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タイ仏教コミュの第二十九項、沙門を見る

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子供は父母や先生からよい見本を得ることを必要とします、世の中の人もまた沙門からよい見本を得ることを必要とします。

なぜ沙門を見なければならないか
世間の幸福は二種類
(1) 外にある物質により得る楽しみ:
感覚器官を刺激する外にある物質から獲得した楽しみ。例えば、きれいなものを見る、よい香りをかぐ、きれいな音を聞く、おいしいものを食べる、やわらかなものに触れることなどです。

(2) 外にある物質によらない幸福感;
瞑想修行により仏法を悟ることから得る心の中の幸福感。自ずから、前者とは比較できない、その上見ることが難しいものです。

考えてみると、内在する幸福はほとんど一種の生産不可能な幸福です。予知することもできません。同時に修行しない人には理解や感知することが難しく、さらに言えば、賛同することも難しいものです。たとえ本を読んでも感じ得ることができないこの種の透き通った幸福です。例えば書籍の中ではこう言っています。戒律を守る人は明るく、静かで、純粋な心があります。修行をしない人はここまで読んで、必ず抗議します「こんなことってありますか。なぜなら、戒律を守る人は何をするにも注意深いです。

どうして我々のような戒律を守らない人と比べられますか。我々お酒を飲み、夜遊びをすることも気にしていません。お酒を飲みながら歌を歌う人を目にし、ギャンブルのテーブルでギャンブルに酔い楽しんでいる人を目にし、あのような楽しそうな叫び声、あのような束縛のない楽しみ、どこが戒律を守る人と比較することができますか。信用できません」

内在する幸福を獲得している人をきめ細かく観察すると、真面目に戒律を守る人、彼らの面立ちは上品で、顔には笑みをたたえ、言葉遣いは礼儀正しく、人を引き付け、この時ようやく信じたくなります。

真面目に戒律を守る人は、彼らの心の中は、幸福です、しかしこの種の幸福は一般の人が感じる幸福とは同じではありません。このため信じることは困難です。しかし少なくとも試してみるべきです。たとえついていけなくても、少なくとも考えてみるべきです。自分はよいことができるかどうか試してみるべきです。

このような内在する楽しみを悟ることができた人は、すなわち沙門です。我々は沙門に会う時、心の中に仏法を思い出します。火がついた爆弾が必ずその無比の威力を発揮するように、我々の内在する思想、智慧、能力、潜在力は必ず沙門に会うと善行を行う方面で無比の力量を発揮します。

沙門とは何か

沙門とは心の中が静止した人です。
持戒、禅定、智慧により、身、口、意に悪い考えが全くなくなった人です。
一人ひとりの沙門はみな出家者ですが、ある出家者は沙門ではありません。
「ただ剃髪するだけでは沙門ではありません。日常の仏事をせず、ただ口で言うことができるだけで、他人を嫉妬するだけで、心は貪欲なら、どうして沙門になれますか。
世尊が沙門と呼ぶのは、すなわちあらゆる悪を生み出さない出家者です」


沙門の性質
(1) 体の静止:
振る舞いが上品で、軽率でなく、気ままでなく、凶悪な振る舞いもありません。例えば、殴る、殺す、刀を持つ、銃を持つ、デモを行う、縄張りを奪うなどは静止していない人の行為です。その身が沙門である人はどこでも、いかなる者も傷つけたりしません。
仏陀はかつてモガラナ尊者を賛美したことがありました。彼は何でもできる優れた力を持っていましたが、どこに行っても誰も傷つけることはありません。托鉢供養の時も、人のことを考え、適当な分量しか受け取りませんでした。
それは庭に飛んできたミツバチが花の蜜をとる時、花を台無しにしないのと同じです。この他、沙門は沙門の身分と戒律を念頭に置きます。

(2) 口の透明さ:
悪い言葉を口にせず、いかなる人の悪口も言いません、人を唆したり、 いかなる人にも無実の罪を着せ陥れたりしません。出家者の間だけでなく、出家者と在家者の間でも同じです。沙門はよい言葉、仏語を口にしなければなりません。会話の中に「銃や刀」を持ち出さず、たとえ、他人が聞くに堪えない話をしただけでも、沙門の身分を失うことがあります。

(3) 心の静止:
心を内在する幸福の中に静止し、悪と手を切り、呼吸の出し入れはみな心と仏法につながり、沙門の静止した外見がうわべだけでないことです。本当の沙門の心は慈悲に満ちあふれて、人に対して無害です。それは身、口、意が静かで静止しているからです。それが沙門を尊敬できる面立ちにしています。

沙門のすべきこととすべきではないこと
(1) 沙門は誰をも傷つけてはならない:
もちろん、身、口、意の方面もいかなる人を傷つけ、損害を与えてはなりません。

(2) 沙門は金銭や財物に重きとしてはならない:
足る知る心を知り、おいしいものを食べず、修行や生活のためだけにするのです。

(3) 沙門は必ず僧としての道に勤しまなければならない:
ただ食べるだけ、寝るだけではありません。沙門は学習しなければなりません。日常の仏事をしなければなりません。例えば仏法を学習し、読経も怠けてはなりません。

(4) 沙門は必ず瞑想に勤しまなければならない:
心の中の煩悩を取り除き、仏教集団の勇敢な戦士となります。あらゆる瞑想方法により煩悩欲望に打ち勝ちます。 
      
三種類の沙門を見る程度
(1) 眼で見る:沙門の外での振る舞いの上品な様子を見ます。尊敬できます。
(2) 心で見る:沙門本人を見るだけではなく、更に沙門の内在する美徳−沙門をしてかくのごとき静止の内在の修行をさせる―を見ます。沙門の僧侶としての道を見ます。
(3) 智慧で見る;眼や心だけでなく修行により生じた智慧によって正しく沙門の内在する美を見ます。

沙門を見た時、どのようにすれば最大の利益を獲得できるか
(1) 常に沙門に近づき、そのもとを訪ねる:仕事がとても忙しくても訪ねて行きよき伝授を得ます。
(2) 常にもてなしをする:例えば、僧房を掃除することを手伝う、四事をもって供養します。沙門により多くの時間を使い、仏法を伝授してもらいます。
(3) 真面目に沙門の仏法の説法を聞く。
(4) 教えを聞いた後、常に沙門の教えの言葉や振る舞いに思いを及ぼします。
(5) 眼で沙門を見る他、考えや法の智慧を用いて沙門の内在する美徳を見る。これを模範として、続いて学習します。頑固になってはいけません。

どうして沙門に家に来てもらうのか
沙門や透き通った修行者にある人の家に来てもらえば、その家の人は必ず無量の功徳を獲得することができます。その原因は次の5つです。
(1) 彼らの心は必ず沙門を見ると信頼の心が生まれ、将来、天界の道へ往生します。
(2) 彼らは必ず恭しくひれ伏して拝礼をし、心から沙門を招待し、沙門を適切な場所に座らせます。将来、名門の家に生まれます。
(3) 彼らは心の中の吝嗇な気持ちを取り去ることができます。将来、名声と人望の道を獲得します。
(4) 彼らは必ずできる限りの布施をします。将来は財宝の道を獲得します。
(5) 彼らは沙門に向かって仏法に関する問題を尋ねます。仏法の説法を聞いた後、将来、智慧の道を獲得します。

沙門を見た時何をするべきか。
(1) もし供養の品があれば、適量を供養するべきです。
(2) もし供養の品が無ければ、五体投地で崇拝すべきです。
(3) もしご五体投地をすることが都合悪ければ、合十でもかまいません。
(4) もし合十をするのが都合が悪ければ。恭しく立ちます。またはある方法で尊敬の気持ちを表します。例えば、道を譲ります。
(5) 少なくとも信頼と尊敬の心で沙門を見ます。

沙門を見ることによる利益
(1) 功徳を思い出させる。
(2) 沙門と良いことをしたいと思う。
(3) 人生の正しい見方とより偉大な智慧を得させる。
(4) 油断しない人にさせる。
(5) 三宝に敬意を払っている人とみなされる。
(6) 三つの大きな価値あるもの、すなわち人間の財、天界の財、涅槃を獲得できる。
(7) 容易に涅槃を悟る。
(8) などなど

沙門を見る利益を得た例
サリプッタ尊者がまだ、在家の信者だったとき、彼は裕福な家に生まれ、名前はウパテッサと言いました。18の経典を研究し、解脱の道を求めるためにサンジャヤバラタプッタに修行に出かけました。その時はまだ仏教に出会っていなかった彼は他の師匠に法を学びましたが、まだ内在する煩悩を取り去ることはできませんでした。このため彼は各地を行脚し、彼のために誤った道を指摘することのできるアラハンを探しました。

ある日すでにアラハンに達していたアサジー尊者に出会いました。彼は托鉢の最中でした。サリプッタはアサジーを見て、その肌が清潔で輝き、振る舞いも上品で、体全体から静かな息吹が漂っているに気づきました。サリプッタは、心に敬虔な気持ちが生まれ、そこでこの尊者のために食事の席を設け、尊者が食事を終えた後、サリプッタは質問をしました。

「あなたの外見は清潔で輝き、光を放ち明るく澄みきっています。あなたはどこで出家されたのですか。師はどなたですか。誰の教理を信奉されているのですか」
「恩師はシャカ族の出家した王子で、すでに無上の正覚を悟られている。世尊は恩師で私が拝聴し、気にいっているのが正に仏法の法です」
「師はいつもどんな説法をされるのですか」
「私は出家したばかりで、新参者です。仏陀の教理について奥深い説法はできません。要点をかいつまんで話すことができるだけです、すべてのものが生まれるのにはみな原因があります。世尊は我々に教えました。これらのものやその発生の原因がどのような次第で取り除かれるかを。これは偉大な仏陀の教理です」

サリプッタは、すべての法は縁あって生まれ、すべての法は縁あって滅びるとの仏法を聞きながら、引き続き思いを巡らせ、即座にスダハンを悟りました。
サリプッタは数限りない過去世で沙門に会い、会った後肉眼で見えるだけでなく、沙門の美徳を見たり思ったりすることができました。更に沙門の言葉を徹底して疑いのないところまで繰り返し思考しました。今世に至り、アサジー尊者に出会い、短く何言か尋ねただけで、スダハンになりました。これは過去世と今世沙門に会えた善報です。

我々はこの仏教の経典の中の話から啓発を得ることができます。サリプッタはとても礼儀をわきまえていて、アサジー尊者に食事の席を設け、食事が終わった後、彼に質問をしました。
アサジー尊者も大変謙虚で、すでにアラハンに達しているのも関わらず、謙虚にへりくだって私は出家したばかりの僧侶で、仏法の規則もまだ受け入れたばかりで、奥の深い仏法の説法はできず、かいつまんではなすことができるだけと述べています。
我々のような平凡な人間が凡人でないと思う。自問してください。自分がどれだけの美徳を持っているかと。なぜ、2人の尊者を模範としないのでしょうか。アサジー尊者の謙虚さと、サリプッタ尊者がいかに沙門の外と内にある美徳を目にすることを知っていたかを。

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