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石原莞爾平和思想研究会コミュの満州国の建国について

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満洲を考える時、万里の長城の持つ意味を考えなければならないでしょう。長城の南、つまり中国本土は農耕地で、長城の北は遊牧地でした。つまり、長城が中国人の生活圏の限界 (北限)を示し、逆に長城が北方民族の生活の限界(南限)を示していました。

しかし、北方民族は騎馬民族のため、この長城で生活圏を分けるという、原則を破って中国本土に侵攻したこともあるということで、例外はあるものの長城以北は中国共産党が言うように、中国固有の領土では侵攻したこともなく、ツングース族や蒙古族、あるいはその混血の民族が色々の国を作って、治乱興亡の激しい地であったのです。

最後に満洲を支配したのは女真人です。女真人は満洲を支配すると、次に明末の混乱に乗じて中国大陸を支配しました。支配したのはいいのですが、中国本土経営に目を奪われ、満洲はお留守になったのです。最後は満洲の領有権を放棄してしまったのです。

そして、その満洲を狙ったのは、張作霖親子、中国共産党、ロシア、西欧諸国も陰の方でその陣営に加わりました。特に、軍閥である張作霖親子の乱暴狼藉はひどかったのです。もともと満洲は中国にとって外夷の住むところであり、万里の長城を越えた中国人は軽蔑されていました。その軽蔑の念は万里の長城に表れています。

万里の長城は外夷と一線を画す象徴でした。しかしその外夷ではツングース族や蒙古族が様々な国名によって治乱興亡したし、中国人が侵略してきても追い出されました。外夷は中国の一部とみなされることをきらったからです。

中国人が急に増えたのは清朝が、中国人を一視同人政策のもと平等に扱い、山海関を境に封禁政策を行ったもののその政策も、時にはきつく時にはゆるくというように、いい加減だったからです。かくして満洲国建国の1932年には3千万人に達しました。

中国人の占拠の結果として、満洲は中国の一部とみなされるようになったのです。仮に30年早く日本が占拠したらどうなっていたのであろうか。こうして満洲は一種の無主の地になったのです。その結果、満洲の地には国際関係が押し寄せてきたこともあって複雑な展開を示すことになったのです。

国際関係のおおもとは、ロシアの南下政策とイギリスの極東政策のせめぎ合いです。ロシアは不凍港を求める意思強く、しかも清朝の弱体化を見た19世紀中ごろから、全満洲を手に入れる野望を持っていました。こうして日露戦争が引き起こされたのです。

日本は以後満洲にかかわっていきます。仮に清朝がしっかりしていれば、ロシアの南下政策も日清、日露戦争もなかったに違いないでしょう。つまり満洲軍閥政権の跋扈、ソ連の侵蝕という事件がなければ満洲は政策の転換を求められることもなかったに違いない。

結局、満洲国は歴史必然の産物であったし、陸軍の切れ者石原莞爾という偶然の人物がいなかったら、満洲国はスムーズに生まれなかったかも知れません。ほぐれた糸を切るようにして、日本が武力で作ったのが満洲国でした。

こうして1932年日本は満洲国を作ったのですが、それ以後敗戦まで満洲は日本史の一部でした。その証拠に、インフラ整備を盛んに行い、満洲の積極開発を行ったのです。また行政機構を整え、法整備を行いました。もちろん、満洲国は独自の政府機構を持ち、それ自身の存在を主張して行く顔も持っていたのです。

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