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タイ仏教コミュの第三十項、適当な時に仏法について議論する

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慈悲の心で、考えを交換し、世間の知識の進歩を促進する。
尊敬心で適当な時に仏法について議論する。
必ず智慧を導くことができ、苦海の道から人を引き出します。

適当な時に仏法について話し合う必要性
智慧は人間の宝です。この一言は智慧の重要性を表しています。人の一生は問題に満ちあふれています。こうした問題はみな智慧により解決します。智慧のある人は万能の宝の玉です。容易に人生の旅路の各種の問題を乗り越えることができます。
 
智慧の出場所
(1) 本当に智慧のあるよい知識の仏法の説法
(2) 繰り返してきめ細かく斟酌した思考

智慧を獲得できる近道は、適当な時に仏法について議論することです。そうした時に自分も他人の仏法についての見解を拝聴することができます。よい聴衆になり、真面目に耳を傾け、聞きながら心細やかに思考を続けます。どんな疑問でも適時に提出します。この他、自分も仏教方面の知識を持たなければなりません。他人とそれを分かち合い、交流します。
仏法の議論は注意を払って進めます。さもないと生まれ出る弊害は、よいところより多くなります。

適当な時に仏法の議論をするとは何か
二人以上で互いに時間を選び適当な時に仏法の議論と交流を行います。目的は智慧を啓発するためです。もし順調に進められれば、その中から楽しみや智慧を得ることができ、進歩的な人生へと導き、同時に一種の善行と功徳となります。

仏教において仏法とは二つの意味があります。
(1) 自然的真相:例えば、人の生、老、病、死、すなわち逃げることのできない自然の真相。
(2) 正しい、正確なよいこと:例えば、布施は力を入れて行う、善いことです。
持戒、慈悲心を持つことは正しいです。父母に対し孝行を尽くすことは当然のことです。このような良いことを行うことは同時にまさに仏法の修行なのです。

仏法を議論することの意味は、交流の中から知り得た様々な悪い考えをこれから徹底的にやめることです。交流の中から知り得た様々の良いことや正しいことをこれから力を入れて行います。自然の真相を認識した後、よりよく受け入れられます。このために苦痛になりません。

仏法を議論することの難しいところ
聞いている限り、仏法を議論することは何も難しいところはありません、普通の話し合いと違い、仏法に関することだけです。事実、仏法の議論を軽視する人が集まると、議論が始まってしばらくしてばらばらになります。このような例があります。

父子はお酒を飲みながら仏法を議論します。父親は腸に寄生する寄生虫を除去する薬を飲むことは悪業ではないと言います。なぜなら殺したいと思うのではないからです。子供はこれに答えます。悪業だと。なぜなら薬を飲んだ後、これらの虫が死ぬことを知っているのは故意に飲んでいるからです。意見は食い違いのまま終わりました。父は銃を持ってきました。そしてまさに逃げ出そうとしている息子に照準を定め発砲しました。このようなことが起きるのは、仏法を軽視した議論だからです。

仏法を議論することの難しいところ―2
(1) 議論をする人は議論とは何かを知らなければなりません。つまり、言葉を使ってその場にいる議論の相手にはっきりと自分の考え方を理解させなければなりません。このため第10章の法則の中で取り上げた方法に照らして進めましょう。そうすれば、互いの誤解や不和を引き起こすことはありません。

―議論の事実が真実かどうか
―善言、善語で話すこと
―議論の話題は有益であること
―慈悲心を持って議論すること
―時宜に合っているかに注意すること

仏法の議論は、内容が心の欲するままのものではなりません。世間の人はほめ言葉を聞くのが好きです。しかし仏法を議論する時、あなたは私を賞賛します。私もあなたを賞賛します。これでは何の意味があるでしょうか。しかし、あなたは私を批評します。私もあなたを批評します。これでもいけません。または傲慢な態度で相手を蔑視してもいけません。最後は双方とも怒りだし。罵り合いが始まるのは避けられず、仏法の議論は話がつきません。反対に両者の間に遺恨を引き起こします。

(2) 議論する人は、どのように仏法を聞けばいいかを理解していなければなりません:つまり、聞きながら思考し心と思考回路に少しずつ深く浸透させなくてはなりません。仏法を拝聴することは、仏法を人に対して聴かせるより何倍も難しいことです。このため

―心に仏法を聞きたいと思わせるのは大変難しいです。なぜなら仏法を聞くことは歌や音楽を聴くことのようではありません。コントロールできなければ、聞いても「心ここにあらず」ということになります。または居眠りが始まります。ある人はこうした比喩を作りました。「心に仏法の説法を聞きたいと思わせるのは、猿を静かに座らせるよりまだ難しい」と。

―聞いた仏法を心の中にしみ込ませるのは大変難しいことです。なぜなら、人の心は煩悩が尽きません。頑固さ、傲慢さ、誤って知り間違ってみることに満ちあふれています。これらの煩悩は仏法が心の中に入っていくことを妨げます。自分が日常することに反対することを聞くとすぐにそれを排斥しようとします。仏法の説法を聞くことができる人はいつも仏法を聞く習慣が必要です。さらに他人を尊敬することを理解しなければなりません。人間をたくさんの角度から見ると、謙虚な心、足るを知る心、恩を感じる心があります。このような人材が正しく仏法の説法を受け入れることができます。

(3) 我々の議論の相手も仏法の議論を理解していなければなりません。つまり、聞くことを理解すると同時に議論を理解していなければなりません。我々が話す時、相手も気持ちを集中して拝聴します。相手が話す時、我々も気持ちを集中して聞きます。時にはあまり聞きたくはないと思っても、聞かなければなりません。我々が話したくても機会が来なければまずは待たなければなりません。

我々が話してよい時は、相手も同意します。しかし間違った時は相手も反駁するでしょう。このような時、相手に非難され、叱責され、抗議されるかもしれません。このような時は大変危険です。心を良くコントロールできないと、煩悩はいつでもやってきます。
仏法の議論を理解している人は、忍耐を学ばなければなりません。泰然と他人の批評を受け入れます。それが先輩でも後輩でも同じです。他人の言うことを聞く人になるには議論の相手を選ぶことを理解しなければなりません。つまり自分と同じような心が休まる、平和的な人を探すのです。

ある人はこのような比喩をします。仏法を他人に話して聞かせることは、「ボクシングでシャドーボクシングをするようなもの」です。どんなに叩いても痛くありません。他人が仏法を話すのを聞くのは、ボクシングでサンドバッグを叩くようなものです。少し痛みを感じます。なぜなら他人の話は我々を打ちのめすことがあります。しかし仏法の議論をすることは、本当にリングに登ってボクシングをするようなものです。あなたが一発くれれば、私も一発撃ち返す。もし注意しないと、双方は殴り合いになるようなもので激怒します。仏法を議論する良い人がすぐに悪い人に変わります。

仏法を議論する時の注意事項

(1) 必ず先に持戒をする:もし在家者だったら、少なくとも五戒を守りましょう。
もしできるなら仏法を議論する7日前、連続して八戒を守ればもっとよいです。
お酒から覚めたばかりのときに仏法を議論しないでください。あるいは仏法を議論しながら、お酒を飲まないでください。
(2) 常に瞑想をする:特に仏法を議論する前は、もしできるならその前に瞑想をしましょう。心が純粋になり静かになります。体と心が内在する仏法と融和一体してから議論をします。更に良い結果を収めることができます。
(3) きちんとした身なり:着るものは清潔で、きちんと、質素なものを着ます。
もし白い服ならもっといいです。派手な色の服は着てはなりません。
(4) 振る舞いは礼儀正しく:歩く、座る、立つ姿勢は上品に、人が見た後、不満や咎める気持ちが起こらないようにします。例えば、道を歩きながら大声を出すことはやめましょう。
(5) 言葉は礼儀正しく:大きな声を出さない。傲慢な言葉を吐かない。知らない時は知らないことを認めましょう。賞賛しなければならないときは賞賛し、批評しなければならないときは批評します。

(6) 仏言や仏語には反駁しない:なぜなら、仏陀の言葉は100%正確です。
仏教の経典の解釈や注釈も誤りはありません。問題は我々の智慧が十分に追いつく程度かどうかです。もし我々が仏陀の言葉を否定すれば、まず、何をして自分の考えの正確さを判断するかが分かりません。次に相手が道理のある説明をした後、たとえ我々は理解しても、メンツの問題や自尊心の問題から、我々はそれを否定するかもしれません。
このようなら必ず双方の不和がみられます。ですから、もし今日の経典の解釈や注釈に異議があったら、疑問があり分からないところを明らかにするべきです。それとも自分の考えを説明すると同時に相手の意見を喜んで受け入れます。

(7) 動揺させる言葉は使わない:話す話は相手の面子、建設心や心の橋梁を保つため、他人にとって耐え難かったり、激怒させる話をしません。
(8) 相手が反駁した時、怒った不満な様子を表さない;我々の話に相手が反駁した時も、まず怒らず繰り返し細かく思考します。なぜなら、時には我々の考え方も大事な点を見落としていることもあります。同じように、ひとつのことでも同じでない時間と場所では、合っているか間違っているかについて絶対ということはありません。もしすぐに怒ったら、その怒りが我々の思考のロジックをねじ曲げてしまいます。我々の智慧も覆い隠されてしまいます。

(9) その場を利用しない:自分の名をあげたいと思う、他人を困らせる、相手を恥ずかしめ換わって名声を得て、仏法を議論します。これなら家にいたほうがましです。この誤った心は、すでに今回の議論の意義と公平心を失わせます。相手に悪いことをしないことです。
(10)智慧を啓発する考え方がある:自分の学問をひけらかすのではなく、相手の知識・学問を持ってきて自分の智慧の庭に水を引きます。互いに交流します。
(11)テーマから離れて議論しない:さもなければ、自分をひけらかせ、相手をけなすことに変わります。今の議論のテーマは悪業なのに、テーマを変更して、私はあの日どこどこでよいことをしたにして、自分を賛辞する場に変わってしまいます。
(12)あまり長く話さない。時間をコントロールすることを理解する:ある
種の話題は意味があります。しかし長く話し過ぎと、適当な時間でやめるより悪い結果になります。食べる物と同じです。食べ物も大変おいしくても、食べ過ぎると消化が悪くなり、おなかが痛くなります。おなかがいっぱいになったら、その時がやめるときです。

仏法を議論する方法
(1) 話題は必ず仏法に関する事柄:例えば行禅種徳はその因果について議論します。
自分がどれだけ良いことを行ったかを自慢することではありません。
(2) 正しい態度で議論をする:言葉振る舞いは道理がなく、礼儀がなければなりま
せん。合十拝は合十拝礼です。また自分は相手より知識が高いと議論しないのはいけません。言葉の面では謙遜して礼儀があり、相手が正しい時は正しいとそれを認め、正しくないと時はよい言葉でそれを批評します。ひたすらあてこすりをしてはいけません。もし自分の考えが間違っていたら、謝ります。正しくない態度で仏法の議論を壊してはなりません。
(3) 更に深く仏法を理解するため:自分に言い聞かします。仏法について議論すること
はより深く仏法を理解するためで、仏法の知識に関して自分をひけらかすためのものではありません。
  
議論の相手を選ぶ方法
(1) 議論の相手は必ず仏法を愛している人で、性格は温和であることです。
(2) 議論の話題は必ず相手にあったものであること:例えば、瞑想のことを議論するなら、瞑想修行をした人と議論します。

家庭で仏法を議論する
昔、タイの家庭ではいつも仏法の議論が行われていました。昼間父母は田んぼに行き仕事をします。家にいる祖母は竹かごを編みながら、傍らでは子供たちが遊んでいます。
祖母は孫たちを呼んで、彼らに仏法に関する話を聞かせます。本生経の中にある話を聞かせて、分からないところは子供たちが話を聞き終わった後、質問ができます。仏法はゆっくり子供たちの心の中にしみ込んでいきます。あるいは、夜、夕食を終えた後、父母は仏法の中の教えや話を引用して、子供たちを教育します。同時に自分の子供を観察します。一般に子供たちはみな、善悪、正しいことと間違ったことの心を認識します。

もしその日彼らが何か間違ったことをしたら、父母にそれを思わず口にしてしまうかもしれません。この時父母は必ず指導し、子供の過ちを正すことができます。もし同じような過ち、子供が三回してしまっても、父母が気がつかなかったり発見できなかったら子供はこの過ちが習慣になってしまいます。
現在の社会では家庭内で仏法について議論することは明らかに減ってきています。
一般に夜はみな、食事をした後テレビや映画を見て、仏法を議論する時間はありません。
賢い父母はこの点を疎かにしません。家の中で仏法を議論するよい習慣を回復しようとします。そして、家人が一緒に読経をし、瞑想をし、仏法を議論する段取りをします。お金を稼ぐことしか顧みない父母は、子供に小さい時から仏法、道徳を注ぎ込むことを忘れ、こうなると子供は将来悪くなる可能性が大変大きくなります。

適当な時に仏法を議論することの利点
(1)心が功徳で満たされる。
(2)心が肯定的になる。
(3)より賢く、智慧を持つ。
(4)聞いたことのない仏法を聞く機会を得る。
(5)聞いたことがあってもまだよく理解はしていない仏法をより深い理解できる。
(6)ある種の疑惑に回答を得させる。
(7)自分の誤解や誤った見方を正すことができる。
(8)心を更に純粋にすることができる。
(9)美しい伝統を継承する。
(10)知者の道を進む。

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