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空中溶接コミュのファンタジー  1

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    「ファンタジー」
   
         1

 視界がぼやけるほどの湿度。
生まれて初めて視界と肺に流れ込んでくる、こんなにも大量の血。
赤と匂い。
 「どうやって研いだらこんな形になんだよ・・・」
 俺は手渡されたナイフの、艶消しに鈍く光る刃を眺めていた。
 柄の部分は小振りの包丁くらいだけど、刃の幅が部分的に異常に狭くて、凶悪なくらい反り返ってる。
真新しい軍手の上からさらにコンドームみたいなゴムの手袋。慣れない感触でナイフを握り締めたまま、俺は目の前を流れていく逆さまの豚を、ぼんやりと見上げた。

 「おい、人の話し聞いてっか?」
 
 頭んなか純白だよ。

 目の前になんか言ってる白髪頭でやたら体格のいいおっさんがいる。俺はこのおっさんの名前だって知らねえし、ここに立ってまだ2分だ。
 
見渡すと俺以外の人間は全員、ここでは白いゴム引きのエプロンをしている。みな思い思いに、短く切ったりダラッと掛けたりして、自分の作業に合わせているみたいだ。
 軽く思考停止してたら、おっさんがナイフを持ったまま何か言って肘で小突いたので、俺は反射的に飛び退いた。
 
「アブねえゾらバーカッ!」

 今度は背後から、ステンレスの台に乗って、腹を裂かれた仰向けの豚の内臓に手を突っ込んで掻きまわしてる無精髭が、鬼のような形相で怒鳴りつけてくる。
 咄嗟にナイフを手放してよかった。
俺はテレビでたまに見かける、殴られた女を演じる女優みたいに、顔を下にして横向きに倒れていたからだ。
目の前には、緑色の床を滑る赤やピンクの血液や体液、コーヒーゼリーを崩したみたいな血の塊や、白っぽい脂肪のカケラが、熱湯や水と混ざりながら合流して排水溝へ流れ込んでいるのが見えている。
 
「ナイフ拾ってこっち来い!邪魔んなんだろが!」
 
 白髪頭が呼んでる。目が不思議に優しくて親しげに笑ってる。
 おっさんはそのままこっちへ来て手を掴むと、俺を片手で持ち上げる勢いで起こした。
 立ち上がりはしたけどクタッとしてる俺の背中をバンと叩き、おっさんはガハハと笑った。
 
 「初めて見るか」

 「・・・はぁ」

 頭切り落として腹から内蔵引きずり出して、豚足とって、皮剥いで縦に真っ二つ。
 天井近くの梁に沿って、でかいチェーンでもたもた進むコンベアを、機械油で黒光りした何百もの滑車が、音もなく滑ってくる。
 滑車に掛かった長いS字の鉄棒に下がるのは、アルファベットのAが両足反り返ったような形の「股カギ」。その反り返った先端にアキレス腱を引っ掛けて吊るされた、豚肉のカーテンが次々に巨大な冷蔵室へと吸い込まれていく。

 早足で歩くおっさんの後ろを追いかけながら、1分らいで「と畜解体ライン」ここでは「現場」と呼ばれている場所の説明を受ける。一番むこうで豚の悲鳴が響いているが、そこは「明日でいっか」と言われてホッとした。そしてまた、ラインのほぼ最後尾、懸肉室のすぐ手前に戻ってきた。

 「いいかオイ、このナイフはな、そこらのぐうたら奥様が使ってる包丁の十倍は切れっかんな」

 目の前を人が歩くようなスピードで、限りなく「枝肉」と呼ばれるものに近づきつつある豚が流れていく。
 皮を剥がれてぬらぬらと脂が光ってるけど、縦半分になっちまえばもう「豚肉」。
食い物に見えてくるから不思議だ。

 「よおウイチャイおめえチット代われ。チェンジだチェンジ!」
 
 声をかけられたタイ人らしき童顔の美少年は、人懐こそうな笑顔を俺に向けると、きれいなお辞儀をして何も言わず別の作業へ移動した。
 「おう」とおっさんは俺を、ステンレスで出来た高さ二十センチ、縦八十センチ横百二十センチくらいの作業台に立たせ、自分も窮屈そうに隣に並んだ。
 顔を上げるともう目の前に、二つに割れた豚がきている。
 おっさんの左手は迷うことなく、豚の腹に伸びた。そして、皮を剥がれてもなおはっきりと形がわかる乳首の並んだ、頼りなく薄い肉を掴むとぶん投げるように俺のほうへ流す。
 豚を吊るした滑車はシャーと二メートルくらい走り、隣のステージでまたタイ人がそれを停める。そこでは空っぽになった腹の中に、ピストル型のウォータージェットをブッ放してる。どうも洗ってるみたいだ。

 「今のはメス」
 おっさんは次の豚の腹を掴むと、俺の顔を見てにやりと笑った。
 「これがオス」
 
 「あ、出べそ」
 馬鹿ッぽい。恥ずかしい。
 
 「知らねえのか、豚のチンポは腹の真ん中にあんだよ」
 おっさんがそう言って出べそを摘むと、ずるっと細く白いものが出てきた。先端のねじれたそれが、どうやら豚の亀頭らしい。
 おっさんの左手がそれを上に引っ張り上げるのを追って、ナイフが肛門に向かって走っていく。鉛筆で線を引くような切れ味だ。音もなく切り取られた豚のペニスは長さだけなら四十センチくらいはある。でも太さは俺の人差し指くらいってトコか。
上がってきたゲップが味しやがる。
 おっさんはそれを、右の足元にあるキャスター付きの青いプラスチックコンテナへ、ポイと投げ入れた。
 
 「あれどうすんスか?」いちおう聞く。
 
 「ごみ」
 
 おっさんは手を休めることなく答えた。もう次の豚に手が掛かっている。
 
 「あそこでいっかい間隔あくから、そしたらお前行くぞ」
  嘘だろ。
 
 「これ使えな」
 おっさんは、ゴム引きエプロンの腰に巻いたベルトに差してある、小さな剣みたいな形の「ヤスリ」と呼ばれるものでシャキ、シャキとナイフに付いた脂を落とし、俺に手渡す。滑らかな手つきが優雅でうかつにも見蕩れた。
 
 「くるぜ・・・」
 
 ぶうんと揺れて目の前に現れた半分の豚に、俺はとにかく手を出した。考えんのはその後なんて考えながら。
 軍手に重ねた二トリル手袋越しにもヌルヌルした手触りがあり、生まれて初めて触る物体は俺に暖かかった。
 だから素手でならたぶん、熱い。
 
「絶対に刃の進むほうに、もうかたっぽの手ぇもってくるなよ」
 
 俺は、高い所に立ったときみたいに腹の下がぞくぞくするのを抑えて、見よう見真似でナイフを走らせた。
 切れる刃物で肉を切る手応えが、快楽の一種だってのはすぐに解かった。
目の前十センチのところでビクンビクン痙攣しまくっている、腿の筋肉を見て一瞬込み上げるものがあったが、夢中になって十頭も切る頃には、ひとつの作業として慣れていく感覚があった。
 
 「飲み込み早ええじゃねえの」
 
 何も言わずじっと見ていたおっさんは嬉しそうに笑うと、俺の取り残した「ごみ」や、ビラビラとぶら下がる腹の脂肪をちゃっちゃか切り取り始め、黙々と作業に復帰した。
 
 「あのー・・・」
 
 「あー?」
 
 俺は作業のスピードがとにかく落ちないように集中しながらも、たぶんこのおっさんが、自分の教育係みたいになるんだろうと思った。
 「お名前、なんていうんですか?」
 
 「田原」
 
 「田原さん、俺今日からしばらくこれやるんスか?」
 
 「ははは知らねえよ、若社長が若えのくっから教えてくれっていうからよ、取りあえず現場始まっちゃったら俺につけるしかねえだろが。ここにゃ仕事なんかいっくらでもあっから、人手のねえとこに回されるんじゃねえの?」
 
 「あの、でも俺、機械屋なんスよ・・・」


         2

 一年半前、俺の親父がやってた小さな町工場が倒産した。といっても実際は法的な対応なんか一切無かったので、吹っ飛んだと言った方が正しい。
 いちおう二代目を継ぐつもりだった俺は、毎朝自宅から自転車で五分のところにある工場へ通っていた。
 あの日が訪れる直前でも俺は、毎月末いつも繰り返されてきた「ギリギリだけど乗り切れるさ」という親父の言葉を、信じ切っていた。
 だから、その頃頻繁に深刻な顔を突き合わせていた両親の姿も、漠然と受け止めていた。
 
 親父は、弱音を吐いたことが一度もなかったし、お袋だって俺に何かを覚らせるような素振りはなかった。
 俺だけが、何も知らなくて、弟のテツオのほうがよっぽど危機感を強くしていた。しかもそんなこと後から言われたって、逆切れしてテツオを殴ることくらいしか出来ないバカが俺だ。
 なにができた?
 俺は、親父とお袋の為に出来たことがひとつもない。

 自動車メーカーで埼玉県S山といえばそれと知れる、クソ企業の孫請けのその下あたりで、細々と二十五年やってきた。それがうちの工場。
 社員は五人。年寄りばっかし。
 でも五十坪にも満たない工場はいつも、機械油の匂いも芳しく、しっとりと綺麗に片付いていた。
 どこに何があるか、自分らに何が出来るのか、まだまだ修行中だった俺以外の人間は全員がわかってる。
 
 そこにある日突然、最新型のNC工作機械がやってきた。
 アナログという言葉を知ってるかさえ怪しいベテラン職人たちは、いつも怒鳴りつけられる側の俺が、分厚いマニュアルを抱え汗だくになってオペレーションを覚えるのを、一歩離れて見守っていた。
 そんな俺を、親父は誇らしそうに見ながら、垣田さん、福地さん、伊野さん、田村じい、矢本ちゃん達と缶コーヒーを啜って笑ってた。
 なんとなく照れ臭いけど、未来を自分の腕力で切り開いていけるような、充実したいい時間だった。
 
 本当に知らなかった。
 その頃お袋が毎晩夜中に家を抜け出し、結婚して二年のテツオを呼び出していたことなんか。
 工場の経営がとっくに破綻していることを隠して、仕事に打ち込んでる俺のことを浮ついた声で語り、表情のない顔をして声だけで笑っていたことを。
そんなお袋のことを、俺や親父に相談できずに、テツオが車で市内をただ走り回り、黙って話を聞いていたことを。

「つまんないんだ、なんかね、すごくつまんないの。母さん。お前たちが小さかった時みたいに、ただ夢中になって毎日を必死になって、すごく忙しかったけど楽しくて…。でもいまは本当につまんない。なんでだろう、どうしてこんな風に、なっちゃったんだろう」
 
 話しが尽きると、テツオの出勤時間を気にするふうに、車のデジタル時計をちらちら見ては、お袋はとても悲しそうな顔をしたという。
甘えるように、すがるように、惨めな女のように、両手で顔を覆って泣いたという。
 

 二千万を超える高価な工作機械がなぜ、この小さな工場に突然現れたのか、その時は誰も詳しいことは「社長」から聞かされていなかった。
 ただ、その機械で加工すれば、うちらにまとまった量の仕事が年間を通じて約束されるとだけ聞かされていた。
 
「それ以外にも取引先が増えるからな、だから銀行が金貸してくれるようになったんだ」

 親父はまだ少し不安を隠せない様子で、二日くらいしてから皆の前で言った。
 おっさん達も、俺も、その言葉を全く信じた。
少し寂しそうだったけど、急に世界が新しくなっちゃったみたいだけど、親父と、二代目としてはまだまだ頼りない俺と一緒に戦っていけることを喜んだ。
いくら全自動の機械で加工したって職人の手でしか触れないとこなんていくらでもある。まだまだ自分らの底力を見せ付けてやれる相手がいると、興奮した。


親父とお袋が心中したのは、その二ヵ月後だった。

 
 土曜日だったから、仕事が終わるといつものように、俺は常磐線柏駅の空中歩道へ「音出し」に行っていた。
 ストリートライブといえばカッコいいけど、ギターが弾けるわけじゃない。三十年も前に作られた、鍵盤の付いていないアナログシンセサイザーで、変な音出して悦に入ってただけだ。
地元でやんのはハズカシいんで、わざわざ遠くまで電車に乗って。
 とにかく凄い音がするそのシンセは、黒いアタッシュケースの形をしていて、電源さえあればどこでも音が出せた。
スプリングリバーブ機構になってるから、引っ叩けば中でバネがグワアァァンと吼える。人間の可聴範囲を全く無視した低音で、犬を殺せるという噂が、そいつをローン組んでまで買った理由だ。
知ってるやつは「モンスター」と呼ぶ、電子音発生器。
 
 家族の誰にも話したことはないし、友達とバンド組む気もなかった。
ただなんか、自分の中の情けない部分や、鬱屈したものを爆発させたくて、でも歌うたったりすんのはとてもじゃないが恥ずかしい。
 田舎のガキが族やって単車で走りまわってんのとそんなに変わんなかったと思う。
 かといって音を出したところで何がしたいんだか自分でもわからない。でも初めて人前で、あぐらをかいて音を出したときの快感が病みつきになったんだ。
 だから、その頃は自分で何がしたいんだかわかるまで、しばらく続けようなんて、のん気に思っていた。

 深夜になって家に帰り、俺は途中コンビニで買ったビールを飲みながらベッドで漫画を読んでいた。
とろとろと瞼が落ちかけた頃、不意にケータイじゃないほうの電話が鳴った。
 二回目の呼び出し音で、枕元にある子機のランプが派手に光ったが、間違い電話か、どうせお袋が出るだろうとシカトした。
 ベッドの脇に転がっている目覚ましは、午前三時を指していた。
 十回近く呼び出し音は鳴り、一度切れたが、すぐまた掛かってきた。
 どうもイヤな感じがするから受話器を取ると、名前を聞かなくても分かる、工場の矢本さんが何か喚いてる。
 
 「もしもーし」
 
 「あっ、コウタかっ!大変だよウチの工場っ! ヘンな奴らが何人も乗り込んできて・・・。いったいどうなってんだよああっ、テメエ何しやがんだ、やめろコラッ!泥棒だこいつらあぁぁっ!」

  俺は飛び起きて、玄関にあった金属バットを手にとってこれ以上漕げない勢いで自転車を飛ばし、工場へ駆けつけた。
 
シャッターが開いて、煌々と明かりが点いてる。
 周りに野次馬たちが群がっていて、その向こうから矢本さんの怒鳴り声が響いてくる。
 
 「矢本さーん!」
 
 俺が叫びながら近づいていくと、ほとんど顔見知りの野次馬たちが皆、引きつった表情で一斉に道を開けた。
 俺に気づいた矢本さんはすぐにこっちに駆け寄ってきたが、もう口をぱくぱくとするだけで、話にならない。
 開いたシャッターの工場に、トラックがケツから突っ込んでいるのが見える。
 
 「・・・なんだよあれ」
 
 ユニックつきのトラックが、クレーンで吊り上げてるのは、来てまだ三ヶ月も経たない、あの工作機械だった。


  
 
         3

 十時を過ぎた頃、一度休憩になった。
 といっても、どうやら実際に休憩できるのは数少ない日本人だけみたいだ。
 中国人と、タイ人らしいのはなんとなく判別できるけど、それ以外は何カ国の人間がいるか分からない。
 彼らは休憩後に備えて滑車を前に送り出し、そこにぶら下がっている鉄棒に数字付の荷札を括り付けていたり、床に散らばった内臓や肉片、血液などをホースの水で流したりと、なかなか忙しそうだ。
 
外人を怒鳴りつけて指示していた田原さんと目が合うと、ニヤッとしながら煙草を吸う仕草で顎をクイと出口の方にやったので、頷いて俺も外に出た。
 秋晴れの青空に流れる雲が、全身汗だくになった俺の目にただ、映る。
 
 豚の係留所の裏手には、三十坪ほどのコンクリートで舗装されたスペースがあった。
 そこに四トン車二台とフォークリフト一台、豚が二頭入りそうなステンレスのバスケットが整然と並んでいる。
 その隙間を縫ってタイ人の作業者がわき目もふらず、豚の内臓や尻尾の入ったプラスチックコンテナを手で押して走る。
 
 舗装が切れた向こう側は大きく落ち込んでいて、覗き込むと小さな川が流れていた。土手ともいえない、雑草や枯れた木が雑に生い茂った斜面の途中に、単管パイプで組み上げただけの細い橋がある。
 その向こうに見える広大な施設は、たぶん浄水施設なんだろうと思う。 
 上から見下ろす感じだから、全体が良く見える。馬鹿でかいプールみたいな槽がコンクリートの壁で碁盤に仕切られていて、そのいくつかの中では滝壷のように豚の血液が渦巻いていた。
 俺は煙草に火を点け、ぼんやりとそれを眺めた。
 きっとというか間違いなく、最終的には川に戻されていくということが全く現実味を持たない眺めは、大量の哺乳類をそこで殺しているという妙な説得力を持っていた。

 俺のすぐ近くを、中国人が運転するフォークリフトが砂利とコンクリートの段差に、タイヤの半分をかけながら器用に走り回っている。
フォークが運ぶプラスチックのバスケットには、山のように詰め込まれた豚の生首がたぷたぷと揺れていた。
眼を閉じたものもあれば、口が半開きで、まるで笑っているみたいな顔したやつもいる。
俺は思わず顔を背け、煙草を吸おうとしたところでやっと、自分の手が震えていることに気づいた。
 
「おーい!」
 
さっき、俺を怒鳴り散らした鬼ヅラの無精髭が近づいてくる。俺は緊張して角張った動きで煙草を持ち替え、ぺこりと頭を下げた。
 
 「さっきはよう、悪かったな。初めてだって?」
 
 「ええ、はい」
 
 「とんでもねえとこ来ちゃったなあ、おい」
 
 「は、いえ、なんつうかあの、ビビりました」
 
 「へッ、当たり前だよ。いきなりゴミ取りなんてなあ。あんなの外人にやらしときゃあいいんだよ。安斉くんっていうんだって?俺ミツオ。みんなそう呼んでっからさ、んじゃよろしく」
 
 見た感じ五十五、六歳くらいか。ミツオは振り返ると片手を上げて、不自由そうな左足を引きずりながらちょっと離れたところにある自動販売機へ歩いていった。
 ふと腕時計を見たら、十時を少し過ぎてる。俺は慌てて手袋をはめ直し、足元を流れる色つきの水に煙草を投げ捨てた。
 
 急いで「現場」に戻ると、田原とミツオが缶コーヒーを片手に手招きした。
 「次はなにしましょう?」
 今一番言いたくない言葉だけど、言わなきゃ。
 田原がふざけて、飲みかけの缶を「飲むか?」と俺に寄越そうとしたが、首を横に振った。
 
 「安斉くんよう、悪リィんだけど二回戦からは皮運びやってくんねえかな。なんせ今やってるタイのバカが数間違っちゃってしかたねえんだよ」
 
 申し訳なさそうな顔なのかふざけてんのかわかんねえが、どっちにしても恐えぇ顔だ。どうせ断りようなんかねえんだろ。
 ミツオの方もさっき一瞬見せた親しげな態度は消え、イラついたような顔をしている。
 
 「じゃ、教えっから」
 
 缶コーヒーを啜り、上目遣いに俺を値踏みするような田原の視線を感じつつ、ミツオの後を歩く。
 
「これ、皮剥ぎ機」
 
 巨人が弾くアップライトピアノみたいだ。機械というほどの複雑な機構は見当たらず、調整とタイミング命の「装置」というのが第一印象。
 
「スキンナーだ・・・」
 
何年か前、うちの工場に改造の注文で運び込まれてきた、魚用の皮剥ぎ機のバケモンだこれ。
ドイツ製でメーカーは「マーヤ」。再放送で見た、ミツバチの可愛いアニメと同じ名前だったから良く覚えてる。
 その時の工場の匂いも、順番にバラしてはその精度に驚き興奮した「機械の子供たち」の無邪気な笑い声も、本当に良く覚えてる。
 急に涙が込み上げて、俺は下を向いた。
 
 「だいたいわかった?」
 ミツオは俺にかまわず歩き出すと現場の壁際を進み、一番奥のガタついたアルミの引き戸を開けて外へ出て行った。
 俺が慌てて後を追うと、出てすぐのところでミツオは背中を向けていた。肩越しに覗き込むとステンレスの流し台があり、本来ならまな板を乗せて料理するスペースに、脂と水で波打ったノートが見える。
 ノートを持ったミツオが振り返り、ちびた鉛筆でページを指しながら説明しようとするが、どうも頭が悪くて何を言おうとしているのか解かりづらい。
 「とに、とにかくさ、一回運ぶごとに数を書き込んでいけばいいわっけ。キャスター付のカゴにはだいたい二十くらい、無理して二十七。そんでもってこっちのでかいカゴは百二、三十くらい入るから。あとわかんないことあったら聞いて」

 後で聞いたことだが、午前中、朝一発目の「潰し」を「一回戦」休憩を挟んで「二回戦」。
昼休みをまたいでまだ豚がいるようならラストとここでは呼んでいた。
ラストがあるのは秋口からで、それ以前はほとんど午前中に「潰し」は終わる。
 だけどこの時はまだ、そんなこと俺には関係ないと思い込んでいた。


 二回戦が始まる。
 
耳の後ろからうなじにかけてを冷たい鉄の手で鷲掴みにされる感覚。
豚の断末魔の絶叫が、サイレンみたいに響きわたった。

 この時はまだ豚がどの場所で、第一工程の「コロシ」をされるのか見ていなかった。。
「ウチで作ってんのは、と畜場で使う機械だからいちおう見とく?」と、無人の現場を若社長に案内された時も「そのうち慣れてからな」となぜか避けた場所。怖がると思ったんだろう。
実際はただプラっと現場を歩いただけだし、だいたいどの機械を作ってんのかも教えてくんなかったじゃねえか。
 
それにしてもこの位置、スキンナーの後ろに待機させられちゃ、丸見えだっつうの。振り向きゃド正面です。
 
「電気で殺す」という、若社長の言葉を鵜呑みにしていたから、俺は豚が一切苦しむことなく死ぬというイメージを勝手に作り上げていた。  
だから豚が騒ぐのは驚きや怯えのためだろうとなんとなく思い込んでいた。
 だけど少なくとも今俺に見える範囲内で、次々に流れてくる逆さまの豚は生きてる。
喉元から腹までを切り開けられている豚は、放血ゾーンと呼ばれるヘアピンカーブのようになったレールを進む間じゅう、鎖を掛けられた足以外の体全体で、まるで真下に向かって全力で走っているかのように激しく動いている。
内臓を垂れ下げて、狂ったように暴れてる。
つまり「電殺」というのはあくまでも言葉で、正確には頭に電極を押し付けて一瞬気絶してる間に、生きたまま大動静脈や腹をかっさばいてるってことだ。
魚の活き締めみたいに、まだ心臓や全身の筋肉が動いているのを利用して、体外へ血液を放出させてるんだ。
 
実際のところ豚が苦しんでるのか、俺は今初めてその光景を見た瞬間に、「わかんない」という答えを出した。

コロシのステージからスキンナーのところに豚が流れてくるまでに、ゆうに五分はかかりそうだ。
その間に俺は好奇心から、他のポジションを近くで見てみたいという衝動に駆られた。少し興奮してんだろう。
結局は、最初の一頭が流れてくるのをぼんやり見てたら、スキンナーの油圧ユニットが「ゴッ、ウウン・・・」と唸りだした。
 


つづく

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