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メシウマ.jpコミュの高田のメモ

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「十日戎」
十日戎は大阪市浪速区にある今宮戎神社で行われる。
1月10日および、その前後の9日、11日におこなわれる戎社の祭礼。
9日は宵宮祭(宵えびす)、10日は大祭(本えびす)、11日は後宴(残り福)と呼ばれる。
俗称は、「えべっさん」。1月10日前後に商売繁盛の神として親しまれる、戎(恵比寿)神(「えびす様」)を奉り、参詣者が商売繁盛を願う。

祭神は天照皇大神、事代主神、素盞嗚命、月読尊、稚日女尊の5柱。このうち事代主神が戎として特に信仰を集めた。近世以降は商売繁盛の神として、現在でも篤く信仰される。

摂社祭神は大国主命、五男三女八柱神。末社祭神に宇賀御魂神。


http://www.eonet.ne.jp/~maxim/contents/p_essay/essay05/essay05w.html

福笹
「節目正しく真っ直ぐに伸び」「弾力があって折れない」「葉が落ちず常に青々と茂る」といった特徴から、縁起物として扱われている。十日戎では、拝殿で福笹を授かり、御札と吉兆(きっちょう)と呼ばれる小宝を付ける風習が続いている。これはえびす様への願いや信仰を表す。吉兆は、銭叺(ぜにかます)・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛等の縁起物から成り、十日戎の参拝者は有償で吉兆を自由に選べ参拝客は、神様からの「御神徳」を持ち帰る。


「商売繁盛、笹もってこーい!!」
「商売繁盛、笹もってこーい!!」という掛け声で、えべっさんは盛り上がる。
縁起物の「福笹」のセールス口上。境内に流れるお囃子。「笹を持って来れば商売繁昌させます」もしくは、「商売繁昌したら、また戻ってきなさい」の意である。

コメント(2)

演出家、映画監督(映像演出家)ともに、
自分の思いを、キャスト、スタッフに伝えることが、出来るかどうかかが
(逆に、スタッフ、キャストの気持ちを理解する)
はじめから、終わりまで、ついてまわることかと思います。

両方の演出家に、何人かお会いして思うことは、時間の感覚の差ですね。
舞台は、上演中に、時間が戻ったり、先に進んだりはしません。
(演出効果や、脚本の流れでは無く、単純に時間は止められないということ)
また、予算、技術的問題で、演出家がのぞむ、情景を作れないことがあります。

映像は、そもそも、時間を、どう切り、どう繋ぐかということに重きをおくことになります。
また、レンズを使うことで、アップや引きの絵が、自在に出来ます。

つまり、映像の演出家には、時間と情景を、具体的に作らなければならない、
舞台の演出家は、時間(リアルな意味で)は、どうすることも出来ない、情景にも制限がある
ということかと、思います。

いっけん、映像演出家が有利(?)にも、見えますが、映像は、撮れなければ
または、CGなどで、作れなければ、一歩も前にいけません。

舞台は、最終的には、俳優がいてくれれば、つくれます。

そんなことが、私の実感です。
■観る側の視点を考えると、映画の視点は神のもの。舞台の視点は人間のもの。

以前、燐光群の「CVR」を観て、なんで映像ではなく舞台なのか?を考えたとき、次のような結論に至った。

舞台か映像かに限らず、事故を演技で再現するとき、どれだけ証言や残留品を集めて検証して再現しようとしても、推測や想像で繋ぐしかない部分もあるだろう。「本当はどうだったのか」は事故の真っ只中の当事者にだって分からないだろうし、パニックになって覚えてなかったり、違うように記憶しているかもしれない。特に、目に見える部分でそれは大きいんじゃなかろうか?

映画(映像)は、「本当はどうだったのか」分からない部分も誰かの想像や推測の視点でかなり具体的に再現し、それをカメラが撮ったものを観客に見せる。そしてカメラ(視点)は再現者の判断で動くことができる。事故当時に誰も知り得ないはずの視点から、現場を見ることも可能。しかもそれはとても客観的なので、「もしかするとこうだったかもしれない」「おそらくこうだろう」という前提で撮られたものが、カメラを通して見る側には「あのときはこうだったのだ」という事実に見えてしまう。

当然だけど、舞台では客席から見えないものは観客には見えない。客席の観客は、舞台上の時間と客席からの視点は超えられない。見えない部分は推測するしかない。舞台の観客は、その場に居合わせてしまった当事者の一人としてそこに存在する。自分の目で見たものを判断するしかない。(だから、人によって感じ方の差異が大きいのだと思う。)

舞台でも、もちろん演出家の解釈という視点は入るし、映像だって一当事者の視線という形を借りることはできる。しかし、演出家は客席にいる全員の目と脳の代わりはできないし、カメラが撮る絵は人間の脳に映るものとは違う。演出家も、一人の当事者なのだ、と思う。

ある出来事(英語のaccidentに事故とも単なる偶然の出来事とも意味があるのはよくできていると思う。)の現場に居合わせてしまった居心地悪さ、感激というのは、映画よりも演劇の方が(私の実体験上では)深い。演劇で、誰かが誰かを激しく罵ったりいじめたりする場面を観たことがあるだろうか? 映像で観るのとでは、明らかに心のざわつき方が違う。まるで実生活でそういう場面に遭遇したときと同じ心理になってしまうのだ。同じように、不遇だった人が目の前で幸せそうになっていくなら、いとこを観ているような心境になる。これと同じことを映画というジャンルの中で体験しようと思ったら、アカデミー賞かカンヌの会場にいないと成立しないような気がする。

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