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松田直樹選手を永遠に応援する会コミュの【追悼・松田直樹】彼のひと言が多くの選手たちの支えになった

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【常に世界を見ていたスケールの大きな選手】

 8月4日、松田直樹という日本サッカー界の大きな星が消えた。

 松田を初めて見たのは、1994年のアジアユース予選のときだった。DFながら守備的ボランチでプレイ。足元の技術が高く、意識も非常に高かった。その頃は”世界”があまりにも遠く、”世界”を意識することなどおこがましい時代だったが、17歳の松田は「世界を目指さず、どこを目指すんすか」と、チームメイトの中田英寿以上に”世界”を意識していた。

 そして、見事に95年のワールドユースに出場。ベスト8入りに貢献し、当時、日本代表で「アジアの壁」と言われた井原正巳とはタイプの異なる次世代のDFとして期待された。

 アトランタ五輪では、「マイアミの奇跡」を演じた。ブラジル戦で見せた粘り強く、最後まで諦めないプレイは、松田の存在を際立たせた。試合後、その勝負に痺(しび)れたのか、「ブラジルに勝って、俺らちょーすげぇよ」と顔をくしゃくしゃにして喜んでいたのが印象的だった。

 松田の世界レベルの守備能力が認められたのは、トルシエ監督時代だった。自らの起用についてトルシエと再三衝突し、シドニー五輪チームの海外遠征では「やってらんねぇ」と無断で帰国したこともあったが、五輪本番ではメンバー入り。ワールドユースに続いて世界8強入りにひと役買った。

 2002年日韓共催W杯の活躍も圧巻だった。フラット3の右ストッパーとして4試合にフル出場し、ベスト16進出の原動力となった。現在、海外でプレイする日本人選手が増えたが、この状況が10年前であれば、松田は間違いなく海を渡った最初のDFとして活躍していたに違いない。それほどスケールが大きな選手だった。

【愛情のある言葉で人に力を与えていた】

 松田が愛されたのは、プレイのみならず、彼のキャラクターによる部分も大きい。

 アトランタ五輪の際、前園真聖ら攻撃陣と川口能活ら守備陣が対立した。松田は、守備側に立ちながらも前園たちの気持ちも理解していた。どちらも勝ちたい気持ちは同じ。前園のそういう真っすぐで強い思いに、どこか自分と同じ匂いを感じていたのかもしれない。

 また、Jリーグの2000年シーズンにはこんなことがあった。まだ横浜F・マリノスの若手だった中村俊輔は、「攻守、すべてを自分がやらないといけない」という思いでプレイしていた。だが、その気持ちが強過ぎるあまり中途半端なプレイとなり、精彩を欠くことが多かった。そんなとき松田は、「後ろは俺らが守るから、おまえは攻撃に専念しろ」と、中村に声をかけた。そのひと言で中村は攻撃に専念。チームはファーストステージ優勝を成し遂げ、中村はその年のJリーグ年間MVPを獲得した。

 さらに2002年日韓W杯でも、松田のひと言が光明をもたらした。初戦のベルギー戦を終えた後、DFラインを統率する宮本恒靖はフラット3をそのまま推し進めるべきかどうか悩んでいた。そのとき「戦術を守っても勝たないと意味がないじゃん」と、松田は宮本を諭すようにそう言った。その言葉に背中を押されるように、宮本はフラット3を改良する決断を下した。結果、日本はロシアを1−0で完封し、W杯で史上初の勝利を上げることができた。

 松田は誰に対してもそうだった。出場機会を失い、自分を見失いそうな選手には「こんなところで終わっていいのか」と叱咤(しった)激励した。手を抜いたプレイをする選手には「ふざけんな」と怒鳴り散らした。自分の経験を軸に相手の事情や状況を理解したうえで、愛情を込めた言葉を投げかけてきた。

 言われた本人たちが気づいていたかどうかはわからないが、松田の言葉には迷っている背中をポンと押してくれたり、勇気づけてくれたり、そういう力があった。そのひと言で、中村や宮本はもちろん、F・マリノスの選手をはじめ、多くの選手が救われた。だからこそ、彼が倒れたとき、多くの選手が数時間もかけて松本の病院に集まってきたのだろう。

【サッカーに対する姿勢はずっと変わらなかった】

 近年は、年齢を重ねると誰もが経験する自分のイメージするプレイと実際のプレイが乖離(かいり)し、その折り合いをつけるためにあえてがむしゃらに、自分のすべてをさらけ出すようにプレイしていた。ミスした自分も若手にぶち抜かれた自分も、すべて受け入れ、熱く、愚直に、相手に向かっていった。時々、その姿が痛々しくもあったが、松田はそういう生き方しかできなかったのだ。

 ゆえに昨年、F・マリノスという自分の大事な居場所を失っても、めげることはなかった。サッカーへの情熱が失われることなく、裸一貫でJFLの松本山雅から再スタートを切った。若い選手とJリ−グ昇格を目指す町で、新たな挑戦に燃え、きっとプロに入った当時のような新鮮な気持ちでプレイしていたに違いない。

 最近は徐々に”松田イズム”が浸透し、自分の経験を若い世代に言い伝えていくことができてきたのか、松本山雅の順位は上昇傾向にあった。J2昇格に向けても、期待がより大きく膨らんできていた。

 松田の悲報は、その矢先の出来事だった。最後に仲間と無言で語らうほんのわずかな時間だけを作り、静かに逝(い)ってしまった。最後にもう一度だけ、みんなの呼ぶ声に応えてほしかったのだが……。

 昨年、F・マリノスを去る際、「サッカーを続けさせてください」と、懇願するように語った姿は、今も目に焼き付いている。本当にサッカーが好きな選手だった。また、時間の経過とともに選手は少しずつ変わっていくが、松田のサッカーに対する真っすぐな姿勢、闘志をむき出しにして戦う姿は、17年前からまったく変わらなかった。

 そんな姿を、クールに格好よく戦うことを好む今の若い選手たちは、どう見ていたのだろう。もし「マツさんのように熱い気持ちでプレイしよう」と思ってくれる選手がひとりでも多く出てきてくれたら……。その魂の継承(けいしょう)こそ、松田が日本サッカー界に残した大きな遺産になるはずだ。

コメント(1)


自分も怒鳴り散らすタイプでした。ドゥンガ並みにでした(笑)
ただ、自分は練習中には怒鳴ってました。
先輩、後輩関係なかったです。
でも試合中は怒らなかったです。
試合中は誰もが必死ですからね。
PK取られても怒らなかったです。
PKなら止めれば良いですから!
※実際止めましたけど

その後、自分は怪我をしてしまい、神奈川リーグをその年、参加しませんでした。
それでも、必死にリハビリをこなし、基本は一日置きにランニングと水泳をしていました。

そのうち、自分が仕事のあと練習してると、自然に皆が集まって練習する事になりました。

その時、自分は思いました。
人を引き付けるのは、怒鳴る事ではなく、自分自身が示さなければならない事を。
そして、怒鳴ってた時も先輩達が大きな心で許してくれていた事を。

自分が松田選手を好きだったのは、どこか自分と似てる部分があったからかもしれません。
そんな松田選手は志半ばで亡くなってしまいましたが、それでも自分は永遠に応援し続けます。
そして、いつの日か松田選手の後を継ぐ若い選手達を見守ろうと思います。

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