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キリスト教と聖書 祖父の考えコミュのキリスト教の本質5 失われつつある本質

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 日本のキリスト教会は、その本質を失いつつあります。
聖書学や神学から考察してみますと、福音伝道も使徒時代の伝統から外れてしまっています。
人の言い伝えによる伝道方法が行われているだけで、聖書学や神学からの基礎知識の適用と言う根本的な研究が欠けているのです。
 聖書は天地創造の御業と福音伝道はヘブル語でパーラーと記しています。人か行う創造の業はアーサーと記しています。
 なぜ、天地創造の御業と、福音伝道はパーラーと記しているのでしょうか。それは神聖な神様と同じ資質を持つ者が、主によって創造された。と言う意味がありました。
 キリスト教の救いを理解してゆくためには、特に、神様が人に魂を創造して与えられたことを知っておく必要があります。
『信仰の結果である魂の救いを得ているからです。』1ペテロ1:9。この聖句は、キリスト教の救いは魂が救われることを意味していることを記していました。
創世記1:26に『我々に似せて人を造ろう。』と仰せになったことは、2:7に『神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた。そこで人は活き者となった。(そこで人は魂をもつ者になった。英語訳。)と記されていました。
 魂と言うヘブル語の意味を、新聖書辞典を参考にして調べてみました。ヘブル語では、神様と同じ神聖な霊と神聖な永遠の命と、神聖な性質と心と良心と肢体を一体として創造されたと、言う意味になっていました。
 活き者となったと言うことは、神様の役に立つことができる者となった。と言う意味でありました。
 ローマ8:29には、御子キリストの姿に似せられて形造られることを記していました。英語では御子の姿に形造られることを、イメージと記されていました。英語ではイメージとは鋳型で同じ形と性質に造られる。という意味がありました。

 アダムは罪を犯したとき、その魂は異常な状態に変化したのです。神聖な霊は汚れたアダムから離れてゆきました。永遠の命は地上で滅びることになりました。神聖な性質と心と良心と肢体は、24時間罪を犯す力を帯びて、罪を犯し続ける罪の奴隷となったのです。そして、良心は邪悪なものに変化したのです。
 
東洋人は良心は一つであると思っています。ヘブル11:22には『邪悪な良心』と記されています。キリスト教国では良心には二つの種類の良心があるというのです。日本人が裁判所で「良心に従って証言します。」と言っても、どちらの良心なのか。と言うのです。

 私たちは、キリストの復活を信じると永遠の命が与えられると思っています。永遠の命は魂と一体になっていますから、神聖な霊と、神聖な性質と心と良心と肢体を与えられていることを確信していなければなりません。それらが宿っている神の子としての信仰告白と信仰生活となって現れるとき、私たちは救われていると認められるのです。
 永遠の命が与えられていると信じているだけでは救われているとは言えないのです。聖書が魂の救いを説いているのですから、魂の救いについて知っている必要があるのです。

 聖書は、魂の救いはキリストの十字架の死を通して与えられることを記しているのです。キリストの十字架はアダムが犯した罪を滅ぼす全能の力として働いたのです。
 アダムの犯した罪は、魂を異常なものに変化さしたのです。異常に変化した魂は滅ぼされ機能停止されたとき、私たちの内に24時間働いていた罪は力を失ってしまいました。
 ローマ6:6に『罪の肢体が滅びて、もはやこれからは罪の奴隷ではなくなることを、私たちは知っています。』と記されている意味は異常な魂が滅ぼされて肢体の機能が停止したことを記していたのです。
 その結果、私たちは罪を犯すことができなくなったのです。罪を犯すことができなくなると、私たちの肢体は罪の奴隷ではなくなり、罪から解放されたのです。
 そして、新しい魂が創造されて与えられることになりました。古い異常な魂がキリストの死によって私たちの内で滅ぼされ、取り換えられることになったのです。
 永遠の命はキリストの十字架の死を通して死んだ後に、主の復活を信じる信仰によって与えられることになっていたのです。
それですから、キリストの十字架の死を正しく理解していなければ、永遠の命を与えられないのです。
 私たちは、人の言い伝えだけを信じているなら信仰をもっているとは言えないのです。自分の信仰について弁明できるように聖霊様に導いていただく必要があるのです。
 
 さて、私たちはキリストと共に十字架につけられました。(そして死んだのですと、ガラテヤ2:20に記るされていました。)
 パウロがキリストと共に死んだと言う記録は記されていません。パウロは救いの約束が法律による契約であることを啓示によって知っていました。
 キリストが死んだなら、パウロも死んだという法律が適用されて、パウロは死んだと神様が評価されているのだ。神様がそのように評価してくださっているなら、私は死んだ者のように振舞うことにしよう。そうすれば神様は私が死んだ者と認めてくださるはずだ。と悟ったのです。
 人は死ぬと才能の力は停止します、そのことをパウロは罪の肢体は滅びてもはや私たちは罪の奴隷ではなくなることを知っています。と説明していたのです。


体験はありません。それなのにパウロはキリストと共に死んだと記していたのです。

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