以上が亡くなり、数10万人の人々が今も放射能病に苦しんでいます。その3日後には、2発目の原爆が長崎に投下され、7万人以上の人が死亡した。広島、長崎を思うことは人の本質を考え、無辜なる被害市民に敬意を払いつつ、恒久平和のため勇気を振るわなくてはなりません。
>>[2] 我々が活動している石原莞爾平和思想研究会同志もその一団です。今なお世界各地で民族紛争が絶えず、日々流血の事態のニュースに接するにつれ、民族が協和する事の必要性はいっそう痛感させられます。なぜ、民族が違う事がそれほどまでに憎しみの感情を生むのでしょうか。

富国のため日本も中国に経済進出し、勢力を扶植しなければならなかったのは、少なくとも石原莞爾は日本と中国の安定、日中の平和的提携関係を求め続けたのは歴史の真実なのです。この歴史の真実をマインドコントロールされた日本人の呪縛を解く為に語り継がれて欲しいのです。

その想いは、今日、満州国を生き抜いた方が亡くなられているのでいよいよ深いのです。満州国の生んだ民族協和という理念が「歴史の発展とともにますます輝きを増す」ことに、直ちに繋げなくてはならないと言うのは祖先を敬う我々の責務ではないでしょうか。

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