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ユーザーイリュージョン研究会コミュの疑問

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ここに参加しておられる方は、基本的にはこの本をすごく気に入ってる人たちだと思うので、プラスの面はとりあえずおいて、疑問に思った部分を書きます。
いくつかあるのですが、一番核になると思う部分を簡潔に。
それは、「私」と「自分」、この本の文脈での「意識」と「無意識」の関係。
「私」には決して還元し得ない「自分」という情報処理体制がある、ということにはもちろん同意しますが、その「自分」と「私」との関係はどのようになっているのか。
『ユーザーイリュージョン』のなかでは基本的に、「自分」とは「私」の影響外にある自律した領野である、という発想に貫かれているように思えます。
たとえばベンジャミン・リベットの実験から書き起こされている第九章「0,5秒の遅れ」という章にそのことは顕著に現れています。
ここでは「私」の持っている権利というのは「禁止権」というものに限定されており、どのような行為を行うかという「立案」の能力は「自分」のなかにある、というようなことが書かれています。
また本の一番最後の、「私」による「自分」の疎外とでも言うべき一種の疎外論も、この「自分」の自律性という前提において初めて可能となるものです。
しかし、このような前提は本当に妥当なのか、とどうしても思えてしまいます。
あるエピソードで、自転車で走っているとき目の前に飛び出してきた子供を助けようととっさに体が反応してわざと転倒したが、この決断は「自分」によってなされた、というようなことが述べられていました。
この本の基本的な流れからすると、わざと転倒するというこの価値判断そのものが「自分」という自律的領域で醸成されたものだ、ということになってしまいそうですが、これには納得できない部分があります。
容易に見て取れるように、この「自分」による判断には「私」によって裏付けられるであろうような一般的な価値判断が浸透しています。
この場合の行動は、規模は小さいといえども「英雄的」と表現されそうな行動ですが、もちろんこの「英雄的」という判断は意識の次元での評価です。
しかし本書での描かれ方をみると、「自分」がこの「英雄的」判断を下した、と言っているようにも見えます。
そんなことがどのようにして可能なのか、とどうしても思ってしまいます。
つまり、「自分」が「英雄的」な判断を下す、ということです。
まるで「自分」は、みずからの行為を「意識」がどのように判断するのかあらかじめ知っているかのようです。
もしそうだとすると、「自分」がどのように振舞うのかどうかということについて、何らかの形で「意識」が関与しているということになります。
もちろんそれは、「意識」による決定、というものではなく、「意識」の次元での価値判断というものがいわば「自分」にとっての決定的な参照項になっている、ということです。
このような可能性はまったく考察されていませんでした。
というよりも、例の疎外論の図式内では、このような考察はもとより不可能なのでは、という気がします。
というのもこの疎外論の中には暗黙裡に道徳的な価値が帯びられて、「自分」という本来無垢な世界に「私」だけが悪を持ち込みうる、というようなストーリーになっていると思うので、とするとその悪を乗り越えるという道のりを確保するためには、「自分」のただなかに「私」が浸透しているという発想は排除しなければならないからです。
しかし、やはり純粋無垢な「自分」という理想化された次元というものには、どうしても懐疑的になってしまいますし、あの自転車のエピソードにおいても、子供をよけるという行為を「自分」に本来そなわっている善性の発露だ、と捉えるのはあまりにもナイーブだという気がします。
リベットの実験が示すように、意識が自覚的に行為に移るその0,5秒前から準備電位が放出されているのだとしても、そこでの意識には知覚されない行為開始に、長い時間をかけて醸成された意識的な価値判断が浸透しない、ということは証明されていませんし、その方向へと向かう発想は検討されていなかったように思えます。
そして個人的には、そのことは無垢な「自分」という次元を担保するために必要だった必然的な無視だったという印象を受けます。
とまあ、ほかにもいろいろあるのですが、一番核となるものとしてはこのような疑問を覚えたのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。
そしてまたこの疑問からはさらにいくつかの疑問が不可避的に連鎖していくものと思えます。
が、それについてはまだ書くのはやめておきます。

コメント(22)

私と自分という概念はあいまいですね。「私」が「私」以前の(外)情報処理モジュールの集合的なものであることが理解できればいいのではないでしょうか?
そのあたりは、ミンスキーの"心の社会"、ガザニガの"社会的脳"などをあわせ読まれるとよろしいかと思います。
コメントありがとうございます。
「「私」が「私」以前の(外)情報処理モジュールの集合的なものであること」
というのは、『ユーザーイリュージョン』での「自分」というのとはいくらか違うものなのでしょうか。
「自分」というものは複数的であって、その複数の「自分」から、たとえばどれか一つを選択するとか、あるいは「民主的決定」みたいなものに従って総体的な判断を下す、というような点に「私」というものが存する、というようなイメージでしょうか。
とすると逆説的に、複数的な「自分」というものの存在は、その集合として何らかの「私」というものから事後的に想像されるしかない、ということにもなりそうな気がします。
この発想だと、「自分」を何らかの形で人格化しているように思える『ユーザーイリュージョン』とは、明確な隔たりが生まれそうです。
またこのように考えていくと、フロイトからラカンへとつながる精神分析における無意識の概念と再び接近してくるようにも思えます。
科学的実験を行うとちがうのかもしれませんが。
ミンスキーもガザニガ(誰?)も読んだことがないので、時間を見つけて読んでみたいと思います。
引き合いに出された本のタイトル(?)の「社会」という言葉から勝手に妄想してしまいました。
> この発想だと、「自分」を何らかの形で人格化しているように思える『ユーザーイリュージョン』とは、明確な隔たりが生まれそうです。

いえ、生まれません。ユーザイリュージョンでも「自分」に対して単一の人格は想定していないと思います。

ガザニガは認知脳科学者で、(自由意志とか信念の形成についての心理過程を臨床的に研究し、以下のことを導いています。脳には無数の独立して活動しうる心理モジュールが連合して(無意識に協議しあって)一つの心(自由意志と我々が思っているもの)を構成している、というものです。

ガザニガらは、脳梁(左脳と右脳)を切断した分離脳患者を被験者にしたり、さらには脳にカテーテルを入れ、脳の一部を眠らせたりという状態での実験を行っています。

わかりやすい例があります。左脳(言語中枢)を眠らせた被験者の左手(右手は麻痺している)にスプーンを持たせます。そして左脳が覚醒してから、さっき持たせたのは何だと問うと、被験者は何も持たされてはいないと「言語(左脳)」で答えます。つぎにスプーンとそれ以外のダミーの物品を並べてみせると、まず左手がスプーンを指差し、続いて(左脳がその情報を受け取り)「そうそうそれはスプーンでした」と答えるのです。

また別の実験もあります。分離脳の患者がスクリーンの前にいて、スクリーンの右側に映されたものは何であれ、左半球によってのみ見られるようにされ、スクリーンの左側に映されたものは何であれ、右半球によってのみ見られるようにされます。もし性的に下品な写真がスクリーンの左半分に短い時間映されるならば、右利きの患者は、通常、何も見ていないと報告しますが、数分間顔を赤らめ、にやにやと笑うのです。なぜ顔を赤らめるのですかと質問すると、患者は分かりませんと答えるのです。
分離脳患者に関する実験の話はユーザーイリュージョンでも取り上げられていましたね。
この辺の話は、ユーザーイリュージョンを読んではじめて知ったことばかりで完全に素人なので、理解がちゃんと及んでいないところも多々あると思います。

>脳には無数の独立して活動しうる心理モジュールが連合して(無意識に協議しあって)一つの心(自由意志と我々が思っているもの)を構成している、というものです。

というような理解は、「心理モジュール」という要素ははっきりとは取り入れられていなかった気がしますが、ユーザーイリュージョンの話とそのままつながりそうですね。
中性的な意志判断(つまり、倫理的、道徳的な意味合いのない)をモデルとして考えると、この理解はすんなりと入ってきます。
ただこの理解を倫理的、道徳的な判断にまで広げるとすると、少しわからなくなってきます。
たとえば挙げていただいた例で考えると、性的に下品な写真が意識にはのぼらないにもかかわらず、顔を赤らめるという道徳的な反応が生じているわけですが、とすると意識には上らない心理モジュールには、意識の次元で構築されるような価値観が浸透している、ということになるのだと思います。
ぼくがユーザーイリュージョンについて「自分」を「なんらかの形で人格化」しているのではないかと書いたのは、そこに単一の人格が想定されているという意味ではなくて、道徳的な価値観を自発的に醸成することができる領域として想定されているのではないか、という意味でした。
そのことが、たとえば自転車に乗ってて子供を避けたエピソードなどに感じられ、また本を貫く基本的な温度としての、「私」から「自分」へ、といった解放期待の論調にも感じられたのでした。

無知を恐れずに想像してしまうと、「心理モジュール」という発想が可能にする領域は、ユーザーイリュージョンでの「身体の理性」のイメージとは、少しずれてくる部分があるのでは、と思うのですが、どうでしょう。
簡潔に紹介していただいた部分でしか判断できないのですが、「心理モジュール」の連合が道徳的な価値判断を醸成しうるのだとすれば、やはり「意識」の領域とのなんらかのフィードバックが想定されることになるのでは、という気がするのですが、その一方でユーザーイリュージョンでの図式では、「意識」の「禁止権説」というものが唱えられているように、このような本質的なフィードバックは考えられていないように思えます。
「明確な隔たり」ということで言いたかったのはこのようなことでした。

ほとんど知識を持たない領野で、ふたたび妄想してしまってすみません。
なんとも言えないのですが、「意識」と「心理モジュール」、「私」と「自分」は、対立するものではなく、「意識」や「私」と思っているものは「心理モジュール」という「自分」によって構成されているイリュージョンとみるべきなのではないでしょうか? 道徳も「心理モジュール」の中にあるのでは?
どうも、管理人です。 

マルボロ氏が不満、もしくは疑問に思うのは

>容易に見て取れるように、この「自分」による判断には「私」によって裏付けられるであろうような一般的な価値判断が浸透しています。

 という部分に出ているように、「自分」から疎外された「私」から見て他律的である「自分」が決定しているにもかかわらず、それが「私」にとって都合がいい判断となっている。つまり「自分」というものが「私」から自立的であるハズにもかかわらず、「私」に対して迎合的な判断をしている。謂わば「自分」は「意識」に対してなんらかの配慮をしているのであって、それでは到底自立的とは言えないのではないか?というのがマルボロ氏の疑問の要約だと思います。

 ここの問題は例が非常に重要で子供を救うという一種の「いい話」、道徳的な話が引用されているのが問題かな、と僕は思うんです。マルボロ氏はそれがあまりにも道徳的にできすぎていると感じているのではにでしょうか?

>子供をよけるという行為を「自分」に本来そなわっている善性の発露だ、と捉えるのはあまりにもナイーブだという気がします

 つまり、無意識の性善説ですね。ただ、これが自転車の例ではなく「熱いものに触れた手をすぐに、無意識的に引っ込める」という例ではどうでしょうか?もちろん、これも「私」にとって都合のいい結果になっているわけですけれど、さっきの例よりは道徳臭さがないのでこっちを使いましょう。

 ユーザーイリュージョンにおいて重要なのは解釈される前の未分化なデータを処理する過程の、データの質と量の変質だと思います。つまりコネクショニズムにおけるニューラルネットワークによって入力された情報が次第に整理されていき、最後に意識が、つまり「私」として、毎秒数ビットの情報の流れとして生産される。電光掲示板のように流れていく内的対話ですね。その過程です。

 上の例では情報を意識へ、つまり状況を「自分」が入力された感覚情報を元に構成し、認識し、それを「私」というより鋭い・・・というか、よりまとまった、コンパクトな情報にして「反省」し、「思考」する時間とエネルギーをかけていたら「自分」も「私」も二人?とも生命の危険に晒されるわけです。それで、「自分」は「私」というコストのかかる情報の捨象過程を飛ばして、ダイレクトに「反射活動」を起こす。でも、これって道徳的な行動とかじゃ全然なくて、犬や猫でもやっている「生物学的な行動」じゃないですか?つまり「反射」です。

 マルボロ氏はこの「反射」にすぎない行動・・・つまり犬や猫だけではなく、微生物が鞭毛活動を行うような、もしくは光を感じた植物がそちらに向くようなレベルの活動を、ちょっと高度に考えすぎているような気がします。もともと意識である「私」がこの反射といった無意識的なシステムの上に作られた以上、それが「私」にとって迎合的であるのは当然ではないでしょうか?情報のデータを抽象的、象徴的なレベルまで・・・つまり言語の領域まで削減する(外情報を大量に生み出す)のが人間的な「自分」というシステムの役割であり、人間以外の生物にはこの「自分」しか存在しない、つまりコンパクトになりきらない情報の処理機能しかなくても、犬だって子供が突っ込んできたらよけるし、触れたものが熱かったら
パっとそれをさけるわけです。

 問題はそれを言語によって出来事として現実からコピーし、そのコピー(ユーザーイリュージョン)を使うことによって認識し、反省する主体である「私」の解釈に出てくるんでしょう。そしてマルボロさんはその解釈において 

>容易に見て取れるように、この「自分」による判断には「私」によって裏付けられるであろうような一般的な価値判断が浸透しています。

と、解釈したわけですけど、生物学的な考察を持ち出すまでもなく、「反射」を生み出すシステムが、意識を生み出すシステム以前に構築され、その上に、「自分」によって生み出された意識である「私」ができた以上、先見的に存在するシステムである「反射」が「「私」によって裏付けられる」というのはありえない。「私」が「自分」より後から生まれたのに、「自分」を意味や解釈レベルではなく、それを生産しているレベルで介入することは不可能なのではないでしょうか?「反射」が最初に存在し、その後から「私」による「判断」が生まれ、その「判断」の文化的な内部における蓄積の結果、マルボロ氏は

>「私」によって裏付けられるであろうような一般的な価値判断が浸透しています。

 と、判断できるのではないでしょうか?でも、これだと「後付」ですよね?「自分」を後から解釈してそれに「一般的な価値判断」を見出しているというわけです。でも、そこにあるのは価値判断ではなく、生物学的な、単純な、反射活動であり、「価値判断」という後天的な、文化的な産物ではなく、むしろこういった解釈を生み出した「価値判断」というものこそが「私」の特徴であり、「ユーザーイリュージョン」の特性であると思います。「反射活動」が意識の、つまり、「私」による「一般的価値判断」の影響によって決定されているなら犬や猫の反射活動だって彼らにありもしない意識の「一般的価値判断」から影響されていると言わなければなりません。

 こういった誤解はこの本の著者も悪いんですけど、「自分」と無意識に名前をつけて呼んでしまうと、どうしても擬人的な感じがしてきて、それが胡散臭さを感じさせるんですね。まあ、初心者にわかりやすく説明するためにはどうしようもないんでしょうけど。あと、この本にはちょっとニューエイジに走りすぎな部分が多々見受けられる。いわゆる立花隆的な胡散臭さがぷんぷんしている。この本を読む場合そういった部分をちゃんと顧慮しないといけないんでしょうね。
 
 「私」と「自分」というシステムの分業で重要なおは、膨大なデータの処理をしているシステムと処理されたデータを認識するシステムの差異であって、それを道徳的、意味論的に把握することではないと思います。この部分はコネクショニズムのコネクションマシンから得られる推論と古典的心理主義との差異として書かれていて、そこは非常にスリリングで面白い部分です。つまり、言語的な、意味的な解釈によって説明されてきた意識の生成システムと、実際に脳内でニューラルネットワークを通して行われている意識を生産する情報の捨象、外情報を生産する過程がこれまで考えられてきた心理的構造、意識生成システムとまったく違うという理論なんですから。
 
>つまり、無意識の性善説ですね。ただ、これが自転車の例ではなく「熱いものに触れた手をすぐに、無意識的に引っ込める」という例ではどうでしょうか?もちろん、これも「私」にとって都合のいい結果になっているわけですけれど、さっきの例よりは道徳臭さがないのでこっちを使いましょう。

∞さんは、自転車の例と手を引っ込める例とを、「「私」にとって都合のいい」ということで同一視されていますが、この両者のあいだにはやはり決定的な違いがあると思います。
というのも前者の「都合のいい」が道徳的なものであるのに対して、後者は純粋に生体にとってのものです。
そしてこの両者の「都合のいい」は必ずしも一致しないだけではなく、容易に想像できるようにしばしば相対立することがあるわけです。
たとえば自転車の例で、わざと転ぶよりも子供に突っ込んだ方が、子供がクッションになって自分の身にとっては安全だ、ということであれば、純粋に自身の生体の保護という点からすれば、子供に突っ込んだ方がいいわけです。
しかしこんな例を引き合いに出さなくても、一般的に言われる道徳的な高さというものがいわゆる「自己犠牲」というものと密接な関係にあることは間違いないといえます。
だから、∞さんによる例示の転換は、ちょっとまずいんじゃないか、という気がします。
「自分」という始原的な基盤のうえに、自身の無力さを知ることなく無力に乗っかっている「私」という図式を厳密に保持して考えるとするならば、むしろ可能な反論は次のようなものであると思います。
つまり、子供を避けて自転車を転ばせたのは、たんに自身の身を守るためにはそれがいちばんよい選択だと「自分」が判断したというだけであって、その判断に「私」が事後的に道徳的な物語を付与したにすぎない、という意識による錯覚の論理です。
そして

>「自分」を後から解釈してそれに「一般的な価値判断」を見出しているというわけです。でも、そこにあるのは価値判断ではなく、生物学的な、単純な、反射活動であり、「価値判断」という後天的な、文化的な産物ではなく、むしろこういった解釈を生み出した「価値判断」というものこそが「私」の特徴であり、「ユーザーイリュージョン」の特性であると思います。

という∞さんの発想、つまりノーレットランダーシュの発想を徹底させると、すべての道徳的価値判断というものはこのような錯覚である、ということになります。
それに同意するかどうかは別として、この発想ならば一貫している、とぼくも思います。
しかしなぜノーレットランダーシュは、あの自転車の例では錯覚の論理で説明せずに、まるで「無意識の性善説」を連想させるような仕方で語るのでしょうか。
∞さんにしても、わざわざ手を引っ込める例を出さなくても(というのもこの例は、道徳が意識の錯覚によって生じる、ということを説明するにはどう考えても適さないからです)、自転車を転ばせたという「自分」の判断は純粋に身を守るためにすぎないのであって、そこに道徳的意味合いを付与するのが「私」による「ユーザーイリュージョン」なのだ、と端的に説明しないのでしょうか。
それはおもうに、やはり自転車の例には、すくなくとも「自分」のうえに本当は無力に乗っかった「私」という図式に還元される「ユーザーイリュージョン」、というものとはちがうものがある、と感覚的に感じているからではないでしょうか。
つまり、自転車を転ばせるという行為が道徳的によいとされるのは「私」による事後的な錯覚ではなく、なにか道徳的な力がその行為を引き起こしたのだ、という「感覚」です。
このことに関して∞さんについてははっきりしたことはいえませんが、ノーレットランダーシュに関しては、そのような「感覚」は書物全体を貫いているように思えます。
そしてこの「感覚」を正当化するには、「無意識の性善説」を取るか、「私」による「自分」へのなんらかの影響作用を考える必要があるように思えます。
∞さんがノーレットランダーシュに「ニューエイジ」な傾向を感じられたというのも、彼が暗黙のうちに「無意識の性善説」というものを前提としていることに由来するのでは、とぼくには思えます。
∞さんは、「無意識の性善説」はナンセンスだと考えられているようですが、これを採用すれば、上に挙げた「感覚」と「自分」の自律性は矛盾しません。
「自分」は生得的に道徳的な(?)動機に基づいて自転車を転ばせたことになりますから。
で、ぼくも同じ「感覚」を共有しているのですが、かといって「無意識の性善説」を信じる気にもなれないわけです。

あと、道徳的価値観をすべて「私」の錯覚だとするならば、「心理モジュール」が道徳を含む必要はないような気がします。
道徳的価値観は、最後の段階での「私」による物語の捏造にすぎないということになるので。
「心理モジュール」という言葉の正確な意味を知らないのでなんともいえないのですが、たとえば「心理モジュールが道徳を含んでいる」と表現する場合には、それは一種の「無意識の性善説」のことを指していると捉えていいのでしょうか。

ほかにもいろいろ書きたいことがありますが、この第一の交錯点での立場がはっきりしないとどんどん錯綜していくだけなのでやめておきます。

∞さんは、たとえば自転車の例で見出されている道徳的価値判断は「私」によって事後的になされた純粋な錯覚だと思いますか。
「自分」の判断には、自身の身を危険にさらしてでも子供を救う、という選択肢は原理的に存在しえないものだと思いますか。
あと、tssさんはニーチェがお好きなようですね。
プロフィールページを拝見させていただきました。
ニーチェは「身体とはひとつの理性である」といってるくらいですし、道徳的なものはすべて錯覚だとするラディカル「ユーザーイリュージョン」と相性がよかったりするのかもしれない、とふと思いました。
性善説(というか何が善か)については、R.ドーキンスの利己的遺伝子やミームの概念を学んでみてはいかがでしょうか? DNAの観点からは自分の体より子供を守ったほうが得なんでしょう。
あと、「私」よりも身体と環境が行動を決めているという点ではアフォーダンスの観点も必要だと思っています。

行き着くところはヴィトゲンシュタインやニーチェだと思っていますが、、、;)
利己的遺伝子の発想だと、たとえばその子供が自分の子供でない場合はどうなるのか、という疑問がありますし、老人だったら突っ込む、っていうことにもなりますよね。

ミーム(文化版利己的遺伝子?)についてはよく知らないのですが、メディオロジーというジャンルを主唱しているレジス・ドゥブレというひとの著作集第三巻の冒頭で、監修者の西垣通がミームについて触れていました。西垣氏は、ドーキンスはミームについての詳細(コード、伝播のメカニズム、環境条件)を明らかにしなかったが、ドゥブレのメディオロジーは「ミームをめぐる初の体系的思索」となりうるのではと書いています。この発想と関連するだろう部分でメディオロジーのある一面を暴力的に要約してしまうと、あるイデオロギーなり価値観には、それがその上を行きかうさまざまなメディアというものがそもそもの構成要素として入り込んでいる、というものです。これだけではたんにマクルーハンを連想させるだけかもしれませんが、たとえばドゥブレは「経路の反復」というようなことを強調します。ある価値観は完成されたものとしてメディアという経路を流通していくのではなく、ある反復可能な経路の確立ともに、そこでの行き交いの反復を通じて生み出されていく、というわけです。この場合、経路というのは一種の無意識のように機能していて、意識はというと、その無意識の存在に気づくことは基本的にはありません。本を読んでいるときには、紙とインクという物質性は忘却しているものです。ジャック・ラカンが簡潔に述べるように、「原因はうまくいかないところにしか存在しない」ということです(ただしドゥブレ自身は(ラカン派)精神分析の無意識を意識はしていないみたいですが)。

あわせて、ノーレットランダーシュは、言語習得や身体修練における反復、ということを強調してもいました。その反復の成果として、人は判断を「自分」に預けることができる、というような考えです。しかしよく考えてみれば、ここには彼の「禁止権説」を大きく越権している部分が見られるように思えます。なにしろ、「自分」の領域での判断に、「私」による意識的な反復練習が影響を与えうるとはっきりと述べているわけですから。もちろん、反復練習によって培われた「経路」にそって反応する「自分」は、その反復練習の動機となった価値観とは無関係に、たんに経路に沿って反応するだけなのでしょう。その反応に、事後的に道徳的あるいは精神的価値を付与することは、「自分」自体がそのような価値判断をしたわけではないという点では完全に錯覚です。しかし「自分」が確立された「経路」にそって反応するという事実には、反復練習をおこなった「私」の価値観が浸透している、といえる気がします。ここには

「私」の価値観→反復練習による「経路」の確率→「経路」に沿った「自分」の反応→事後的な価値付け

といった道筋が想定されています。しかし現実を考えれば、必ずしも「私」の価値観が出発点に来る必要はないわけです。たとえば子供は模倣する存在ですし、教育というのもまずは模倣させることから始まります。その模倣を促す力というのは、社会に流通する価値観であるのでしょうが、子供自体はそのような価値観について何も知らなくても模倣することはできます。そしてその模倣から、上に挙げたような経過を経て、本人にも事後的に動機としての価値観というものが錯覚的に把握される。いうまでもなく、ミームとは模倣のことですよね。そしてまた、後期ヴィトゲンシュタインにおける「慣習」の概念というのも、この模倣に近いものがあるように思えるのですがどうでしょう。

とまあ、この流れからわかるように、ぼくは身体の反復練習を、より広い意味で捉えて社会における物質的なメディア上での反復にまで広げて考えたいと思っているわけです。そしておそらく、西垣氏も同様の発想をもっているのだと勝手に想像しています。

アフォーダンス、名前は聞いたことがあるのですが、詳しくは知りません。
四月から入学する大学院に佐々木正人氏がいるので、授業を取ってみようと思います。
つまるところ「禁止権説」とか「私」と「自分」の区別は、ノーレットランダーシュ自身が救いを求めている部分なんでしょうね。いろいろ矛盾と言うか葛藤がユーザイリュージョンには見られます。彼自身イリュージョンに捕われてしまっているような気がします。

> いうまでもなく、ミームとは模倣のことですよね。そしてまた、後期ヴィトゲンシュタインにおける「慣習」の概念というのも、この模倣に近いものがあるように思えるのですがどうでしょう。

そうですね。「私」にしろ「自分」にしろこれを構成しているのはミーム(模倣を通して複製されていくなにがしかのもの)や「慣習」だと思います。スーザンブラックモアらは「私」はミーム複合体だといっていますね。

p.s
佐々木正人氏に学べるとはうらやましいです。
このコミュニティからはちょっと脱線させてしまったようです。
すみませんでした>管理人殿
>それはおもうに、やはり自転車の例には、すくなくとも「自分」のうえに本当は無力に乗っかった「私」という図式に還元される「ユーザーイリュージョン」、というものとはちがうものがある、と感覚的に感じているからではないでしょうか。 つまり、自転車を転ばせるという行為が道徳的によいとされるのは「私」による事後的な錯覚ではなく、なにか道徳的な力がその行為を引き起こしたのだ、という「感覚」です。 そしてこの「感覚」を正当化するには、「無意識の性善説」を取るか、「私」による「自分」へのなんらかの影響作用を考える必要があるように思えます。

 えーっと、今回のマルボロさんの主旨はこの部分にあると思い、ちょっと引用してみました。前回の反論というか指摘では、僕は「自転車を転ばせたのは生物学的な意味で反射行動であり、無意識の純粋な機能であって、道徳や意思の介入できない行動だ」と主張し、自転車ではなく、熱いものに触れたときの例を持ち出したのです。

 今回、ちょっとマルボロさんの文を読んでいて・・・それは僕へのものではなく、tssさんへの回答で、練習の反復を通じた「自分」への「私」の関与可能性を論じている部分です。そこを読んでいて思い出したのが、確かネコを使ったゲシュタルト実験だったと思うのですが、ネコを生まれたときから縦縞しかない世界に住まわせておき、そのネコを普通の世界に移すとネコは「横」という物をまったく理解できないという実験結果が出たのです。それはネコの「横」的な障害物における反射行動にまで影響を与えていた、という結果だったような気がします。(ちょっと具体的、正確に覚えてないんですよね)

 これと同じように、社会的な慣習として幼少時から反復される道徳的な慣習と行動のパターンが、「自分」に生物学的な反射以上の行動の影響を与えることはありえるのだろうか?これがこの問題の重要なポイントだと思います。ただ、この場合、それが反射と社会的慣習や道徳(解釈を含めた意味での)とどう違うのか?また、それを生み出している意識的、無意識的な環境のレベルについても具体的な違いを見出すのは非常に難しいと思います。

 よく人は自分を意識的に規律に従わせようとしてさまざまな努力をしますが、ついつい、フ、と、それを忘れていたり、規律からはみ出したりしてしまうものです。それでも、それを繰り返しているうちに特に気に留めなくてもソレができてしまう。自動的に、ベルトコンベアーにのるように。

 道徳というものがある意味で学習であり、教育でもあり、それらが身体性と言語を伴った反復によって伝達され、文化的に再生産されているならば、僕たちは「自分」もまた文化的な遺伝子の反復生産過程によってある程度規定されると言えるでしょう。その過程に「私」が介入できる余地はもちろんある程度あるが、「私」が思い通りに介入できるわけでもなく、「固い意志」(固い私?)による不断の努力を通した反復を通じないと難しい。また、最初の「私」自体が以前の文化的遺産によってある程度ズレを伴って生産された以上、それは完全なコピーでもない・・・・・つまり、これまた親や教師の代とは違って、学習された「自分」にズレがある程度生じているわけです。ここらへんはデリダですかね?郵便の誤配のようなもの。


 でもってゴルゴ13が後ろに立った人物を無意識的に殴ってしまうというのも・・・・ゴルゴ13の訓練による「自分」のおかげなんでしょうね。でも、よく考えたら固い意志である「固い私」を支えているものは何なんでしょうね?これがあるからこそ「自分」を長期的に反復練習に導ける。でも、これがなかったら練習自体が反復できない。「飽きる」とか、「ハマる」とかそういった部分に「私」の可能性があるように思えます。だって「私」がハマるからこそ、「自分」がいやなこと、不器用なこと、そして「私」さえ最初はずかしくてうまくできないようなことができるようになるのですから。そしてそれは「憧れ」からくるのでしょうか?もし、道徳に美しさがあり、規律に・・・・それこそファシズムや軍隊が持つ特異な規律とファッションの結びついた、時に破壊的な美意識を伴った道徳があるとしたら。。。それは自分と私のどういった関係から生まれてくるのでしょう?

 とにかく、そうやって身体的に反復を通して学習するというのはダンスであれ、バレーであれ、F1ドライバーやプロのスキー選手まで、ある程度の反復を通して得た技術の可能にする「美しさ」があるわけです。もちろん音楽や文学、科学にも。そして哲学にさえそれはある。もしかしたらこれは「美学論」に通じているのかもしれないですね。なぜ「私」が「自分」に無理を押し付けてまで極めようとするか?それは美学の問題だと思います。そして美しさがなぜ美しさであるのか?は永遠に解けないような気が・・・・・

p.s
佐々木正人氏には去年の12月に東大まで本を持って会いにいったんですよね。ユーザーイリュージョンに関しては「知っているが読んではいない」ということでした。


>tss
このコミュニティからはちょっと脱線させてしまったようです。
すみませんでした>管理人殿

 いえいえ、学問に寄り道も近道も遠回りもないですから。大丈夫です。


 
 


 
僕のマイミクの人がコミュを作ってましたー

アフォーダンスと佐々木さんのコミュです。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=85377
>tssさん
『ユーザーイリュージョン』のなかに「救い」から出発されたストーリーみたいなものは、たしかに浸透しているように思います。
でもそのへんがベストセラーを生んだんじゃないか、という気がします。

あれからつらつら考えたのですが、考えれば考えるほど「ミーム」っていう発想にはポテンシャルがある気がしました。
西垣通が触れていたこととかもすっかり忘れていたので、いい機会になりました。
紹介いただいた人たちの本をはじめとして、いろいろ読んでみたいと思います。

>∞さん
∞さんは、重要なポイントとなるのは

>社会的な慣習として幼少時から反復される道徳的な慣習と行動のパターンが、「自分」に生物学的な反射以上の行動の影響を与えることはありえるのだろうか?

という点だと書いています。もちろんそうだと思うのですが、そもそものやり取りのなかでのポイントは、「私」は「自分」に影響を及ぼしうるのかどうか、という点で、僕が可能だと考える一方、∞さんは不可能だと考えていた、という対立だったと理解しています。∞さんは

>「反射」を生み出すシステムが、意識を生み出すシステム以前に構築され、その上に、「自分」によって生み出された意識である「私」ができた以上、先見的に存在するシステムである「反射」が「「私」によって裏付けられる」というのはありえない。

とかなり強い調子で断言していました。そしてそれに対するぼくの一種の反論の中で、「反復」といった要素を提示したわけですね。そういったこれまでの流れからすると、もし意識的になされうる「反復」が「自分」に影響を与えうる、ということを∞さんが認めるのだとすれば、∞さんは最初とはいくらか立場を変えたということになるのだと思うのですがどうでしょうか。今回のコメントのなかでは、とりあえずその影響という点を∞さんは認めているように思えるのですが、立場の変更については何も言われていないので少し混乱します。

>道徳というものがある意味で学習であり、教育でもあり、それらが身体性と言語を伴った反復によって伝達され、文化的に再生産されているならば、僕たちは「自分」もまた文化的な遺伝子の反復生産過程によってある程度規定されると言えるでしょう。

というような文章も、この場合の「遺伝子」という表現が比喩的ではなく文字通りに使われているのでない限りは、∞さんの以前の立場とは相容れないように思えます。

あとちょっとわからなかったのが

>この場合、それが反射と社会的慣習や道徳(解釈を含めた意味での)とどう違うのか?また、それを生み出している意識的、無意識的な環境のレベルについても具体的な違いを見出すのは非常に難しいと思います。

という文章です。この最初の「それ」が何を指しているのか、何回読んでもよくわかりませんでした。

猫の例が挙げられていますね。そこでは猫の知覚がある「反復練習」によって不自然な方向付けをされていて、その次の箇所では、人間も同じように、というような流れになっていますが、しかし明らかに、猫と人間とでは異なっている部分があります。それは、「反復練習」のための装置を、人間は「意識」的に作り上げることができるわけです。そういえばノーレットランダーシュも、道具とは情報の取捨過程の外在化(あるいは物質化?)である、みたいな事を言っていたと思います。人間は、挙げられた猫のようになすすべもなく反復練習装置の中に放り込まれるわけではなく、自分自身を形づくる反復練習装置を「自然」のなかに能動的に作り上げていくことができるわけです。ここにはハイデガーの「道具性」の概念を連想させるものがあります。つまり人間にとって生きる(実存する)というのは、課された環境における純粋に受動的な反応につきるわけではなく、「使用」(目的)を見据えた上で能動的に環境を「道具化」していく、という点にあるわけです。そうして自身が作り上げた反復装置のなかで「自分」を陶冶していく。同じ「反復練習」だとはいっても、この点において猫と人間とは決定的に異なりますね。そしていうまでもなく、設計図を引くという行為は、熱いものを触って手を引っ込めるというような脊髄反射ではなく、きわめて意識的な作業であるわけです。

あと、「郵便の誤配」という表現がありますね。これは東浩紀の「郵便空間」とやらが念頭に置かれた言葉だと思いますが、この言葉づかいは難しいですね。たしかに、ドゥブレの最も重要な哲学的参照項はデリダの『グラマトロジーについて』です。しかし、ドゥブレのデリダ解釈は東浩紀のものとはまったく違いますし、個人的には、「郵便空間」というイメージ自体はそれなりに面白いとしても、それはデリダとは関係ない、と思っています。『グラマトロジーについて』をちょっと読めばわかるのですが、東浩紀の解釈(「ゲーデル的脱構築」??)は拾い読みしたものとしか思えません。だから「郵便の誤配」という言葉自体にはなじめませんが、装置の反復練習そのものにある「ズレ」の可能性が内在している、ということはいえるとぼくも思います。ただ、どう考えてもそのような「ズレ」より、装置そのものが変質する方がインパクトはでかいとおもいますが。
今日、佐々木正人研究室の博士課程の人ふたりといろいろ話した折、錯覚としての意識について話したらすごく興味を覚えたようでしたので、『ユーザーイリュージョン』を紹介しておきました。
どのように読まれるのか、興味深いです。
おわー 忘れてたよ。レス!!!ごめん!!あ、それと今すぐ中沢新一の「はじまりのレーニン」を読んでみてよ。特に第二章。問題がある程度整理されている感じです。
あ、レスはまたまた読み直してつけるのでもうちっと待っててー
ちらちら『はじまりのレーニン』読んでいます。
まだ三章終わったとこですが、『哲学ノート』のレーニンによるヘーゲル解釈として説明されてるヘーゲル像は、ジジェクにとってのヘーゲル&唯物論にかなり近い、というかレーニン自身の射程は僕にはわかりませんが、中沢新一の述べ方をみるとちょっと不徹底な印象を受けたので、それをさらに徹底するとジジェクの唯物論になる、と僕は感じました。
∞さんには前に紹介したのですが、ジジェクの『身体なき器官』がおすすめです。
訳者あとがきによると、まだ翻訳はないみたいですがジジェクはレーニンについて書いた文章が載っている二冊の本を『身体なき器官』の少し前に出しているようですし、訳者曰く、『身体なき器官』はジジェク版『哲学ノート』だということだそうです。
偶然ですねえ。
と、『ユーザーイリュージョン』からはかなり遠ざかってしまってすみません。
ダニエル・デネットの『解明される意識』の七章の終わりでミームについて触れられているのですが、(個人的に)驚いたことにデネットは、意識というものをミームが脳の中に一種のバーチャルマシーンを通じて実現するものと捉えると同時に、そのような意識を「ユーザーイリュージョン」のイメージでとらえていました。
『解明される意識』の原書の出版は91年で、これはノーレットランダーシュが原書をデンマーク語で出版した年と同年ですから、直接的な影響関係はたぶんどちらもないのだと思います。
それにしても、まだちらっと読んだだけなので何ともいえないところですが、『ユーザーイリュージョン』にたいして僕が疑問に思った意識と無意識=自分との関係については、デネットがかなり明快に論じているような感じです。
さすがにメディオロジーは引き合いに出していませんが、意識と道徳性の関係を慣習というようなイメージで積極的にとらえていくという僕が上の方で書いていたベクトルを、デネットは十数年前にはっきりとすでに述べているみたいです。
知らないって恐ろしいです。
そう。人間はミームの乗り物なんですよ。

デネットのことも論じているスーザンが来日します。ぜひどうぞ。
http://www.memeproject.jp/hiki.cgi?%28EXPO%29MemeExpo
ミーム博、ぜひいきたいですね。
行けるといいのですが。
佐倉先生も参加するのですね。
ずいぶん時間が経ってしまいました。ここでなんやかやとやり取りがあったこととものすごく関連しそうな本を見つけました。
ベルナール・スティグレールという人の『技術と時間』(全3巻、フランス語)という本。
残念ながら邦訳はないのですが、一巻には英訳があるようです。認知論についての言及が二巻の後半にあって、そっちの方がおすすめなのですが、一巻ではエピフィロジェネーズ(後付けられた系統発生)というような概念が提示されていて、これがかなりミームとかぶるというか、技術論の立場からミームを理解するとたぶんこうなるのだということがわかります。この人の出発点には、以前のやり取りのなかでも出てきたジャック・デリダという人の思想があります。

二巻での認知の議論では、チューリングからマトゥラナ/ヴァレラの話まで広がっていって、構造的カップリングの概念が、その文脈では直接には示されてはいませんが、デリダの差延の概念から把握され直されています。この辺、前々から考えていたこともあって、読みながら感動してしまいました。

とにかく、ミームとオートポイエーシスとをともに把握し直すことのできる視座というものが提示されていて(と僕は思います、というか潜在的にはデリダのうちにそれはあったのだと思いますが)、感動的でした。フランス語しかないのは残念ですが、翻訳が出たらぜひ。おすすめです。

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