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タイ仏教コミュの第三十一項、苦行を静かに修める

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人の心はすでに煩悩に慣れている。虎が林に慣れ、魚が水に慣れているように。
最後の煩悩は倒れ掛かってきて人の心を焼き払う。
このため人は修行をし、心の中の煩悩をすべて焼き尽くさなくてはならない。
 
なぜ仏法修行をしなければならないか
何十年も人間をしていると、我々は自分の性格の中に不足したところや欠陥に気がつき、また改めなければならないところがまだたくさんあることを知ります。ある悪い習慣、例えば、怒りやすい、わがまま、嫉妬深さ、傲慢などは長年の努力でこれを少しずつ改められます。しかし、多くのことが改めようとしても効果がないこともあります。

それは怠け者、美しいことを好む、極端なきれい好き、居眠り好き、意気消沈、いつもめげている、心がいつも悩んでいるなど。このため我々は更に有効な方法で悪い習慣を取り除かなければなりません。

まず我々が銘記しておかねばならないことは
(1) すべての悪い習慣の原因は、みな、我々の心の中の煩悩からやって来る。
(2) 煩悩を取り除くことの難しさは

― 我々は通常その煩悩のあるところが見えません。我々はどんなに多くとも煩悩の症状しか見えません。我々は煩悩を本当に理解することはできません。時には煩悩の炎がわが身を焼き尽くすことさえ知りません。

―我々は煩悩に慣れています。それは虎が林に、魚が水に慣れているのと同じです。水を離れた魚はまた水に戻る機会を得ようと、瀕死のあがきをします。多くの人間も一緒です。煩悩があるのに気づいても正常で仕方がない普通のことだと思います。それにその煩悩を愛します。酔っ払いの手から我々はその酒びんを取り上げることはできません。そうすれば必ず大ごとになります。ある人は何事も怒るのが好きです。乱暴な言葉を口にした後、傲慢だと感じます。しかし、本当は自分の煩悩のために傲慢になるのです。

―我々は煩悩を取り去ることができる方法に欠けています。もし仏陀がこの世に降りて来なければ、我々はたとえ苦脳の存在を知っていても、いかに取り除くかが分かりません我々は苦を無くす別の方法、例えば祭火、神に参拝するなどの外道を探すかもしれません。

この吉祥の法則では、仏陀がいかに有効かつ適切に苦脳をなくすかの方法を教えています。それは「眼には眼」をということです。たとえ煩悩の炎が我々の心を焼き尽くしても、我々は別の炎で煩悩を焼き尽くすべきです。しかしこの炎は内在する炎です。そしてこの内在する火で煩悩を焼きつくす方式、これを苦行を修めると言います

苦行を修めることは、熱くすることです。修行によって苦脳、煩悩を焼きます。いろいろな煩悩欲望は熱くて我慢できなくなり、我々の心の中にとどまっていられなくなります。逃げざるを得なくなります。しかし、我々の心は静かで、煩悩のかけらもありません。

もし我々が何かを追い払おうとしたら、この人、この物、すべての要求を拒絶しなけれなりません。それは人を家から追い出そうとするのと同じです。その人がお金が欲しいと言ったらあげません。何か食べたいと言ってもあげません。寝たいと言っても眠らせません。煩悩を自分の心から追い出そうとするのも一緒です。すなわち煩悩のすべての要求を拒絶するのです。

十三頭陀法

仏教では、心の中の煩悩、欲望を取り去る時、僧侶はいつも頭陀十三法を使います。
頭陀十三法の修行をする僧侶を頭陀僧と言います。しかし、十三頭陀法は僧侶だけに適した修行ではありません。在家者も同様にその中に自分の条件に適したものを選び修行することができます。

十三頭陀法は四種類に大別することができます。心の中の敬虔度に応じて、修行をします。
第一類:着るものに関すること。

1.糞掃衣:廃棄された布で作られたぼろぼろの衣。その他の衣はたとえ特別なある人が供養したものでも受け取りません。
2.三衣:僧伽梨(大位)、鬱多羅僧(上衣)、安陀会(下衣)、この他の衣を身にまとってはいけません。

お化粧が好き、きれいな服を着るのが好き、数点の衣服では満足しない人は、煩悩がとても入り乱れています。もし、上記の2つの条件がクリアできたら、着ることに関する煩悩は今後心の中に住み続けることはないでしょう。

第二類:飲食に関すること

1.常乞食:托鉢で得た食べ物だけを食べます。誰かがお寺に供養のものを改めて持って来ても受け取りません。
2.次第乞食:貧富尊卑を選ばず順序どおり、門口に沿って托鉢をします。
どこそこの家の供養が多いからと言ってわざわざその家に行きません。
3.一座一食:食事が終わり、その座を離れた後、再び食事をしません。一日一食だけです。
4.一鉢食:すべての食物は鉢の中に入れて食べる。その他の器やお皿を使いません。適量のご飯やおかずを食べます。
5.時後不食:食事を食べた後、更に供養があっても受け取りません。

この5条は飲食方面の修行法です。ですから食べることが好き、不当な方法で得た物、好き勝手に食べる、食べることの煩悩がとても旺盛な人はこの5条にバッティングし、法力を発揮することができません。

第三類:住むところに関すること

1.阿蘭若住:世俗の居住環境から遠く離れ静かなところに住みます。
2.樹下住:家や僧房に住まない。野原の木の下に住みます。
3.露地住:僧房や木の下で眠らないで、屋外の広々とした所で眠ります。
4.塚間住:墓地に住みます。棺桶の上や棺桶の傍らで座ったまま寝ます。
墓地の木の下で座って寝てもかまいません
5.隋所住:住む所を選びません。他人が自分のために段取りしてくれた所に
住みます。
 
考えてみてください。他人の土地や不動産を騙し取った人、少しは豪華な家に住んでいながら満足できない人、土地不動産のことで裁判所に控訴している人、家や住むところの煩悩に耐え心を焦がす人は上記の5条に出会っても、心の中の煩悩はまだ住み続けることができますか。

第四類:惰性を取り去る
1.常座不臥:いつも立っている、何かをしている、座っているかして横になりません。
眠くなったら起き上がって歩きます。耐えられないときは、座って寝ます。あるいは横にならないで寝ます。背中は床につけません。

第四類はこの1条だけです。朝も寝て、晩も寝て、昼も寝て、夜も寝る人は、この条項の頭陀行を試してみます。この眠りを貪る病は薬では治りません。それらの人は惰性で仕事を遅らせる人です。この修行をしてみましょう。1週間1日、3日あるいは5日でもかまいません。

修行者の心はすでに静にあり、常に常座不臥を修めれば、瞑想も大変進歩します。
瞑想の時も眠くなりません。ある出家者は3カ月、7カ月の修行をしても一生の常座不臥を学びます。マハ・ガサッパ尊者のように、一生立ったまま、何かを行ったまま、座ったままで横になりませんでした。仏陀も彼を賞賛して、頭陀第一となしました。
 
以上13条の頭陀行は、仏教の中では徹底的に心の中の煩悩を取り去ることができる修行の道とみなされています。日常生活の中で、我々もいずれかの1条を励行するべきです。しばらくやってみましょう。心の中の気力と敬虔度によって自分で調整してもかまいません。

日常生活の中の修行
(一) 六根のコントロール:はっきりとした意思により、六根をコントロールします。
人体は六根によって外界と接触しています。それらは
(1) 眼
(2) 耳
(3) 鼻
(4) 舌
(5) 身
(6) 意

これらの六根は人体の六つのドアと窓です。心を清く静かに落ち着かせようと思うなら、この六根をきちんと保護しなければなりません。心を混濁することができるものもみな、この六根から入ります。このためこの六根の純粋・自然をよく認識しなければなりません。

仏陀はこれらの六根について次のように例えています。
(1) 我々の目は蛇のようです:蛇は平坦なところを好みません。隠れたところが好きです。我々の目も変哲のないところを見るのは好きではありません。色がついていたり、模様があったりするところを見るのが好きです。更に隠れたところであればある程、見てみたくなります。もし、隠れたところが無くなれば、見たいと思う煩悩もだんだん無くなっていきます。

(2) 我々の耳はワニのようです:つまりすがすがしいところが好きです。
他人の自分に対する賛辞を聞きたいと思います(耳が気持ちよく、すがすがしい)、耳に甘く快い言葉を聞きたいと思います。

(3) 我々の鼻は鳥のようなものです:鳥はよく飛び、天に舞い上がります。
どこかでよい香りがすると、どこへでも飛んでいきます。

(4) 我々の舌は犬のようです:犬は食べることが好きです。一日中食べ物を探します。食べ始めたら止まりません。

(5)我々の体は狐のようです:暖かく、柔らかいところが好きです。
しばらくこの人の懐の中にいたかと思うと、また別の人のところにいます。

(6)我々の心は猿のようです:心は大変いたずら好きで、よく動きます。
しばらくここにいたいと思うと、すぐにそこにいたいと思います。しばらく出かけたいと思うと、しばらく空中で幻想未来の蜃気楼にいます。心は止まらず、気持ちも静かになりません。

六根のコントロールはこの6つの出入り口に留意することです。それらの自然を認識した後、はっきりとした意思でそれらをコントロールすることを理解することです。見てはなりません。聞いてはなりません。嗅いではなりません。味見してはなりません。触ってはなりません。考えてはなりません。してはなりません。避けることができなければ、見るべきでないものを見たら、すぐにそこでやめ、それ以上は考えないことです。他に物事が起こらないようにすることです。
         
六根のコントロールは大変重要です。煩悩と大戦争をし、勝つも負けるもみな、ここにかかっているのです。六根をコントロールすれば、煩悩が侵入してくることは大変難しくなります。それは我々の家のすべてのドアや窓にしっかりと鍵をかけているようなものです。たとえ、家の中にある箪笥や引き出しに鍵がかかっていなくても安全です。さもなければ、六根がするべきでないことをしたら、たとえ我々が持戒しその戒あるいはその他の美徳を修めても、煩悩の手に落ちてしまします。それは箪笥や引き出引き出しにだけ鍵をかけ、ドアや窓に鍵をかけていないようなものです。必ず泥棒を引き入れてしまいます。

六根をコントロールをするなら、我々はまず恥を知る心、悪いことを恐れる心を学ばなければなりません。吉祥の法則第19章に細かく次のことが取り上げられています。


恥を知る           

恥を知る心、悪いことを恐れる心は六根をコントロールできます。
六根をコントロールした後、戒を生むことができます。
戒は禅定を生むことができます。
禅定は智慧を生むことができます。

六根をコントロールできる人は、戒は静かです。静かな戒は禅定の心を生みやすく、心も静止できます。その後必ず智慧に至ります。智慧の光は心の中の混濁や迷蒙と心の中の隅に隠れているいろいろな煩悩を照らし出します。その後で徹底的に煩悩を捨て去ることができます。

修行に勤しむ

ある時、我々はあることが良いことだと知り、こうした良いことが自分の身にも起こってほしいと思います。それでも、頑張って最後まで行うことができません。それは勤勉な心が足りないからです。ひとたび勤勉な心が無くなると、もろもろの美徳が心の中で咲き誇ることはできなくなります。

苦海を脱したい人は修行に勤しむべし

どんな原因で出家者が修行をさぼるのでしょうか。またどんな原因で出家者が修行に励むのでしょうか。仏陀のこの教えを深く考え、生活の中に活かしましょう。


出家者が修行をさぼる原因
(1)仕事がまだ終わっていないのは分かっています。しかし疲れるのが気になり、
先に寝ます。寝た後十分な力が出て仕事ができると思います。自分がまだ悟らない法を修行することに勤勉ではありません。
(2)仕事はすでに終わり、すでに完成したと思います。疲労が激しく。よく寝たい
と思います。そして、修行をさぼりました。
(3)遠くに行くことを知っています。歩こうとすれば力もいるし、疲れます。
ですから先に寝ます、そして修行をさぼりました。
(4) 遠くから帰ってきました。とても疲れました。だから寝ます。そして修行をさぼりました。

(5)托鉢でもらった食物は多くありませんでした。これしか食べないのなら、力が出ません。もし修行が何の効果が出ないのが確実なら、寝たほうがましです。そして修行をさぼりました。
(6)托鉢でもらった食物が大変多く、おなかいっぱいになりました。体が重くて
仕事になりません。寝たほうがましです。そして修行をさぼりました。
(7)少し病気です。まさによい口実です。仕事や修行で病気がもっと重くなるのが
心配で寝ました。そして修行をさぼりました。
(8)病気がよくなりました。でも体は回復の途中です。あまり力がありません。休んでもっと休息するに越したことはありません。さもなければ病気がまたぶり返します。そして修行をさぼりました。

出家者が修行に勤しむ原因
(1)仕事がまだ完成していないのは分かっています。でももう一度考えました。仕事の時に瞑想や修行をするのは大変不便です。今はまだ少し時間があります。先に修行するほうがましです。あるまだ獲得していない美徳や仏法を悟るかもしれない。
(2)仕事はもう終わりました。これはちょうどいいです。仕事の時は瞑想修行ができません。今仕事が終わったので、ちゃんと瞑想するにはちょうどいいです。
(3)遠い所に行くのを知っています。行く途中で瞑想修行するのは大変便利ではありません。それならまだ出かけていない今、先に少し瞑想します。
(4)遠くから帰ってきました。これはちょうどいいです。外出時は修行は不便です。今帰ってきました。ちゃんと修行するにはちょうどいいです。

(5)托鉢でもらった食物は多くないです。これはちょうどいいです。少ししか食べないので、体も軽いです。たくさん瞑想ができます。
(6)托鉢でもらった食物が大変たくさんあります。これはちょうどいいです。食べておなかがいっぱいで力もあります。もっと仕事もできますし、もっとよく修行もできます
(7)少し病気です。でももう一度考えました。病気がもっと重くなるかもしれません。
その時は修行をするのが不便かもしれません。それでは今より多く瞑想するほうがましです。
(8)病気がよくなりました、でもまた病気がぶり返すかもしれません。今修行に励む方がましです。  
我々は以上の8種類の考え方とやり方で繰り返し思案します。自分はどの種類の人かと。これからどのようにすべきかそれでかまいません。
  
我はもし生死から脱すること、正覚涅槃に至ることができないなら。決してこの座を離れない
(仏陀が菩提樹の下、金剛座での誓いの言葉)

修行を積むことの利益
(1)永久に怠惰な心を根絶する。
(2)すべての美徳が心に芽生える。
(3)吉祥経の中の法則がみな、自分自身の上に実現する。
(4)容易に涅槃を悟る。
(5)などなど

忍耐が不撓不屈の気力をひねり出す、これこそが至高の美徳修行である。

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