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久津媛 (ひさつひめ)コミュの東部中紙芝居原案

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東部中学校で制作する「広瀬久兵衛」の紙芝居の草稿です。
今、先哲資料館の平井先生にも監修という形で見てもらっています。

古代史研究会の皆さんにも一読いただいて、意見をもらえたらと思います。
細かい歴史事実の部分は、平井先生から指摘頂けると思いますが・・・。
小学校中〜高学年くらいが対象になるので、言葉遣いとかの指摘大募集です。
あとは、もっととりあげたいエピソードとか、このエピソードいらない、とか。

生徒への指導は、11月12日の土曜日、午前中を予定しています。
生徒には今週金曜日に草稿を渡して、12日までに割り振りと
構図の案をつくってもらいます。

原稿の細かい修正自体は金曜以降でも間に合いますが、
シーンについては割り振りの問題があるので、
急がせて申し訳ありませんがはやめにお願いします。

--------------------------------------------------------------------


今から200年前の江戸時代。
日田の豆田の町には、たくさんのお店が並んでにぎわっていました。
そのなかのひとつ、『博多屋』というお店に、
広瀬久兵衛という若い旦那さんがおりました。


久兵衛の『博多屋』は、ふつうのお店のように、
店先に品物を並べて売っているわけではありません。
日田のお役所に集まってくる九州中の米やお金を預かる、
銀行のような仕事をしていました。
「掛屋」というこの仕事は大変難しいものでしたが、
久兵衛は21歳の若さでこの仕事をお父さんから受け継ぎました。
それには、一つ理由がありました。


もともと、久兵衛には、8歳年上のお兄さんがいました。
ほんとうなら商人として家を継ぐのは、長男であるそのお兄さんのほうでした。
しかしお兄さんは身体が弱く、とても商売をすることはできませんでした。
お兄さんは嘆きました。
「ああ、ふがいない。お前にばかり苦労をかけてしまうなんて。」
しかし久兵衛は言いました。
「大丈夫ですよ。お兄さんには学問があるじゃあありませんか。
お店の事は私にまかせて、どうぞ学問の道に進んでください。」
こうして久兵衛は若くしてお店を継いだのです。


ちなみにお兄さんはその後、学問をきわめて、咸宜園という塾を開き、
たくさんの人を育てました。みなさんもご存知の、広瀬淡窓です。
とはいえ、咸宜園も最初から今のように有名だったわけではありません。
生徒が少なく、お金が足りないときには、久兵衛が援助することもありました。
もし久兵衛がいなったら、咸宜園はなかったのかもしれません。


さて、久兵衛が27歳のときのこと。
日田の町に、塩谷大四郎という、あたらしい代官さまがやってきました。
代官さまは、親子ほども歳のはなれた久兵衛の才能をみとめてかわいがりました。
そして、たくさんの仕事を久兵衛にまかせました。


そのひとつが、今も日田市内を流れる、小ケ瀬井路の建設でした。
田島など、当時あまり米のとれなかった村に水路を引いて、
米をたくさんとれるようにするための工事です。
もともと計画はあったものの、「工事があまりに難しい」とあきらめられていたのですが、
久兵衛は念入りに下調べをして、「これならいける」と、自分から進んで水路建設の責任者になりました。


しかしやはり、工事はとても難しいものでした。
岩が固くて、1日かかってわずか10センチしか進まないこともありました。
会所山という山にトンネルを通すときには、岩が崩れてきたり、
穴の中で空気が足りなくなったりと、たくさんの危険がともないました。
それでも久兵衛たちは、トンネルの上に明り取りの穴を掘るなどの
工夫をして、粘り強く工事をすすめていきました。


建設の間、久兵衛は雨の日にも毎日欠かさず現場に通いました。
そのとき着ていた蓑が、今も残されています。
工事のあまりの難しさに、反発した人たちが一揆をおこそうとしたこともありました。
しかし久兵衛はそんなときにも、水路の大切さをじっくり説明して、どうにか皆を説得しました。


こうして2年あまりの月日をかけて、ついに小ケ瀬井路が完成しました。
水の引かれた13の村では、米の収穫がぐんと増えました。
それだけでなく、小ケ瀬井路の完成は、日田によりよい暮らしをもたらしました。
水路が城内川と合流した事により水の量が増え、船を通せるようになったことで、
日田の商業はさらに発達しました。
市内を血管のように枝分かれして流れる水は、生活や防火のためにも役立ちました。
日田が「水郷」とよばれるのは、この小ケ瀬井路のおかげでもあるのです。

10
小ケ瀬井路の工事を成功させた久兵衛の名前は、大分だけでなく福岡や長崎にまで広まりました。
「ここに田んぼを作ってくれ」
「ここにトンネルを掘ってくれ」
「ここに橋をかけてくれ」
はたまた、「わたしの藩の財政をたてなおしてくれ」というお殿様もおりました。
たくさんの人が久兵衛を頼り、久兵衛もその声によくこたえ、生涯でいくつもの大仕事を成し遂げました。

11
みんなに頼られて、呼ばれればどこへでも飛んでいく。
久兵衛は、まるで江戸時代のスーパーマンのような人でした。
大分市内のお城に呼ばれたときには、朝の四時に日田を出て、
湯布院で一晩泊まって、次の日の朝9時にはもう到着していたという記録が残っています。
もちろん全て自分の足で歩いてのことです。
このときすでに50歳を越えていたのですから、お兄さんの淡窓とくらべるとずいぶん丈夫な人でした。

12
久兵衛は、強い身体だけでなく、強い心を持った人でもありました。
こんなお話も残っています。
久兵衛が75歳のとき、孫くらいに歳のはなれた、南一郎平という人が訪ねてきました。
一郎平もまた難しい工事に挑戦するため、久兵衛に知恵とお金を借りに来たのでした。
一郎平は言いました。「地元のひとたちも、皆あなたを頼りにしています。どうか力を貸してください」
しかし久兵衛は何も言わずに席を立ってしまいました。

13
困った一郎平は、もう一度久兵衛のところに行って、必死になって言いました。
「どうかお願いします。私は、自分の身がどうなってもこの仕事をやりとげる覚悟です」
するとそれを聞いた久兵衛は、急ににこにこしだして、こういいました。
「そう、私は地元の人たちのことではなく、君自身の決意が聞きたかったのだ」
久兵衛は率先して工事に協力し、お金もたくさん貸しました。
「もし失敗したら返せない」と一郎平が心配すると、「そんなことは覚悟のうえだ」と笑って言いました。
強い決意を持っていれば、どんな困難もやり遂げられると信じていたのです。

14
久兵衛はこんな言葉も残しています。
「欲がない人、というのはいません。ですが、自分の欲よりも『正しい事をしよう』という気持ちが強く
なったときは、すっぱりと欲を捨てなくてはいけません」
久兵衛はこの言葉の通り、自分の利益は考えず、いつも正しいと思った事を行える人でした。
いつも人を縁の下で支えて、決して表に出ることをしなかったので、お兄さんの淡窓にくらべると、
久兵衛の名前はあまり知られていません。
ですが、咸宜園も小ケ瀬水路も、九州各地のさまざまな事業も、久兵衛なしでは決して成功しなかったでしょう。
どうか皆さんも、日田の町を歩くときには、広瀬久兵衛の仕事がこの町の一部を作った事を思い出してみてください。

コメント(15)

ちょっと文章長いので、特に後半、いくらか文章短くすることにになると思いますあせあせ(飛び散る汗)


船で米を運ぶことが出来るようになった。

最後に、
名誉名な表彰されても その表彰を受けることはしなかった。


これも入れて欲しいなって思います

それと、どこに、盛り上げる部分をもってくるか。
小ヶ瀬井路の成功に感動出来る文章・内容があれば面白くなりそうです。

トンネルが貫通したしたときの、様子とか。

11 12 13 14 をすこしまとめると、貫通の様子も入れられそう



個人的な意見ですので、あまり気にしないでくださいませ



お疲れ様です!!

久兵衛さんの、まとめるの大変だったかと思います。

私の意見としては、

今は、事実を本当にまとめただけですので、ちょっとストーリー性に乏しいかと思います。

あと、もうひとつは情報量が多いかな・・・しょうがないですが。
久兵衛さんが塩谷大四郎さんというひとと事業を行ったことと彼の人柄がメインストーリーですので、導入は簡単に。
塩谷大四郎さんの登場をもう少し早くしたほうがいいと思います。


紙芝居のはじめに、久兵衛さんがたんそうさんの8才下の弟だと紹介して紙芝居を始めれば、

2番を『掛合は今で言う銀行のような仕事で、体の弱い兄のたんそうに代わって久兵衛が21歳の若さで継いだ』ことが説明できると思います。

↑博多屋が他の店とちがう・・・という入りが面白いなと思ったのですが、その後金貸しの話が後の方にしか出てこないので、そこまで印象付けることもないかも。。。それよりサクサク本題に入ったほうがいいかと思い削りました。
入れてもゴタゴタしないなら入ってていいと思うのですが。

4番咸宜園のお話は丸々いらないかと思います。



あと、数字が多いのも気になるかも・・・
とはいえ、なかなか削れない物ですよね。

久兵衛さんいろいろがんばりすぎ!!(笑

あとはかじさんと天孫降臨さんの気になってるとおり、後半が今羅列ぽくなっているので、上手くまとめられるといいかと。。。

***
文章断定で書きましたが、一意見として見ていただければと思います(^^)
ほんとにお疲れ様です!
そして引き続きよろしくお願い致します!!
m(_ _)m
・小ケ瀬井路と塩谷さまのウェイトを増やして、エピソード分を減らしてみました。

・小ケ瀬井路開通のとこ、もっとドラマティックに!したかったら誰か書いて!!
ここはあとでも修正きくと思うので。

・抜いたほうがいいっていわれたとこ以外も抜いちゃったりしてますが、どんなもんでしょう

・天孫さんの要望もちょこちょこいれてます!

・商人としての久兵衛が重用された必然性を補強しました。これなら博多屋の説明あってもいいかなと。

・久兵衛が掛屋になったのは隠居後で、それまでは「初藩御用達」でした。
まあやってることは大して変わらないので、掛屋の名称だけ抜いてます。

以上!寝る!

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むかしむかしの、江戸時代の日田。
豆田の町には、たくさんのお店が並んでにぎわっていました。
そのなかのひとつ、『博多屋』というお店に、広瀬久兵衛という若い旦那さんがおりました。
久兵衛は、みなさんもご存知、後に咸宜園を開く広瀬淡窓の弟です。
体の弱い淡窓のかわりに、久兵衛は二十歳すぎの若さで、この『博多屋』を継いだのでした。


久兵衛の『博多屋』は、ふつうのお店のように、
店先に品物を並べて売っているわけではありません。
幕府や藩のお役所に出入りして、お金の貸し借りなどを行う、
銀行のような仕事をしていました。
簡単な仕事ではありませんでしたが、商売の才能のあった久兵衛は、
若いながらも上手に店を切り盛りしていました。


久兵衛が家をついで数年がたった頃。
日田の町に、塩谷大四郎というあたらしい代官さまがやってきました。
代官さまには、大きな目標がありました。飢えに苦しむ人たちを救い、
日田の町をもっと豊かな土地にすることです。
そのためには、水路や田んぼの開発など、大掛かりな工事が必要だと、代官さまは考えました。


しかし大きな工事には、たくさんのお金がかかります。
実現させるためには、お金を持ちの商人の力が欠かせませんでした。
代官さまは、日田の商人の中でも若くして才能をみせる久兵衛に目をつけました。
「君はまだ若いのに、大変立派な仕事をしている。ぜひ、君に私の仕事を手伝ってもらいたい」
親子ほども歳のはなれた代官さまに頼られて、久兵衛は張り切りました。
「大変やりがいのある、ありがたいお話です。きっと、お役に立ってみせましょう」
この出会いは、久兵衛の人生を大きく変えることになりました。


代官さまはかしこい久兵衛を信用して、たくさんの仕事を任せました。
そして久兵衛も、よくそれに応えました。
そんな二人が行なった最も大きな仕事は、今も日田市内を流れる、小ケ瀬井路の建設でした。
田島地区など、当時貧しかった土地に水路を引いて、米のたくさんとれる豊かな土地にするための工事です。


もともと計画はあったものの、この工事は、だれもが難しすぎるとあきらめていたものでした。
しかし代官様から責任者に大抜擢された久兵衛は、念入りな下調べの末、
困難ではあっても、水路は作れると確信しました。
「この工事は、日田の将来のために、きっと役に立つものです。どうか、一緒に頑張りましょう」
久兵衛は協力を渋る村の代表者たちを根気づよく説得して、ようやく水路工事をはじめることができました。


しかしやはり、工事はとても難しいものでした。
岩が固くて、1日かかってわずか10センチしか工事が進まないこともありました。
会所山という山にトンネルを通すときには、岩が崩れてきたり、
穴の中で空気が足りなくなったりと、たくさんの危険がともないました。
それでも久兵衛たちは、トンネルの上に明り取りの穴を掘るなど、
工夫をこらして、粘り強く工事をすすめていきました。


工事のあまりのつらさに、反発した人たちが一揆をおこそうとしたこともありました。
しかし久兵衛はそんなときにも、決してあきらめたりはしませんでした。
「たしかに、この工事にはたくさんのお金がかかる。人手もたくさんいるし、危険も多い。
しかし、私たちの苦労が、この先の日田の子供たちにどんなに役に立つか考えてみてください」
水路の大切さをじっくり説明することで、久兵衛はどうにか皆を説得することができました。

建設の間、久兵衛は雨の日も風の日も、毎日欠かさず現場に通いました。
掛屋として工事のためのお金を貸すだけではなく、常にみんなと苦労を共にしたのです。
今でも残されている久兵衛の擦り切れたみのが、水路工事の苦しみを見てきた証人です。
そうして2年あまりも苦労に苦労をかさねて、ついに小ケ瀬井路が完成した日。
貧しい土地での暮らしに耐えてきた人たち、工事の苦労をともにして、ときには反発もした人たち。
みんなが手を取り合って喜ぶ姿を見て、久兵衛はまあるい顔で、満足そうに、にっこりと笑いました。

10
小ケ瀬井路の完成は、日田によりよい暮らしをもたらすことになりました。
水の引かれた村々では、米の収穫がぐんと増えました。
また、水路によって豆田を流れる城内川の水の量が増え、年貢米を運ぶ船が通れるようになりました。
これによって、日田の商業はさらに発達することになりました。
市内を血管のように枝分かれして流れる水は、生活や防火のためにも役立ちました。
日田が「水郷」とよばれるのは、この小ケ瀬井路のおかげでもあるのです。

11
さて、小ケ瀬井路の工事が終わると、代官さまは休む間もなく久兵衛に命じました。
「よし、次は宇佐の海岸沿いに、新しい田んぼを開いてくれ」
久兵衛は嫌とも言わず、このときも率先して工事に関わりました。
小ケ瀬井路の工事で得た土木工事の知識と経験を活かして、
久兵衛はいくつもの田んぼの開発を成功させました。
その田んぼのひとつは、事業のいちばんの功労者にちなんで、
「久兵衛新田」と名付けられました。

12
代官さまのもとで、2つの大事業を成功させた久兵衛の名前は、
大分だけでなく福岡や長崎にまで広まりました。
そうすると、たくさんの人が久兵衛を頼ってくるようになります。
「ここに田んぼを作ってくれ」
「ここにトンネルを掘ってくれ」
「ここに橋をかけてくれ」
はたまた、「わたしの藩の財政をたてなおしてくれ」というお殿様もおりました。
久兵衛は、そうした声にもよくこたえてほうぼうを駆け回り、
生涯でいくつもの大仕事を成し遂げました。

13
久兵衛がこれだけたくさんのことをやってこれたのは、誰よりも強い心を持っていたからです。
久兵衛は後に、こんな言葉を残しています。
「欲がない人、というのはいません。ですが、自分の欲よりも『正しい事をしよう』という気持ちが強く
なったときは、すっぱりと欲を捨てなくてはいけません」
久兵衛はこの言葉の通り、自分の利益は考えず、いつも正しいと思った事を行える人でした。

14
そしてその言葉のとおり、久兵衛はいつも影で人を支えて、決して表に出ることをしない人でした。
どんな褒美や名誉も断って、自分の肖像画もなかなか描かせようとしませんでした。
だからお兄さんの淡窓にくらべると、久兵衛の名前はあまり知られていません。
しかし、小ケ瀬水路をはじめとする九州各地のさまざまな事業も、
久兵衛なしでは決して成功しなかったでしょう。
どうか皆さんも、日田の町を歩くときには、広瀬久兵衛の仕事が
この町の一部を作っているという事を、思い出してみてください。
夜おそくまでお疲れ様です。

いい雰囲気です。

東部中とがんばりましょう
お疲れ様です。
前よりずっと紙芝居らしく、面白くなったように感じました(^^)

このままでもいいと思ってますが少し直しも入れました。
ちょっと大げさにした感じです。
スルーでもぜんぜんOK



1:二十歳すぎの若さ→21歳でいいとおもいます
(え、お前が数字削れって言ったんだろって?-З-〜♪)

5:そんな二人が行なった最も大きな仕事は、今も日田市内を流れる、小ケ瀬井路の建設でした。→この部分は結果のように言わないほうがいいと思います。

ある年、二人は小ケ瀬井路の建設を始めることにしました。
田島地区など当時貧しかった土地に水路を引いて、米のたくさんとれる豊かな土地にするための工事です。

6以降少し文章は変えました

6:小ケ瀬井路の建設は、まえまえから計画はあったものの、工事が難しすぎると誰もがあきらめていました。
しかし久兵衛はちがいました。
念入りな下調べの末、 困難ではあっても、水路は作れると確信したのです。
「この工事は、日田の将来のために、きっと役に立つものです。どうか、一緒に頑張りましょう」
久兵衛の根気強い説得で、無理だと諦めていた村の人々も工事に協力してくれるようになりました。

7 工事はそれはそれは難しいものでした。
水路を掘るのに、そのあたりの土地はとても岩が固く、1日たった10センチしか工事が進まないのです。
ようやく工事が進んだと思ったら、今度は会所山にトンネルを通すとき岩が崩れてきたり、穴の中で空気が足りなくなってしまうなど、たくさんの危険もともないました。

7.5:それでも久兵衛たちは、諦めませんでした。
トンネルの上に明り取りの穴を掘り空気をとりこむなど、工夫をこらして粘り強く工事をすすめていったのです。

8 しかし、工事のあまりのつらさに、耐えられなくなった人々がとうとう作業の中止を求めて一揆を始めました。
その時も久兵衛は
「たしかに、この工事にはたくさんのお金がかかる。人手もたくさんいるし、危険も多い。
しかし、私たちの苦労が、この先の日田の子供たちにどんなに役に立つか考えてみてください」
と諦めることなく水路の大切さみんなに訴えました。

9:久兵衛は雨の日も風の日も、毎日欠かさず現場に通いました。
掛屋として工事のためのお金を貸すだけではなく、常にみんなと苦労を共にしたのです。
そんな久兵衛の姿に、反発していた人々は感動し、前以上に一生懸命作業をするようになってくれたのです。

今でも残されている久兵衛の擦り切れたみのが、水路工事の苦しみを見てきた証人です。

10:そうして2年あまりも苦労に苦労をかさねて、ついに小ケ瀬井路が完成しました。
貧しい土地での暮らしに耐えてきた人たち、工事の苦労をともにして、ときには反発もした人たち。
みんなが手を取り合って喜ぶびました。
その姿を見て、久兵衛はまあるい顔で、満足そうににっこりと笑いました。

11:
小ケ瀬井路の完成は、日田によりよい暮らしをもたらすことになりました。
水の引かれた村々は、米の収穫がぐんと増え、 水路によって豆田に荷物を運ぶ船が通れるようになりました。
こ日田が「水郷」とよばれるのは、この小ケ瀬井路のおかげでもあるのです。

12 :さて、小ケ瀬井路の工事が終わると、代官さまは
「次は宇佐の海岸沿いに、新しい田んぼを開いてくれ」
と久兵衛に命じました。
休む間もない作業にもかかわらず、久兵衛はひと言も文句を言わず率先して工事に向かいました。
そうしていくつもの田んぼの開発を成功させました。
その田んぼのひとつは、事業のいちばんの功労者にちなんで、
「久兵衛新田」と名付けられました。

13:代官さまのもとで、大事業を成功させた久兵衛の名前は、
大分だけでなく福岡や長崎にまで広まりました。
うわさを聞きつけ、たくさんの人が久兵衛を頼ってくるようになりました。
「ここに田んぼを作ってくれ」
「ここにトンネルを掘ってくれ」
「ここに橋をかけてくれ」
はたまた、「わたしの藩の財政をたてなおしてくれ」というお殿様もおりました。
久兵衛は、ほうぼうを駆け回り、沢山の人の手助けをしました。
さらに久兵衛は、どんな褒美や名誉も断って、自分の肖像画さえなかなか描かせようとしませんでした。
そのために、小ケ瀬水路をはじめとする、九州各地のさまざまな大事業を成功させたにも関わらず、 あまり久兵衛の名前は知られていません。


13:久兵衛は後に、こんな言葉を残しています。
「欲がない人、というのはいません。ですが、自分の欲よりも『正しい事をしよう』という気持ちが強く なったときは、すっぱりと欲を捨てなくてはいけません」
久兵衛はこの言葉の通り、自分の利益は考えず、いつも正しいと思った事を行える人だったのです。
皆さん、日田の町を歩くときには、広瀬久兵衛の仕事が
この町の一部を作っているという事を、ぜひ思い出してみてください。

>>ソラミさん

シーン分けとか、さすが!
ぜひ参考にさせてもらいます。

平井先生の監修は史実の確認とかがメインになるかと
思いますので、シーンに関してはソラミさんの意見取り入れて
ちょっといじればほぼ確定です。

金曜日にその原稿もって、美術部に行ってきます。
そんで、割り振りと構図のラフを、12日土曜までにやってもらいます。

詳細は、金曜日の夜にお知らせ出来るかと思います。
ありがとうございます。
かじ君の元の文章があってこそです。

構成がしっかりできていたんで、手を入れるのが比較的簡単なんです。

忙しい中本当にお疲れ様でした!

とはいえまだこれからなんですよね(汗
引き続きよろしくお願いします。

平井先生にも意見をいただき、久兵衛の最終的な原稿を東部中学校に持っていきました。
今、中学生に案を作ってもらっています。


むかしむかしの、江戸時代の日田。
豆田の町には、たくさんのお店が並んでにぎわっていました。
そのなかのひとつ、『博多屋』というお店に、広瀬久兵衛という
若い旦那さんがおりました。
久兵衛は、みなさんもご存知、後に咸宜園を開く広瀬淡窓の弟です。
体の弱い淡窓のかわりに、久兵衛は21歳の若さで、この『博多屋』
を継いだのでした。


久兵衛の『博多屋』は、ふつうのお店とは大きく違っていました。
その主な仕事は、幕府や藩のお役所に出入りして、お金の貸し借りなどを行う、
銀行のような仕事でした。
簡単な仕事ではありませんでしたが、商売の才能のあった久兵衛は、
若いながらも上手に店を切り盛りしていました。


久兵衛が家をついで数年がたった頃。
日田の町に、塩谷大四郎というあたらしい代官さまがやってきました。
代官さまには、大きな目標がありました。飢えに苦しむ人たちを救い、
日田の町をもっと豊かな土地にすることです。
そのためには、水路や田んぼの開発など、大掛かりな工事が必要だと、
代官さまは考えました。


しかし大きな工事には、たくさんのお金がかかります。
実現させるためには、お金持ちの商人の力が欠かせませんでした。
代官さまは、日田の商人の中でも若くして才能をみせる久兵衛に目をつけました。
「君はまだ若いのに、大変立派な仕事をしている。ぜひ、君に私の仕事を手伝ってもらいたい」
親子ほども歳のはなれた代官さまに頼られて、久兵衛は張り切りました。
「大変やりがいのある、ありがたいお話です。きっと、お役に立ってみせましょう」
この出会いは、久兵衛の人生を大きく変えることになりました。


代官さまはかしこい久兵衛を信用して、たくさんの仕事を任せました。
そして久兵衛も、よくそれに応えました。
ある年、二人は小ケ瀬井路を切り開く工事をはじめることになりました。
田島地区など当時貧しかった土地に水路を引いて、米のたくさんとれる
豊かな土地にするための工事です。


小ケ瀬井路の建設は、まえまえから計画はあったものの、
工事が難しすぎると誰もがあきらめていました。
しかし久兵衛はちがいました。
念入りな下調べの末、 困難ではあっても、水路は作れると確信したのです。
「この工事は、日田の将来のために、きっと役に立つものです。どうか、
一緒に頑張りましょう」
久兵衛の根気強い説得で、無理だと諦めていた村の人々も工事に協力して
くれるようになりました。


工事は、それはそれは難しいものでした。
水路を掘るのに、そのあたりの土地はとても岩が固く、
1日たった10センチしか工事が進まないのです。
ようやく工事が進んだと思ったら、今度は会所山という山にトンネルを
通すとき岩が崩れてきたり、穴の中で空気が足りなくなってしまうなど、
たくさんの危険もともないました。
それでも久兵衛たちは、諦めませんでした。
トンネルの上に明り取りの穴を掘り空気をとりこむなど、
工夫をこらして粘り強く工事をすすめていったのです。


しかし、工事のあまりのつらさに、耐えられなくなった人々が
とうとう作業の中止を求めて一揆を計画しました。
その時も久兵衛は 諦めることなく水路の大切さみんなに訴えました。
「たしかに、この工事にはたくさんのお金がかかる。人手もたくさんいるし、
危険も多い。 しかし、私たちの苦労が、この先の日田の子供たちにどんなに
役に立つか考えてみてください」
皆は久兵衛の真剣さにうたれて、また工事に協力するようになりました。


久兵衛は雨の日も風の日も、毎日欠かさず現場に通いました。
掛屋として工事のためのお金を貸すだけではなく、常にみんなと
苦労を共にしたのです。
そんな久兵衛の姿に、反発していた人々は感動し、前以上に一生懸命
作業をするようになってくれたのです。
今でも残されている久兵衛の擦り切れたみのが、水路工事の苦しみを
見てきた証人です。

10
そうして2年あまりも苦労に苦労をかさねて、ついに小ケ瀬井路が完成しました。
貧しい土地での暮らしに耐えてきた人たち、工事の苦労をともにして、
ときには反発もした人たち。
みんなが手を取り合って喜ぶびました。
その姿を見て、久兵衛はまあるい顔で、満足そうににっこりと笑いました。

11
小ケ瀬井路の完成は、日田によりよい暮らしをもたらすことになりました。
水の引かれた村々は、米の収穫がぐんと増え、ました。
豆田を流れる城内川は水路によって水が増えて、荷物を運ぶ船が通れるようになりました。
これによって、日田の商業はさらに発展することになりました。
日田が「水郷」とよばれるのは、この小ケ瀬井路のおかげでもあるのです。

12
さて、小ケ瀬井路の工事が終わった後も、
代官さまや、久兵衛の評判をききつけてきた人々が、
たくさんの仕事を久兵衛に頼みました。
「ここに田んぼを作ってくれ」
「ここにトンネルを掘ってくれ」
「ここに橋をかけてくれ」
はたまた、「わたしの藩の財政をたてなおしてくれ」というお殿様もおりました。
久兵衛は、ほうぼうを駆け回り、沢山の仕事を成し遂げました。
皆が久兵衛をほめたたえ、お礼や褒美を与えようとします。
しかし久兵衛はいつも、どんな褒美や名誉も断ってしまうのでした。

13
久兵衛の最後の仕事になったのは、大分市の机張原(きちょうばる)
という土地に田んぼを開く事でした。
すでに八十歳を越えるおじいさんになっていた久兵衛でしたが、
机張原の地に自ら住み込んで、先頭に立って皆と仕事をしました。
しかしこの仕事のなかば、日田に帰ってきた久兵衛は、
長年の無理がたたったか、そのまま倒れて亡くなってしまいました。
最後の最後まで、自分の身を捨ててでも、人々のためになる道を選んだ人生でした。
大分市机張原では、今でも久兵衛の命日に人々が集まり、
位牌に手を合わせて、そんな久兵衛を偲ぶお祀りをしています。


14
久兵衛はわたしたちに、こんな言葉を残しています。
「欲がない人、というのはいません。ですが、自分の欲よりも『正しい事をしよう』
という気持ちが強く なったときは、すっぱりと欲を捨てなくてはいけません」
久兵衛はこの言葉の通り、自分の利益は考えず、いつも正しいと思った事を行える
人だったのです。
皆さん、日田の町を歩くときには、広瀬久兵衛の仕事が
この町の一部を作っているという事を、ぜひ思い出してみてください。
すごい読みやすく&読み応えありました!!!

一揆が8だけで解決するよりは9の最後まで引っ張ったほうが面白いかなあと思ってたのですが、やっぱりそれは歴史的にはちょっとちがうのかな
(@p@?

なんにせよ
とても面白かったです!!!(^^)

ありがとうございました!

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