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片倉小十郎景綱コミュの景綱について。

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景綱について、その生い立ちやらエピソードやらを
ココに少しづつ書き足していきます。
何か訂正や追記がありましたらお気軽に突っ込んでやって下さい。
また、皆様からもどんどん書き込んでもらえたらと思います。



では、まずは簡単な生い立ちから↓


片倉小十郎景綱 弘治三年(1557)〜元和元年(1615)享年59歳

片倉氏は加藤景廉を祖とし、その子孫が信州で片倉氏を称した。
景綱は米沢八幡(現在の米沢市)の神職、片倉藤左衛門と
本沢刑部の娘・直子との間に生まれた。
直子は初め、鬼庭良直に嫁ぎ一女(喜多)をもうけたが、その後は子供に恵まれなかった。
その内に良直の側室に男子(後の鬼庭綱元)が生まれたため鬼庭家から離縁。
その後片倉家に嫁いで生まれたのが景綱だった。

父の景重には先に亡くなった前妻との間に景広という兄が既におり、
この兄が既に片倉家の神職を継いでいた。
次男である景綱は伯父のいる藤田家に番代として引き取られる。

*番台=武家の当主が死去、あるいは隠居等で当主を続ける事が不可能な時に、
跡継ぎの子供がいなかったり幼かったりした場合は他家の男子にその代行をさせていた。

しかし程なくして藤田家に男子が誕生したため景綱は藤田家を放逐され、
行き場がなくなる。
そこを先に伊達家に仕えていた喜多のツテで遠藤基信に引き合わされ
伊達家に仕える事となる。
ここで当時九歳の梵天丸(後の伊達政宗)の傅役として抜擢される。

政宗が家督を継いだ後はその右腕として活躍。
参謀としてのイメージが強いが、人取り橋の合戦や摺上原の合戦で
大きな武功も挙げている。

*景綱が参戦した主な合戦(追記)
天正十三年(1585年) 桧原の戦い、大内定綱討伐、人取り橋の戦い
天正十七年(1589年) 摺上原の戦い
文禄二年(1593年) 秀吉による朝鮮出兵
慶長五年(1600年) 白石城攻め(長男・重綱初陣)


また景綱は先見に明るく、秀吉の北条征伐に従って小田原へ参陣するか否かで
家中がもめる中で

「蝿というものはうるさいものである」

と豊臣の軍勢が一度追い払ってもまたやってくるものである事を蝿のしつこさに例え、
豊臣方につくように政宗を説得。
結果的に伊達家を救った。
景綱が優れた武将であった事は秀吉の耳にも入り、秀吉は景綱を田村五万石を
与える事で引き抜こうとした。
しかし景綱は「伊達家の封をうけてことは足りております」とこれを固辞。
後に家康からも江戸屋敷を与えられるが、一旦これを受けてから

「自分が今あるのは伊達の大殿(政宗の父・輝宗)と我が君(政宗)のおかげ。
その屋敷はそっくり我が君に賜りますように」

と屋敷を家康に返上している。
あくまで政宗への忠誠を貫いた。

慶長七年(1602)刈田郡白石に一万六千石を治め白石城主として来住する。
片倉氏の実収は十万石にもなったともいう。
元和元年(1615)大阪夏の陣が終わった年に病のため五十九歳で死去。
六名の殉死者が出た。法名・傑山常英大禅定門。


・参考文献『伊達政宗と片倉小十郎』
     『白石市史 第四巻 「片倉代々記」』

コメント(11)

>ビール聖人さん
はい、拙いながらも始めました。
このコミュの皆様にとって何かしらの参考になれば良いなー、と思います。

>幼少期はかなり不遇だったんですね。このときの苦労が、苦境の伊達家を救う原動力になったのでしょうか?

私もそう考えています。
番台としての責務を果たそうと景綱は努力したと思われますが、それが自分の意思とは全く関係のないところで報われず、かと言って生まれた家に帰る事も出来なかったという事は、一番脆い時期にいた景綱にとってかなり厳しい出来事であったと思います。
だからこそ初めてできた安定した居場所である伊達家と、自分を必要とする梵天丸に絶対的な忠誠を尽くせたと、私は愚考します。

また景綱の先見の明るさも、多感な時期に人の心の動き良かれ悪しかれ見せ付けられた事に起因しているのではないか、とも思います。
まぁ流石にコレは深読みのしすぎかもしれませんが…。

スミマセン、思わず長々と語ってしまいました(^^;
今後も少しづつ書き足していこうと思っておりますので、またお暇な時にでも覗いてみて下さい。
>ビール聖人さん
いや、ホラ、あの、日記はいわゆる自陣ですから!(笑)
あのノリでこのコミュの管理人やったら大変な事になります;
ココは少しづつ追記していきますので、お楽しみに。
・政宗の右眼について
*ちょっと痛々しいお話なので苦手な方はお気をつけて!



景綱と政宗の信頼の深さを表すエピソードとして、政宗が疱瘡を患った際に飛び出した右眼を景綱が抉り取ったという話があります。
この事は『片倉代々記』にも記載されています。
更に景綱はあまりの痛みに悲鳴を上げた政宗に

「将たるもの、これしきの事で騒ぐな!」

と叱ったそうです。(殿に向かってスゴイ…!)

しかし1974年になって政宗の遺骨の詳細な調査が行われたところ、政宗の右眼の眼窩は正常に発達し、その周りに傷が残っていな事が分かりました。
右眼の眼窩が正常に発達していたという事は、政宗の右眼は抉り出されずに両目とも備わったまま右眼の視力だけが失われ、硝子体が白濁していたという可能性も考えられます。

しかしその場合だと何故政宗の右眼を景綱が取ったとう話が生まれ、正式な記録に残されているのか、という疑問が残ります。
政宗が自分の右眼を酷く厭っていた事を考えれば尚更です。


事の真偽がどうであるかは私には推測も出来ませんが、個人的にはこの話が事実であってほしいと思います。
書いている内に自分の右眼が痛くなってきた気がしました。
景綱による小田原参陣への説得について、もうちょっと詳しく書いてみました。


*小田原参陣の際の景綱による説得について。


秀吉から政宗のもとに小田原への召集がかかった際、伊達家中でも関東に進出し
秀吉と戦うか、秀吉とともに小田原城に篭る北条家を攻めるかで意見が対立しました。
政宗はこの軍議の席で小田原参陣を薦めた景綱を、その夜に訪ねて小田原参陣を薦める理由を問います。
それに対する景綱の答えは以下のようだったと伝えられています。
*注!管理人が『片倉代々記』を読んで「大体こんな意味だろう」と書いたものなので細かいところが違う可能性があります;


「敵の勢力は日に日に増し、今や莫大なものとなっております。
これと戦い防ぎ難いというのは、敵は例えれば夏の蝿のごとく、一度に二、三百打ち潰して、二、三度までこれを防いでもまた敵は数を増やして攻め入り、その時が来なければ尽きる事はないでしょう。
そのような相手に敵対なさろうというのは御運の末か。
老臣達は未だに意見がまとまらずして公(政宗)は伊達の家を失われたとしても、老臣達は幸いにして便宜があれば旗本になる事も出来ましょう。
この危機を察し給わらないのはどうしてでしょうか。」


この説得により政宗は遅ればせながらも小田原参陣を決意し、景綱ら百人ほどを連れて参陣します。
遅参の罰に領地の一部を没収される上に、箱根山中の「底倉」と呼ばれる三方を山に囲まれた場所に立つ屋敷に留めさせられもしましたが、伊達家を守り抜く事は出来ました。
景綱の説得により伊達家は守られたのです。

因みに景綱はこの説得の折り、政宗から刀を授けられたという事です。
(管理人、勉強不足のためこの刀の銘が分かりません…;)

この景綱による小田原参陣への説得は、後に伊達家臣富塚内蔵充に「片倉の三功」の一つとして称えられています。
他トピで「小十郎」の名前についてちょっと話題が出たので
もうちょっと詳しく書いてみました。


・「小十郎」の名について

景綱を初代として片倉家に代々受け継がれてきた「小十郎」の名前。
これは片倉氏の外叔父に飯田小十郎という武功の誉れ高い武将がおり、
この武将の誉れにあやかってつけれられた名である、という事です。

因みに、初代小十郎の景綱は慶長五年(1600年)に白石城攻めを成功させた折りに
政宗から備中の名を賜り、小十郎の名は長男の重綱(後の重長)が継ぎました。
改名がなされたのはその年の7月25日から8月11日の間で、正確な日付は不明。

余談ですが『片倉代々記』を眺めていると「片倉小十郎」を略して 「片小殿」とか
「片小」と書いてあるのがちらほらありまして。
内容は堅っ苦しい業務連絡だったりするんですが ちょっと微笑ましい気分になります。

*最初に上げた内容に誤りがあったので、訂正いたしました。
ちなみに『小十郎』の名は明治時代位まで直系の方が名乗っていたそうですよ!
えーっと、じゃぁ、片倉景綱さん自身と言うより、
片倉家の始祖と、伊達家の始祖の話を…。

伊達家の系譜を遡ると、
藤原不比等になるのはわりと有名な気がするのですが、

片倉家はもともと諏訪の神官の出でして、
諏訪神社若宮には始祖にあたる片倉辺命がお祭りされています。
若宮…って言うのの説明や、自論を述べると、長くなるので省きますが、
片倉辺命は、当初、信州高藤片倉でお祭りされていたお社で、
なんとこの方、健御名方神の孫にあたるお方。
要するに、がっつり古事記の神様まで遡れるお家なんですよね。

片倉宮司さんが「6月28日に諏訪に行く」と仰っていたのは、
たぶん、御頭御社宮司社祭に出られると言う事だと思うのですが、
名前から察するに、
諏訪の神様よりもっと古いミシャクジ様由来のお祭りの気も…。

片倉家は、伊達家もびっくりな古いお家なのでした。

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