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泰緬鉄道―C5631機関車保存会コミュの映画「The Railway Man」について

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2013年に公開されるという泰緬鉄道テーマの映画。

映画の情報のトピックです。

原作は「癒される時を求めて」(エリック・ローマックス著)


取りあえずトピック作成時の有力な情報は次のリンクのみ。
(真田広之出演ニュース・日本語サイト)
http://aw5656.blog.so-net.ne.jp/2012-04-28
http://worldgossip.girly.jp/?p=1780

(映画基本情報・英語サイト)
http://www.imdb.com/title/tt2058107/


原作本を読んだノリタロによるストーリーの推測もしていきます。

えんぴつ
映画の撮影シーンも写真でアップされつつありますね!
若いエリック・ローマクス役のジェレミー・アーバイン
http://www.zimbio.com/pictures/QF3u1c-BLSa/Jeremy+Irvine+Set+Scotland
(平成24年6月16日追加)

コメント(5)

原作「泰緬鉄道〜癒される時を求めて」(エリック・ローマクス著・角川書店)

目次を書き出して、あらすじまで一気に書き込みました!

映画ファンからすればネタバレとなるやもしれませんが、
今回は研究対象なのでストーリーと読み解いていきます!

−−目次−−

第1章 鉄道との出会い
第2章 陸軍通信隊将校へ
第3章 シンガポール陥落
第4章 捕虜となって
第5章 泰緬鉄道建設工事
第6章 拷問
第7章 軍法会議
第8章 アウトラム刑務所
第9章 日本の敗北―開かれた地獄の門
第10章 帰還と拷問の傷痕(トラウマ)
第11章 復讐の再燃
第12章 再開、そして和解


−−あらすじ−−

第1章〜4章は、筆者の軍人となるまでの履歴や人間性などが書かれている。

第5章で泰緬鉄道建設作業に従事させられて筆者は、
当時、英国人捕虜のひそかに隠し持っていたラジオを使った
“情報収集事件”の関係者ということで、
第6章の拷問で自白を迫られた後、
第7章で軍法会議にかけられ、第8章で刑務所に入れられた・・・という内容。

終戦を迎え、第9・10章では戦後も捕虜時代のトラウマを引きずり苦悩の生活を続けた日々が書きつづられる。


第11・12章で捕虜時代、し、再開〜和解まで。


11章では、捕虜として受けた屈辱の全ての復讐を誓う筆者。
軍法会議などで激しい拷問を受ける中で、
通訳として常に筆者の脳裏にこびりつく英語を話しかけた日本人「永瀬隆」の
生存情報をキャッチ。
その後、永瀬との手紙のやり取りをかわし、
通訳として拷問の場所に居合わせた永瀬も戦後、苦しい想いを絶ち切れず、
全ての犠牲者への慰霊活動を行っていることを知る。

12章でタイで筆者ローマクスと通訳永瀬が再開、
そのまま永瀬の案内で日本を訪れ、
ローマクスは永瀬の心からの謝罪を受け入れ許す。


この映画の最大の見どころは、
戦後50年以上にわたり筆者は捕虜時代の心の傷を患ったということ。
この傷は捕虜を経験した者にしか理解できず、
同胞の英国人、最愛の妻となった女性にもほとんど理解されない、
つらい日々を送っていたところに現れたつかんだ日本人“永瀬”の情報。

癒されることを諦めていた筆者が唯一求めた癒しの手段が
その永瀬との再会だった。


おどろいた事に、日本をローマクスと永瀬が訪れた際、
ローマクスの希望で靖国神社にも訪れている。

本文では神社境内にある機関車C5631について、
批判的な文章が書かれている。


これを乗り越える活動を目標として、
これから計画を練らなければなりません手(グー)
持っている情報をどんどんアップしておかないと、
このトピックの意味がありませんよねっあせあせ(飛び散る汗)

この映画に出てくる永瀬隆さんの著書
「『戦場にかける橋』のウソと真実」

この本の存在のみ取り急ぎご紹介して、内容はまた後日。

1986年 岩波ブックレット

全部読んでいませんが、巻末にある靖国神社への“機関車奉納についての抗議文”には
いろいろな“想い”がつまっているので、是非ご紹介したいです。

懐疑的な意味でなく、未来に向けて“和解”の意味で。

戦争大反対の人たちも、保守の人たちも、この“想い”の解釈のつたなさで
ぶつかり合っているのだと思います。
そこほ解きほぐして、未来につなげる・・・・というほど甘くはないのかな?
とりあえずやってみるのみです!
上記の図書『「戦場にかける橋」のウソと真実』について、
まずは目次を書き出します。

うすっぺらい本だから、全文写してもそんなに時間かからないかもw

目次

プロローグ 
・・・陸軍通訳を志願

凄惨な捕虜収容所
・・・カンチャナブリー憲兵分隊

ジャングルに眠る捕虜たちの墓 
・・・連合軍捕虜基地捜索隊同行記

ふたたび墓地を訪れる
・・・カンチャナブリー連合軍戦争墓地参拝

元捕虜たちとの再会
・・・クワイ河「戦場にかける橋」をともに渡る

“ロームシャ”をたずねて
・・・東南アジア人残留労務者捜索

平和への祈り
・・・クワイ河平和寺院建立

エピローグ
・・・戦争の悲惨さを明らかに

以上


1986年(昭和61年)の発刊

巻末に筆者 永瀬隆氏のプロフィールがあるので抜き出しておきます。
−−−−−−
永瀬隆(ながせ・たかし)
1918年、岡山市の医家に生まれる。
岡山二中、青山学院文学部卒。
太平洋戦争勃発とともに、陸軍通訳を志願、
タイ国駐屯軍司令部、カンチャナブリー憲兵分隊に勤務。
敗戦後、連合軍の通訳として、泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に従事。
復員後、倉敷市で英語塾を経営。
一方、泰緬鉄道での体験を、反戦平和の立場から訴えつづける。
訳書に、レオ・ローリングス著『イラスト・クワイ河捕虜収容所』(教養文庫)がある。
−−−−−−

気になる所から抜き出していきます。
映画のポイントになりそうなこと、満載ですよ!この本は。
調子が出てきたので、早速「エピローグ」を書きうつし〜

やっぱ最後にはメッセージが色濃く表れているはず。

−−−−−−
エピローグ・・・戦争の悲惨さを明らかに

 この泰緬鉄道建設に投入された捕虜の数は約65000と連合軍側資料は伝えている。それでは労務者の動員数は?となると、はなはだはっきりしない。ビルマ人作家でこの建設に狩り出された経験をもつリンヨン・ティンツルウィン氏は――田辺寿夫訳『死の鉄路』毎日新聞社――ビルマでは18万、またバンコック在住のある元関係者によればマレーから8万、インドネシアから4万5千だそうで、これですでに優に30万人を越す。それに地元のタイ人労務者を加えると、35万ていどになるのではないかと私は推定している。そしてその死亡数はとなると、読者のご想像にお任せする以外にない。
 日本側の死亡者は約千名だといわれているが、泰緬鉄道のことを書いたある作家は私に「なんと君、日本側は80数名しか死んでいないんだよ」と語っている。
 ともかく、「戦場にかける橋」をめぐる真実を明確にしておくのは、私たち世代の日本人に課せられた責任ではないのか。
 ところで、映画「戦場にかける橋」は、泰緬鉄道関係者のあいだでは、いろいろな意味で不評である。
 映画のストーリー上で、日本軍関係者がくやしがっていつも指摘するのは、日本軍側は鉄道建設において一片のアドバイスも、技術上は受けていないということである。これは事実だろう。第一に、あれほど自信とうぬぼれを持っていた日本の鉄道隊将兵が、もっともいやしむべき存在である捕虜から、アイデアをもとめるなどとは、信じがたい。
 しかし、ストーリーが作り話であると指摘し、あの映画の芸術性までけなすのであれば、同時にあの映画のなかの、機銃を据えて捕虜を威嚇し、労働を強制する場面についてはどうだろうか。当時その現場にいた捕虜収容所の分所長であった伊能元中尉は、BBC映画「クワイ河に還る」に私と招待出演し、『死の鉄道』の著者であり、この映画のプロデューサーであったジョン・コースト氏の質問に答え、「まさか本気で射つ気はなかったでしょう」と軽くいなしている。
 要するに、映画のなかのひとつひとつの場面に目くじらをたてるよりも、問題は泰緬鉄道建設を通じ、あの捕虜たちの労働力を動員できなかったならば、はたして建設は可能であったかどうかという点にこそ肝要である。それは日本側がいちばんよく知っていることだと思える。
 あの映画のラストシーンで、射たれた隊長が
「戦争なんて愚の骨頂だ」
とむなしく叫ぶのは、戦争の意味を覚った者のみが言える遺言であろう。

 さて、1979年、A級戦犯がひそかに合祀されていたというニュースのあと、いくばくもなく、泰緬鉄道を走ったC56機関車が、靖国神社の境内に展示されるというと聞いたときには、たいへん驚いた。これは泰緬鉄道関係諸部隊への免罪符をねらうものだと私は考えた。そこで、
「過日お電話にて抗議いたしましたごとく、報道によりますと、このたび靖国神社に泰緬鉄道建設作戦に使用された機関車が展示されるとのことであります。
 神社当局、また一般世人の方はごぞんじないかもしれませんが、この鉄道建設作戦には、東南アジアの労働者30万人を狩り集め、そのほとんどがまだ帰国しておらず、酷使した捕虜の3分の1を死亡させ、現在なお病床に呻吟するもの、数を知りません。そのため、この作戦は外国では、かの広島、長崎の原爆投下と同等、あるいはそれ以上の悲惨事として喧伝されております。
 その外国人虐殺ともいうべき泰緬鉄道のシンボルである機関車を、もっとも私たちの神聖視している靖国神社に奉納、展示するとは何事でありましょうか。
 この日本歴史の一大汚点である泰緬鉄道建設の機関車を展示することは、一兵科がこれを功績としてすりかえようとする策謀でもあります。
 神社当局におかれましても、日本歴史の常識にたち、巷間伝えられるごとく、靖国神社は侵略戦争の支え棒であるかのごとき印象をぬぐわれるよう、努力をなさるべきかとぞんじます。(後略)」
として、1979年、やむにやまれない気持で、靖国神社社務所あてに抗議文を提出した。
 しかし、一顧だにされることはなかった。

つづく
つづき

 1986年3月、46年ぶりに同窓会で会った友人が、「こんど戦争をやったら、奴らに日本人の正義を見せてやる」と、私が41年前ジャングルのなかで連合軍捕虜から聞いたのと同じセリフを吐いているのをきいたとき、暗澹たる気持になった。
 40有余年を経過しても、戦争の怨念は消えることなく跡をひく。彼は兵でありながら、英会話ができたのが仇となり、戦犯として摘発され、絞首刑から自然死(natural death――こんな刑があるのは知らなかった)、それから終身刑となり、巣鴨で十年をすごしている。捕虜の取扱いについてなにも知らされていなかったとこぼす。この点では、まったく同感である。おそらく日本軍では、捕虜の取扱いについて、訓練または講義をうけた下級者は、ほとんどいないだろう。
 これがBC級戦犯を生んだ最大の原因だろう。軍の上層部が意識的にそうやったのではないかとかんぐるのは、考えすぎだろうか。ジュネーヴ条約によって捕虜の待遇は適切になされねばならぬということを教えれば、兵隊たちが死ぬまでたたかうことを馬鹿らしく考えるだろうと、支配者側は恐れたのではないか。東条英機は「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めを受けず」と叱咤した。その東条が戦争の初期にタイを訪問したとき、泰緬鉄道にふれ、「枕木一本に捕虜一人を殺しても鉄道をつけろ」と命じたと聞いている。ちなみに泰緬鉄道では、C56機関車を通すには1メートルに1本の枕木が必要であった。こういう者が、いま靖国神社に祀られている。
 それにつけても、1986年の英王室の来日にさいし、日本の皇室とたのしげな交歓風景は、なんだったのだろうか。見ていて重苦しい空しさを感じたのは、私だけだろうか。45年ほど前、といっても私には昨日のように思えるのだが、日・英の若者は、なんのために命をかけてたたかい、無残に死んでいったのか。それならば、初めから戦争をすべきではなかったのだ。所詮、民衆はそのために万骨を枯らさねばならない運命なのだろうか。これが、主権在民の民主主義国家の姿なのか。
 軍備のためにするあれほどの努力を、あらためて平和のために傾けてもらいたいものである。 完

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内容についての考証は別途行いま〜す。

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