(帰ってきたヨッパライ/悲しくてやりきれない)といったヒット曲で一世を風靡した(ザ・フォーク・クルセダーズ)が解散した後、加藤和彦は北山修と組んで(あの素晴しい愛をもう一度)を発表、1971年の大ヒット曲になった。同じ年、加藤和彦はつのだひろの協力を得てソロ・アルバム(スーパー・ガス=所有)を制作発表している。この頃から加藤和彦はロックを志向していた?加藤とつのだのふたりは、当時の加藤和彦夫人だったミカとともに(サイクリング・ブギ)を制作する。(サイクリング・ブギ)は加藤が設立したプライベート・レーベル「ドーナツ・レコード」から1972年にシングルとして発売される。名義は[SADISTIC MIKA BAND]だった。[SADISTIC MIKA BAND]はそのままバンド形態へと発展する。ギターは高中正義だった。高中はつのだひろと成毛滋とのトリオ(フライド・エッグ)のベーシストだったが、本来は才能溢れる若いギタリストだった。ベースの小原礼はこの頃、高橋幸宏とともに(ガロ)のバックで演奏していた。バンドの結成に携わったつのだは、自身のバンド結成のためにすぐに脱退、その後任のドラマーとなったのが高橋幸宏だった。このメンバーによって、1972年の暮れにステージ・デビュー/アルバムの制作に取りかかった。完成したアルバムは1973年5月、[SADISTIC MIKA BAND]のタイトルで発表される。アルバムは全10曲を収録し(サイクリング・ブギ)がボーナス・シングルとして付加されるという異色の構成だった。Debut albumを発表した後、今井裕(Key)が加わる。1972年から1973年にかけて、日本のポップ・ミュージック・シーンではフォークが台頭し、アイドル歌謡が隆盛の時期を迎えようとしていた。遠く離れたイギリスでは(Hard Rock/Progressive Rock)が隆盛の時期を迎え、ロンドンでは(Glam Rock)が艶やかに咲き誇っていた。日本のロック・シーンもようやく試行錯誤を繰り返した黎明期の混迷を抜け出し、発展の時代を迎える気配はあったが、海外のロック・ミュージック、特に英国のロックを聴き親しんでいたロック・ファンにとって、とても満足できる状況ではなかった。当時の日本のロック・バンドのほとんどは音楽的なスケール感に乏しく、心を沸かせる[ロックの匂い]が足りなかった。サディスティック・ミカ・バンドのデビューは衝撃的だった。彼らの音楽にはBlues Rockへの志向は感じられなかった。その音楽にあったのは当時ロンドンを席巻していた(Glam Rock)の匂いだった。サディスティック・ミカ・バンドの音楽は、Colorful/Glamorous/Fashionable/Danceableなロックだった。彼らの音楽は基本的にポップでわかりやすく、陽気で楽しく[ノリ]がよく、肩肘を張らず、気負いがなく、そしてまた加藤和彦自身の言葉を借りれば(汗くさくない)ロックだった。その音楽は色彩感覚に溢れ、ぎらぎらと艶めかしく煌めき、享楽的で、知的だった。その加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドが当時の日本ロック・シーンで第一級のロック・バンドになり得たのは、そのメンバーたちの演奏の並外れた力量によるものだった。ギターの高中正義/ベースの小原礼/ドラムの高橋幸宏の三人も、当時の音楽シーンで最も注目すべきミュージシャンとして知られた人たちだった。その演奏の技術、センスともに申し分のないものだった。そして、ミカ!彼女は決して上手いシンガーではなかった。しかし彼女の存在は強烈に(ロック)のオーラを放った。このデビュー・アルバムに収録された楽曲はいずれも基本的にわかりやすいメロディ・ラインを持ったポップ・ソングだが、それがバンドのメンバーたちのセンスの良い演奏によって煌びやかな(ロック)の意匠を身に付けている。ハードなRock N Roll/Boogie、ルーズな感じのRock N Roll/Reggae風の味付けのものまで、さまざまな曲調の楽曲が並んで飽きさせない。Reggae風のリズムを持った演奏は、当時の日本ロック・シーンに於いて他に類例がない!シンセサイザーまで駆使した演奏は(Progressive Rock)の形態さえ含んだものだが、実験的な先進性からは背を向け、あくまでDanceableなRock N Rollの楽しさという点に重きが置かれた演奏だ。アルバムに収録された楽曲のほとんどは、松山猛が詞を書き、加藤和彦が曲を書いている。例外はミカ作詞、高中正義作曲の(怪傑シルヴァー・チャイルド)、高橋幸宏作曲による(恋のミルキー・ウェイ/ピクニック・ブギ)、そしてつのだひろ作詞の(サイクリング・ブギ)に過ぎない。このアルバムは加藤和彦の類い希なメロディー・メーカーとしての才能が存分に発揮されたアルバムだ。高中正義、高橋幸宏、小原礼というミュージシャンたちの演奏もアルバムの魅力だ。高橋幸宏と小原礼は当時、R&Bやファンクといった音楽を志向していたらしいが、フォークをルーツに持つ加藤和彦の音楽性とうまく融合してこのような素晴らしいロックが誕生した。彼らの後の活躍を知っている現在になってこのアルバムを聞くと、彼らの演奏がなぜこれほどまでに魅力的なのかということにも納得がいく。当時の日本ロック・シーンではかなり画期的な方法論を携えてデビューしたサディスティック・ミカ・バンドだったが、デビュー直後の彼らは決して順風満帆というわけではなかった。メディアでもそれほど評判にならなかったし、商業的にもデビュー・アルバムは当初あまり売れなかった。彼らのデビューとほぼ同時期、キャロルがデビューし、一気に人気を得てセンセーショナルな話題をさらった。瞬く間にキャロルは日本の「ロック」を代表するバンドとして認知され、サディスティック・ミカ・バンドは片隅に追いやられた。サディスティック・ミカ・バンドの代表曲と言えば、次作[黒船=所有]]に収録され、シングルとしてもヒットした(タイムマシンにお願い)だが、初期サディスティック・ミカ・バンドの魅力を最も象徴的な楽曲は、(ピクニック・ブギ)だ。T.Rexの演奏、いわゆる「BOLAN BOOGIE」を濃厚に感じさせる演奏も素晴らしいものだが、何しろミカのヴォーカルが凄い。ミカのヴォーカルは、下手だ。まるっきり素人だと言っていい。それなのに、その歌声が放つ圧倒的なまでのロックとしての迫力!その強烈な印象こそが、サディスティック・ミカ・バンドを(ロック・バンド)として成立させている。歌唱技術の未熟さ故にミカのヴォーカルに否定的な意見も少なくはないが、ミカの歌唱は技術云々を超えてロックのオーラを放っている。ミカの歌唱とその存在そのものに、ロックというものの本質を見たファンは少なくない。ミカのVocalが後のNew Wave系の女性ヴォーカリストに少なからぬ影響を与えた。サディスティック・ミカ・バンドのデビュー・アルバムはロンドンの一部の関係者に渡り、徐々に話題を集めてゆく。そうしてChris Thomasからのオファーを受ける形でプロデュース、日本ロック史上に残る傑作アルバム[黒船]のリリースが実現する。このニュースは当時の日本ロック・シーンで大きな話題になった。その後、ベースは小原礼が脱退し、後藤次利が参加。次作「黒船」のレコーディングも終わった1974年5月、[SADISTIC MIKA BAND]のデビュー・アルバムが英国で発売された。日本人のバンドによって日本で作られ、日本語で歌われたロック・アルバムが英国で発売された。それは当時の日本ロックの[誇り]だった!その後も若干のメンバーチェンジを繰り返しながら活動を続け,海外からの注目も浴びるようになるが,'75年のイギリス・ツアーから帰国後,加藤とミカが離婚,バンドも解散.解散時の加藤夫妻以外のメンバー,高中・高橋・今井・後藤次利(B)は[SADISTICS=所有]として活動を続けた。
ダンス・ハ・スンダ / Dance Is Over 怪傑シルヴァー・チャイルド / Siver Child 宇宙時計 / Cosmic Watch シトロン・ガール(金牛座流星群に歌いつがれた恋歌) / Citron Girl 影絵小屋 / Shadow Show 空の果てに腰かけて / (I'm Sitting On) The Edge Of Sky 銀河列車 / Gallaxy Way アリエヌ共和国 / Arienu Republic 恋のミルキー・ウェイ / Milky Way ピクニック・ブギ / Picnic Boogie