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石原莞爾平和思想研究会コミュの昭和から平成にかけての政府

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1993年に非自民の細川護熙さんが連立政権が成立して以降、村山富市さんが自社さ連立で、そのあと首相は自民党で橋本龍太郎さん、小渕恵三さん、森喜朗さん、小泉純一郎さんと続きます。そして1年交代で3人のあと、2009年に民主党が政権を取ります。

そして、安倍晋三政権を見ていると、ぐるっと一回りしたような感じがします。こういう政治の流れも含めて、戦後政治の発展と崩壊といったプロセスを国民はどうご覧になっているのであろうか。昭和を語らなければ平成を論じることはできません。そして自民党政権を語らずして戦後の昭和という時代は語れないと思っています。

サミュエル・ハンティントン・ハーバード大学教授は、「成長と平等は両立できない。経済が急成長したときには必ず不平等が生じる」と言っているのです。自民党政権は日本が急成長するとともに、平等社会を実現させようとしていました。

自民党システムは、戦後の安定的な高度経済成長の中で、自民党政権がその成長の果実を経済発展から取り残される農民等の社会集団に対して、所得の再配分をすることで、「平等」なるようにしたシステムのことです。

この平等なる政治システムを自民党は政策理念として持っていたわけではなく、その支持基盤が農村部にあったことで、都市から農村部への巨大な所得移転が行われ、結果的に実現したものです。そして、1980年代に入り、自民党システムを支える機能が徐々に崩れていきました。農村から都市への人口流出が進み、都市部住民が多数派となりました。

都市部住民は、農村部への所得分配に不満を強め、また、腐敗した利権構造に不条理を感じるようになりました。この頃から、牽制的有権者たちが出現します。経済発展により都市化が進み、新中間層が生まれました。この新中間層は、自民党の経済発展政策によって恩恵を受ける集団です。その意味で、彼らは自民党政権の存続を望んでいました。

しかし、彼らは自民党が体制維持のために財源を過大に浪費することを望まないし、その権力乱用や政治腐敗にも嫌悪感を持っています。そのため、合理的行動として、自民党政権の継続を前提に、自民党を牽制すべく投票する、いわゆる「バッファー・プレイヤー」となりました。そのことによって、自民党が国民の意見に敏感になると考えたからです。

さらにもう一つ付け加えると、「争点」が選挙に大きな影響を与えるようになります。それまでの日本の政治学者や投票行動研究者は、「争点」が選挙結果に影響を与え、自民党が過半数を失うことがあるとは考えていませんでした。なぜなら、自民党が敗れそうになれば、バッファー・プレイヤーが自民党支持に戻ってくると考えていたからです。

ところが1980年の消費税選挙は、自民党が過半数を失うほど、争点が強く影響した初めての選挙になります。その意味で、投票行動研究にとっても非常に重要な選挙でした。 この選挙が、自民党一党優位体制の終焉に向かう第1歩だったでしょう。有権者が争点によって投票し、自民党大敗させた選挙は平成から始まります。

リクルート事件など、政治とカネの問題で逆風にさらされた竹下登政権から始まる平成は、宇野宗佑政権下でその消費税選挙を経験し、海部俊樹政権、宮澤喜一政権と続きます。また、この時期は多くの新党が生まれた時期でもあります。

石原莞爾平和思想研究会が立ち上げた細川護熙さんの日本新党、私と主治医が同じで一緒にお酒をともにしてくれる小沢一郎さんは新生党、武村正義さんは新党さきがけを立ち上げます。そして1993年8月に55年体制の成立以来、自民党が過半数の議席を失い、初めての政権交代が起こりました。

細川さんを首班とする8党連立の非自民連立政権が成立しました。しかしこの政権は寄せ集めでした。細川さんを首班としましたが、実際は小沢さんがリードしていました。皆が長くはもたないだろうと思っていたのですが、やはり8ヵ月の短期政権に終わりました。その後、羽田孜さんが連立政権を引き継ぐのですが、わずか4日しか持ちませんでした。

その短期政権の終わらせ方が、いかにも自民党らしい手段だと思います。社会党とさきがけを小沢・細川グループから引き剥がし、自社さ連立政権が成立しました。1994年に成立した村山政権は、阪神・淡路大震災に直面します。そして、政権を橋本龍太郎さんに譲りますが、1998年の参院選で惨敗し、小渕恵三)政権が成立します。

この時、 野中広務官房長官が、「小沢さんに頭をひれ伏してでも、国会審議にご協力いただきたい」と述べ、1999年に自自(自民党・自由党) 連立内閣が発足します。しかし、もともと自民党と自由党が連立を組んだのは、公明党を政権に入れるためだったのです。

自自公(自民党・自由党・公明党)政権の先にあったのは自公政権だったのです。ですから、同年10月に、自自公政権が成立します。公明党を連立に引き入れるために自由党を連立に入れたわけですから、公明党が連立に加われば、自由党は要らなくなって自公政権になっていく。

小沢さんの自由党と連立解消した小渕総理は翌日倒れ、2000年5月14日に亡くなります。2000年に森さんの自公保(自民党・公明党・保守新党)政権が成立したものの、「神の国発言」が大きく影響し、支持率が7%くらいまでに急落してしまいました。

2001年4月26日に森内閣は辞職します。このとき、「自民党をぶっ壊せ」といって登場した小泉さんが首相に指名されます。その後、小泉内閣の支持率は過去最高の88.6%になりました。昭和から平成への政界の動きはこのようなものでした。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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