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石原莞爾平和思想研究会コミュの日露戦争後の日本の立場

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日露戦争の勝利によって、日本は大陸進出を本格的に始めました。日露戦争中の1904年に、日本人顧問をおくって韓国の政治をすすめていた日本は、戦争がおわると韓国統監府をおいて、伊藤博文を初代統監にしました。

日本の保護国となった韓国に対し、日本はさらに韓国の政治の実権を握るようになり、軍隊を解散させました。韓国では日本の動きに反対する運動が高まり、1909年に伊藤博文はハルビンで韓国の民族運動家に射殺されてしまいました。

日本は事態をおさめるために軍隊を韓国におくり、1910年、韓国を併合し(韓国併合)、天皇直属の朝鮮総督府をおいて韓国を植民地にしました。日本は韓国国内の学校や電気、上下水道、鉄道などを整備しましたが、首都の漢城(ソウル)を京城と名前をかえ、韓国の人々を日本人に同化させる政策をおこなって反発をまねきました。

さらに日本は、ポーツマス条約で獲得した南満州の鉄道の利権をもとに南満州鉄道株式会社 (満鉄)を設立し、満州の炭鉱開発、工場建設などをおこないました。しかし、満州への進出を考えていたアメリカとは対立するようになっていきました。また、台湾でも本企業が主要工場を支配するなど、 勢力を広げました。

日露戦争で東アジアの小国である日本が勝利したことは、世界に様々な影響をあたえました。日本の勝利は、列強の支配に苦しむ中国やインド、フィンランドなどの民族運動を活発にさせ、とくに中国では孫文が、民族を独立させ、国民が政治をする民主制を実現し、国民生活を安定させるという三民主義をとなえ、1912年に中華民国をつくり、清は滅びました。(辛亥革命)。

また、国際的地位を高めた日本政府は、外務大臣の小村寿太郎にアメリカとの条約改正の交渉につかせ、1911年、関税自主権の回復に成功しました。ついで各国とも同じような条約改正が達成できて、日本は列強と対等な立場につくことができるようになりました。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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