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ねこると創作クラブコミュの第二回ねこると短編小説大賞応募作品No9.『狩野宿村郷土史物語』

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 むかし、『香山(こうやま)』と呼ばれる山の麓に、『狩野宿(かのやど)』という小さな村があった。村人のほとんどが老人で、およそ十世帯あるかないかの過疎と化した典型的な聚落である。
 どこまでも続く樹林と山々に囲まれている為か、その村に訪れる者はあまりいない。
 そんな村に、暁美(あけみ)という少女が住んでいた。

 ある日のこと、暁美は竹製の大きな籠を背負い、村から少し離れてまだ一度も行ったことのない香山の麓まで一人摘み菜にやってきていた。その麓一帯には、厳しい冬が終わりを告げ、雪解け水が沢を伝い、あちこちに春の命を芽吹かせている。
 収穫を追い求めるように、小川を跨いで香山を登ってみると、少し登っただけだというのに籠の中はあいっぱいになっていた。水源を豊富に蓄えた香山は、まさに山菜の宝庫と言ったところである。
 これ以上納まらないことを確認すると籠を下ろし、かいていた汗を振り袖で拭う。
「…あれ? 何やろ」
 その時、暁美の目の前に、ふと、小さな物体が舞い込んできた。
 眉をしかめながらそれを覗き込む。それは露塵ほどの小さな泡だった。それも一つだけではなく、いくつもの泡が蒲公英の綿毛のごとく、風に乗ってゆらゆらと揺蕩い舞ってくるのであった。
 飛んできた方向には村がある。
「こんな泡、村で見たことないなぁ」
 と、不思議に思いながらも好奇心に駆られた暁美は、竹籠を背負いなおし目で泡を追いながら歩き始めた。
 桜色が付き始めた林道を歩いていると、陽だまりに蕗の薹(ふきのとう)が立ち、そして、蕨(わらび)や楤(たら)の木を見つけたかと思うと、小径の端にいくつもの筑紫が剽軽にも顔を覗かせている。それかと思うと、枝先に猫の尻尾のようなものが付いた猫楊の花が鵝毛(がもう)のように飛んでいたり、どれもこれも暁美の好奇心を揺さぶる物であったが、それよりあの宙を舞う泡が気になって仕方がないようだった。
 沢になってぬかるんでいるところをうまく避け、硬い岩の上だけに飛び乗っていくと、カンッと小さな下駄の小切れの良い音が方々に響く。その道中、枝の先や葉の露で長袖の着物が汚れるが、意にも留めない。
 やがて、平坦な道からゆるやかな谷間を降りていくと、額束に『鹿賀(かが)神社』と掲げられた石造りの鳥居が現れた。その鳥居を潜ると、広々とした空間に苔や蔦に絡まった古ぼけた神社が超然と佇んでいて、どこか遠くて長い歳月の重みを放っていた。
 境内はシンとしている。
 ほとんど音というものがない。
 そんな場所に独りでいるのは、少しもの寂しい思いがした。
 どこか遠くで、雁の鳴くらしい声が聞こえた。
 それから、草の葉がかすかに風にそよいで寂しい音を立てている。
「もう、帰ろかな…」
 いつの間にか泡を見失っていた暁美は、弱々しく声を漏らした。
 その時、ふと顔を見上げてみると、神社の屋根の上に雲のようなものが浮かんでいる事に気づいた。よく見てみると、その雲のようなものは、さっきの泡がいくつも集まったできたものであった。それは、太陽に照らされてちらついたり、ぼやけたり、光ったり、そして何色にも輝いた。
「何なんやろあれ。きれいやなぁ」
 と、感嘆の声を挙げて眺めているうちに、それらは何かに吸い込まれるように、地上へと落ちていく。
 その先に視線を落としていくと、そこには、大きくて立派な白い角と、五色に光る美しい毛並みをした鹿が、凛然と佇んでいたのであった。
 泡の雲を見上げ、口を大きく開けて、それらを吸い込むように食べている。
 ようやく泡の雲をすべて平らげた鹿は、鏡のように綺麗な目を細くして暁美を見据えた。暁美もまた目を燦然と輝かせ、じっと見つめ返す。それから、「こっちにおいで」と言って手招きしてみたが鹿は微動だにしない。暁美は、その鹿の毛並みに触れてみたくて、自らゆっくりと近づいてみた。
 すると、その場に座り込み、拒むことなく自身の背中を暁美に預ける鹿。
「なんやこれ、気持ちえーわぁ」
 背中を撫でてやると、気持ちよさそうに暁美の頬を自身の舌で撫で返す。
 というように撫でて撫でられている内に、暁美は鹿の懐に蹲り目を閉じる。やがて静かに寝息を立て始めた暁美の顔をじっと眺めながら、そっと我が子を抱き寄せるかのように、優しく包み込むのであった。



 そして、その正午のこと。
 何かの匂いがして、暁美はふと目を覚ました。
 横に目を向けると、囲炉裏の中にゆらゆらと揺れる炎が見えた。土間の中には、香しい粥の匂いが立ち込め、ぐつぐつと音を立てた鍋から白く細い湯気が、薄暗い茅葺屋根へと立ち上っていた。
「ぬくい…」
 囲炉裏の炎と鍋から立ち上る湯気、そして自分にかけられた布団のおかげでとても暖かかった。どうやら、いつの間にか囲炉裏の間で寝かせられているようであった。ゆっくり上体を起こし、むにゃむにゃ、と言いながら目を擦る。自分は今まで鹿の傍らで眠りこけていたはず。
 微睡む中、鹿はどこへ行ってしまったんだろう、あれは夢だったのだろうか、などと思っているうちに祖母の声がした。
「やっと起きたんかいな。ほんま、しょうがない子や」
「あれれ? …おばあちゃん、あたし、どないしたんやろ」
「神社の前で寝とったあんたを、そこの修験者様が送ってくれたんや」
「しゅげん…じゃ?」
「厳しい修行を積む、山伏さんの事やがな」
 祖母はそう言い聞かせ、しばらく状況がうまく飲み込めないでいる暁美を尻目に、囲炉裏の方に目配せをした。 そこには若い修験者の装束に身を包んだ青年が囲炉裏の前に座っていた。その傍らには護身用だろうか、弓矢が置かれている。
 途端に暁美は、布団の中に潜り隠れてしまう。
「失礼やなぁ、ほんま。堪忍してな、この子ったら人見知りするから」
「ははは。べっちゃない。こんな身形やからな」
 狩野宿村には、しばしば彼のように修験者が訪れることがあった。村のちょうど裏にある香山の奥には、かつて修験霊山があったと云われ、ちょうどその霊山とを結ぶ参道の途中に位置する狩野宿村は、諸国から参詣する修験者の休息の場でもあった。
 それから、祖母はもうそろそろかな、と言って菜粥を椀に掬い取って暁美と青年に手渡した。菜粥の中には暁美が摘んできた蕨や芹、薺などが入っている。
「おお、美味しそうやぁ。いただきます」
「どうぞ、召し上がってください」
 祖母はそう言って、畑の様子を見てくると言って外へ出かけて行った。
 薪の爆ぜる僅かな音が、部屋の隅まで滑るように響き渡る。
 しばらく土間には沈黙が続いた。
 その沈黙を破って青年が話を切り出す。
「わしゃあ景行(かげゆき)って言うねん。松原景行。しがない修験者やな。君の名は?」
「あ、あたしは暁美と申します。賀古暁美」
「ふむ、ええ名前や」
 景行に名前を褒められて照れ隠しをする暁美。瑞々しい白い頬がほんのりと赤らんだ。
「景行さまは、この村に何しに来られたのですか?」
「うむ。わしは修験道を本分にして、この村に纏わる伝承とか風土について調べとんねん」
 景行は、まだ小さいながらも暁美の律儀な言葉遣いに感心しながら言った。あどけない顔に燦然と輝く暁美の瞳は印象に強く残った。
「霊山を降りた時に一回、この村へ来たことあってな。その時分も、わしに飯を振る舞ってくれてほんまうれしかったなぁ。親切やしあったかいし、ほんまにええ村や。そりゃあ今も変ってないな…。ほんまに依然のまんまやわ」
 景行は、やや斜め中空をぼんやりと見ながら言った。それを聞いた暁美は、少し得意げになった。やはり、村外の者から自分の村を讃えられるのは悪いものではなかった。
 菜粥を口に入れながら、暁美はしばらく上目遣いで景行を眺めた。よく見ると、端正な顔つきをしている。歳の頃はおよそ二十過ぎといったところだろうか。何か遠い彼方を見るかのような野心的な目許、武骨で凛とした物腰がどこか野性的な印象だった。
「…で、しばらく村におって知ることになったんやけど、この狩野宿村に纏わる説話がほんま面白くてな。見事に取り憑かれたわけや」
「説話、ですか?」
「…この村来た時、まず子供の姿を見掛けんかったことに疑問やったけど…。まぁ、そんなこと君に話してもしゃーないか…」
 景行の自嘲気味で含みある発言に、暁美は首を傾げる。
 一頻り菜粥を平らげた景行は、手に持った椀を畳の上にちんと置き、後ろの黒柱に背を凭せ掛けた。そして、話を続ける。
「君は知らんやろうけど、この辺りはかつて『鹿野宿(かのやど)』と呼ばれとって、その名の通り、鹿の住む宿と云われるくらいによーさん鹿が棲んどったわけや。先の戦でいっぱい姿を消してもたみたいやけどな…。まぁ、とにかく、この村は鹿と密接な関係があんねん」
「何もないこの村にそんな云われがあったなんて…」
 暁美は感嘆の声を挙げた。
 その時、神社で見かけた毛並みが五色の鹿の事を思い出した。 優しくて温かく、何かを訴えかけるような神聖な瞳を持った鹿との邂逅。夢まぼろしのような体験だった。しかし、実際は夢だったのかもしれない。
 そのことを景行に話そうと思ったが、例え夢の中の出来事であったとしても、誰かに話してしまうことで、その巡り合わせを繋いでいるものが切れてしまい、再び逢えなくなってしまうのではないかと感じ、自分の胸に秘めるだけに留めることにしたのであった。
「…まぁ、村のことについてもそうなんやけど、今回は国藩主から、仰せ遣いで『八畔鹿(やくろじか)』っちゅー筑紫国を荒らし回った鹿の化身を探しに来たねん」
「やくろじか?」
「うむ…」
 景行は、手持ちの行李から何冊か古臭い書物を取りだし暁美に手渡した。
 黙々と冊子を捲る暁美。
「その古文書には、八畔鹿ってゆうんは、足八本で角八又、毛が一尺もあって、天と地を駆けめぐって人々を恐怖に陥れた伝説の霊獣と書かれとる。筑紫国の江熊太郎っちゅー武士が石見国まで追いかけて退治したと云われとんやけど…」
 暁美は、本を読んだことがなく読み書きが出来なかった。冊子のところどころに八畔鹿らしきものが描かれてたので、すぐにどんな姿形をしているのかが理解できた。それは、想像以上に禍々しい化け物であった。
「…でも、その八畔鹿はこの地にも姿を見せるようになって、筑紫国と同じようにここらへんの人らを恐怖に陥れたらしいわ。ほんで、その魂っちゅーんを鎮めるんに香山に鹿賀神社を建てて祀ったみたいや」
 暁美は無言で景行の話に耳を傾け、いつのまにか身体を震わせていた。
 単なる伝説の話だが、幼気な暁美にとっては怪談のように聞こえたのであった。
 しばらく挿し絵を眺めていた暁美は、口を開く。
「……景行さまは、その鹿を見つけてどうなされるおつもりなのですか?」
「……」
 景行は、暁美の質問に何かを言いかけたが、その途端に沈黙した。
 その時、囲炉裏の炎が微かなすきま風に踊りながら、一人の”男”の顔を明暗に塗り分ける。炎に煽られて、土壁に映し出された影が背後でゆらゆらと揺れている。その大きな影が、まるで暁美自身に圧し迫ってくるようで、なんとなく不気味だった。
「……おっと、なんか怖がらせてもたな。堪忍。こんな話して別に怖がらせるつもりなかってん…」
 幼気な少女相手に何を喋らんとしていたのかと、景行はしばらく自問してから言った。しかし、質問に答えるわけでもなく、暁美の不安な顔を窺うかのように取り繕う景行。
 暁美は顔を横に振りながら大丈夫と答えた。
「でも、こんな化け物がおったら恐ろしいやろ?」
「……」
 同意を求めるかのように訊ねられ、しばらく沈黙する暁美。
 そして書物に小さい手をそっと添えて、俯き加減に呟く。
「……怖いですけど。でも、なんか…この鹿、可哀想ですね」
「なんで?」
「その鹿は、確かに里の人たちにたくさん迷惑をかけてもたけど、それはたぶん…居場所がなくて、怖かったんやと思います。そう…たくさんの人たちに囲まれて……」
 辿々しく、もの静かな口調で織り出される暁美の言葉は、どこか核心を得ているように景行は感じた。
 しかし、これは異形だ。たくさんの命を奪った悪し鹿である。悪業の報いとして討たれて当然。問えば誰もが恐ろしいと答えるだろう。
 景行は困惑気味に訊ねる。
「……でも、君は、もしこんなんに襲われたら、怖くあらへんか?」
 ぱちんっ、と火が爆ぜる。
 暁美は視線を逸らすように下に落とし、挿し絵を指して続ける。
「恐ろしいと言うよりも、なんか悲しいです。だって、この鹿こんなに怯えてますよ。…あたしやったら、訳も分からんうちに襲ってまうかも……」
 暁美の呟く声が、しんとした辺りを切り取って景行の耳に届く。
「……」
 景行は何も言えないでいた。そして、自分自身の馬鹿さ加減に呆れ大きく息をつく。
 幼気な少女に、私は何の同調を求めているのだろうか、情けない。と思いつつ、鹿の視点に立ち即座に理解を示す暁美に胸を打たれていたのであった。
 今までこのような子供と出会ったことがあっただろうか。およそ何度も戦を繰り返し、苦難に満ち、作為の多い世俗では見かけたことがない。その心境は、純粋無垢ゆえか、それとも感受性が豊かだからであろうか。いや、それだけでは説明できない。彼女のそれは、おそらく自然と一体化したようなこの村でこそ得られるものなのだろう。
 未だ俗世との関わりを絶ち切れないでいる景行は、自問自答していた。 
 そして、傲っていたものが薄紙のように剥がれていく。
「…まさに君の言う通りやわ」
「…え?」
「浅はかな知識と探究心で八百万の神さえも殺してまうところやった…」
 そう言って急に頭を下げる景行に訝って、暁美は首を傾げた。
「間違っとった…。全部、わしの傲りやったんや。まさか君に諭されてまうとはな…。今ならまだ間に合うやろ。わしは国に帰って殿さんに申し立てしてくる」
「申し立て?」
 景行はそう決意した表情でその場から立ち上がり、土間に降りて山歩きの足袋を履き始める。
 暁美はその時、景行の姿を象るその輪郭から、ぶくぶくと泡のようなものが湯気のように浮き立っているのが見えたような気がした。
 目を擦ってみても静まる気配がなく、暁美は首を傾げる。
「今度会うときは一年後か、それ以上になるかわからへんけど、次は一人の人間としてまた来るわ」
「景行さま?」
「ご馳走さん」
 そう言い残して景行は家を出た。
 家を出てから、しばらくその場に立ち尽くす景行は、山の向こうを見遣りながら二年ほど前の事を思い出していた。

 ──その二年前、修行に帰依していた景行は、自らの傲りで修験道を破門にされていたのだった。師に理由を聞こうとも答えが返ってくるわけでもなく、一方的に破門を言い渡された景行は下山を余儀なくされ、居場所を求めて狩野宿村におよそ一年ほど滞在していた。
 村人たちに来訪を快く歓迎された景行は、破門にされたことを隠したまま居心地のよい狩野宿村を心の拠り所にする。しかし、村の生活に慣れてきた頃、子供の姿が一切無く、世間との交流が一切無い、この閉鎖的な狩野宿村の存在に疑念を持ち始めた。世を捨て自給自足の平和な生活を営んでいるということ以外、村の存在に関わることは分からなかった。しかし、住んでいるうちにただ一つ分かったことは、村人たちが行なっている土着信仰の対象が、鹿賀神社に奉祀された『鹿神(ししがみ)』という依代であり、狩野宿村の成り立ちと大きく関わり合っているらしいということだった。
 とある晩、景行は興味本位で禁忌を犯した。鹿賀神社の神域不可侵を破ったのである。
 禁忌を犯してから景行は、村が鹿神によって破壊される予知夢を見るようになり村中に警鐘を鳴らすが、村の守護神として崇める村人たちにとっては身も蓋もない話である。そして景行の予知夢通り、村はあえなく戦火の渦中に見舞われ、戦から脱落した落ち武者や野盗どもに襲われ大勢の村人が殺された。
 その一方、命からがら逃げ延びた景行はその時、足が八本、角が八又に分かれた鹿神が香山に駆けてゆくのを見たのであった。鹿神の怒りを買い自ら引き起こした災厄と自責するものの、景行は鹿神を畏怖し、焼け野原となった村を置いて逃げ出すのであった。
 心の拠り所にしていた場所を無くした景行は、生まれた国に戻ってから取り憑かれたように古文書を漁り鹿神に関係する文献を調べた。鹿神を殺すためである。鹿神さえ殺してしまえば自分は助かると考えたのだ。
 古今東西から掻き集めてきた古文書は、ところどころ欠落していて難読、難解を極めたが、その中でかつて筑紫国を震撼させた八畔鹿と鹿神を結びつける記述を見つける。景行は、その文献を元に村に災厄もたらしたとする八畔鹿を鹿神として同一視し、ますます復讐にも似た感情を燃やした。
 鹿神を殺そうと考え始めてから毎晩のように、この国が八畔鹿に襲撃を受ける夢を頻繁に見るようになるのであった。どこからともなく虎視眈々と狙って様子を窺っているのではないか、そしてこの国が第二の狩野宿村になるのではないかという恐怖に苛まれ、国藩主に八畔鹿の存在を知らしめ、討伐命令を受けるのであった。それが、この度狩野宿村に訪れる一ヶ月前のことである。
 しかし、再び狩野宿村跡を訪れ景行は唖然とした。焼け野原となったはずの村が、以前と変わらぬ姿で存在していたからである。自分は幻を見ているのだろうか。いや、鹿神によって妖かしを見せられているのかもしれない、と思った景行は恐怖に駆られるがままに八畔鹿(鹿神)を弓矢で討つため鹿賀神社に向かった。
 すると、そこには神社の境内で寝伏せている暁美の姿があった。老人しか住んでいないようなこの村に、暁美のような子供が生まれるわけがない。妖かしかその類の者か、と思ったが、一旦それを見極める為、村へと送り届けるのであった。
 ──斯くして、暁美の話を聞くうちに考えを改め始めた景行。
 人の見えない恐怖と言うものは時として、鬼と思えば鬼となり、襲いかかってくるもの。しかし、人間と思えば人間となる。それが尊く神聖なものと思えば神となり、往き詰まり闇の中に囚われた景行にとっては、すべてが厄神に見えたのであった。
 そう。すべては、自分自身が災厄の元だったのだ。
 そう自責しながら、国へと歩き出そうとしたその時、景行は自分の出身国赤石藩の旗指物を掲げた手勢が狩野宿村へ向かってくるを見つけたのであった。
「あの軍旗は…、まさか殿がここまで…?」

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 そして、その夕方のこと。
 辺りはすっかり暗くなり、緋色に暮れ泥む空に夜の帳が下りて来るところだった。
 その頃、暁美は家の中で仰向きに寝転がって茅葺屋根をぼうっと見つめていた。
 すると、目の前に一粒の泡が現れた。それは以前、山で見かけたのと同じ泡であった。ふわふわと暁美の目の前に揺蕩いていて手を伸ばせば掴めそうだ。
「暁美、何しとん?」
 いつの間にか畑仕事から帰宅していた祖母が、奇異な目で暁美に訊ねた。
「泡!」
「……泡?」
「泡が目の前飛んでんねん…」
 祖母は、目を細くして凝らして前を見てみたが、泡らしいものは見えなかった。しかし次の瞬間、さてはと言った表情で暁美に泡の正体を明かす。
「変な事ゆー子やなぁ。その泡は目に付いとる埃なんちゃうんかいな?」
「ほこり?」
 暁美の眼の前に映っている泡は眼の表面に溜まった埃で、目を右に動かせば右に逃げていき、左に動かせば左に逃げていく。目の前にそれが泡の形として映っているだけであり、掴めないのは自明の理である。しかし、暁美は納得のいかない顔つきでその泡を追い続けた。すると、今度はその泡が天井の隅にくっつくようになった。
「あれ、なんか変やな…」
 目を右に向けても左に向けても、その泡は動かない。そして、その泡は一つだけではなく、どんどん視界の四方へ広がって行き、さては天井の一部だけではなく、囲炉裏や鍋、土間や竈と言った家の中にある色んな形ある物を侵食し始めていくのである。
「おっ、おばあちゃんっ!」
「今度は何やねんな?」
 祖母の方へ顔を向け、その姿を見た瞬間に暁美の身体中に戦慄が走った。なんと祖母の姿が、どんどん泡炙くに変わっていったのである。やがて、留まることのないその泡は家だけでなく村全体を覆っていった。
 暁美を一人取り残して。
 その頃、鹿賀神社と共に村の裏山が燃えていた。
 景行が制止するも虚しく、赤石藩主松平斉正の軍配によって香山に火が打ち放たれたのであった。
「貴様が言い出したことではなかったか、景行よ」
「恐れながら、殿。鹿神を殺めると更なる災厄が降りかかります」
「ふん、一度見(まみ)えてみるも一興と思ってな。このように炙り出せばいずれ出てくるのではないか?」
 森に棲む鹿たちは、猛威を振るう炎から逃げ惑い大半が炎に巻かれて死に絶えていった。その一方、狩野宿村はその里の大半が泡炙くと化して空中を揺蕩い、村から立ち昇り去っていくように飛んでいく。
 暁美は訳もわからないまま、その揺蕩う泡たちを目で追うことしか出来ずにいた。その先には鮮紅の炎に包まれて燃え盛る香山の姿があり、暁美はその光景を目の当たりにして嘆いた。 気がつけば、狩野宿村があった場所には、最初から村など存在しなかったかのように広大な平野や河川、雄大な山々が残るだけとなった。
「村が消えよる…」
 その光景を見ていた景行は唖然とした顔で呟いた。
 行く宛を失った泡たちは炎の熱によってたちまち儚げに消えていく。それは、森で死に絶えていく鹿の数と同じように消えていくようだった。
 完全に一人取り残された暁美自身も泡となり、姿形を変えていった。その泡は、やがて天地を駆ける大きな鹿の形へと姿を変えていった。やがてそれは咆哮し慟哭と共に大きなつむじ風を引き起こすと斉正手勢を包んで飲み込み始める。
「おい、なんやあれ! 鹿のバケモンや!」
 一人がそう叫んだ。しかし、次の瞬間にはつむじ風によって斉正手勢の大半が空の彼方へ吹き飛ばされていった。
「おおっ、あれが貴様の申しておった、やつぐろの鹿か!?」
 そう言って、鹿の化身に矢を向ける斉正。
「殿っ、お止めくだされ!」
「やかましい。邪魔立てする貴様に用はない。死ぬがいい!」
 斉正が景行に向けて矢を射放った瞬間、一陣のつむじ風が景行を取り巻いた。一瞬の出来事に目を瞑った景行だが、ゆっくりと目を開けてみると、目の前には自らの身体を呈して景行を庇い矢を受けた鹿の姿があった。その毛並みは五色に光り、悲しげな瞳で景行を見ていた。
「お、おまえ…なんでわしを庇って…」
 そう言って、五色の鹿を介抱する景行。自分を見つめる鹿の瞳に何故か見覚えがあった。
「おまえ…まさか、暁美なんか?」
「……」
 鹿は何も語らず、そのまま斉正の方へ顔を向ける。そして、達観したような瞳で斉正を見据えた。それは、過去、現在、未来を見透かし、何かを問いかけるような眼差しだった。
(私の首が欲しくば切り落として、どことなり持ち帰るがいい。その代わり景行を解放しなさい。そして、この地には二度と立ち入ってはならぬ)
 斉正が鹿の問いかけに理解を示したかどうかはわからないが、ゆっくり鹿の許に近づくと、脇差しの鞘から刀身を抜き出してその鹿の首をはねた。
「殿ぉっ!!」
 景行は凄惨な光景を目の当たりにして慟哭した。
 そんな景行を尻目に斉正は言い捨てる。
「景行、貴様の命は助けてやろう。鹿の首と引き替えだ。命を長らえたことをありがたく思うが良い」
 景行は頭を項垂れ、茫然自失のまま応えた。

 ──こうして、狩野宿村を襲った災厄は終わりを告げた。
 景行は失意のままに姿を眩まし、その後の行方を知る者はいないという。狩野宿村で起きた出来事は、景行のように歴史を引き継ぐ者がいないため、最初からそこには村など無かったかのように闇へと葬り去られる形となった。
 焼け跡となった香山は長い時間を経て新緑し、やがて森林となった。かつて村があったとされる跡には鹿賀神社が再建され、この地に纏わる土着神として鹿神が奉祀された。ただ、景行が携わったかは定かではない。
 そして、更に何回目かの春が訪れたとき、香山の麓で小切れの良い下駄の音が、かんっと空に響きわたるのだった──
<投稿者のゆっけさんからあとがきコメントがあります>
 まずは、「狩野宿村郷土史物語」を読んで頂きありがとうございました。
 出来る限り募集テーマを回収したつもりですが、いかがだったでしょうか。作品の内容は、日本神話や説話物語などの上代〜中世文学から引用し、オリジナルの部分をかけ合わせつつミックスアレンジしたものです。当初はもっと簡潔で短い内容にするつもりでしたが、描写を追加したり流れを変更したり変に辻褄をあわせようとしていたら文章が肥大化、かなり乱雑になってしまいました。挙句の果てには推敲する時間もなく、駆け足での入稿。読み返してみると、アレなところがいっぱいあるなぁ…。
 期限付きの投稿は、はじめての経験で色々大変でしたが、こうして無事に完結できましたことをうれしく思います。
 えーっと、まずこの作品を完成させた時に困ったのは、この作品にタイトルをつけることでした。色々考えたけど、結局、何のヒネリもないそのままの意味になってしまいました。もし、このタイトルを口に出して言うことを迫られた時には、どこにも視線を合わせずそのまま棒読みでお読みくださいね。
 メインテーマは「繰り返し」。多様な変化を見せながら均衡と調和を保つ四季折々。春はその始まり。春になると新しく生え変わる鹿の角を、繰り返される自然法則の象徴としまして、鹿さんをこの物語の中心に置いてみました。その結果、これでもかって程の鹿っぷり。
 物語の舞台は、旧播磨国のどこかです。その平野を流れる代表的な大河川の源流を辿って行くと、播磨・丹波・但馬三国を挟んだ国境に位置する山にぶつかります。主な題材元はそこから得ています。
 先述した、鹿というキーワードも物語に大きく関係しています。

 実は、本編では表現したかったことのほとんどが表現できていない状態です。頭の中では、あれやこれやと浮かぶのですが割愛しといたほうがいいですね。その部分をもっと本編で表現できていればなぁと思う次第です。
 なんか、内容の補足的なあとがきになってしまったのですが、最後までお付き合いいただいてどうもありがとうございました。とりあえずはみなさんの前に公開できてよかったです。そして、ねこると氏にはこの場を借りて、感謝の意を兼ねて述べさせて頂きます。
 また機会があれば、次回の作品でお会いしましょう。ではではーo(>□<*)ノ
<読んだ人の感想>
・蟲師のような雰囲気の話でしたが読みやすくて良かった。
・最後の一文が好きです。和風テイストなのにファンタジックな雰囲気。不思議な描写が魅力的。
・こういった話が出てくるとは思ってなかったので投票させて頂きます。
・ドラマとかアニメで見たい。

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