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タイ仏教コミュの刻々と死に近づく親を見つめていると

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植島啓司著「生きるチカラ」の「はじめに」に、以下のように問いかけがありました。これは多くの日本人の切実な苦悩であって、確固たる信念があり、この問いに明快に答えられ実践している方はなによりも幸福と言えるかもしれません。

 今、うちの高齢の父は病院で寝たきりの状態でいる。彼を見ていると、いったい生きたいのか、死にたいのか、よくわからない。父が入院している病棟に見舞いに行くと、同じような境遇の人たちがベッドに横たわっている。いつ行っても、みんなほとんど眠っている。回復を願っているのではなく、ただひたすら死を待っているようにも見える。気持ちよく生きてさっと死ぬというのが理想のはずなのに、社会がそうさせてくれないのである。

父は重い肺気腫となり、心筋梗塞を起こし、腎機能も低下している。さらに両大腿骨を骨折し、最近ついに目も見えなくなってきた。そうなると、気の毒なことにベッドで寝たきりのまま何もできない。意識は比較的はっきりしているので、かえって自分の状況が分かるからさぞつらいことだろう。どうしてこんなことになってしまったのか。

詩人の伊藤比呂美さんの場合もよく似た事情らしく、次のように書いている。
「刻々と死に近づく親を見つめておりますと、どうも彼らは死に方がわかってない。死にたくない、かといって生きていたいとも思っていない。戦争を経験し、高度成長にもまれ、信じていたものをきれいさっぱり捨ててきた人たちです。家には仏壇も神棚もなく、自然をありがたがることも忘れ、かといって西洋の知識人のように確固たる自己があるわけでもない。宙ぶらりんになって死ぬに死ねない。死ぬための心構えもできていない。」

いま生きている自分が何のために生きているのか分からない。
では、どう生きたらいいというのだろうか。 

最後に死ぬという決定的な事実がある限り、究極の処方箋はひとつしかない。
それは死ぬことを最大の幸福とみなす生き方である。
どの国を訪れても「宗教」「信仰」「文化」「経済」はほとんど一体となっている。人々は死んだら今より幸せになれると信じている。ひどい境遇にあればある程、人は死後に希望を託すようになる。ところが、日本で「人生の目標は?」という質問をすると、「マイホームを建てること」がトップに挙げられることになる。果たしてそれでいいのかどうか。

私は二冊の本で、日本では「信じること」がどのようにして今日の形になったのかという問題について論じたところである。勿論、ここで言う「信じること」とはそのまま「宗教」とか「信仰」だけを意味していない。
しかし、「何も信じないではいられない」とわかっているものの、いまさら特定の宗派や教義に依存するというわけにもいかない、というのが多くの人の実感ではないか。
そうなると、「我々の合理的な判断を水面下で支えている規範的なもの」についてどう考えたらいいのだろうか。

死に方がわからなければ、生き方もわからない。
そして、生き方がわからなければ死に方もわからない。   以上

この問いに明確に答えているのが仏陀の教えですが、「仏陀の教え」とは教義や哲学ではなく、「人間はどう生きるべきか」を説いたものです。
ひとたび教義を信じ教条主義に陥ったら、自分の教義が唯一の真理で、 他のすべての教義は異端だと信じるようになります。 この世の争い、論争や差別はすべて、このような偏狭な見解から起こっています。
仏陀は信仰のある人になれと説きましたが、現代でいうと宗教である信仰とは、ただ盲目的に教義による教条主義に陥らず、論理的な信じるべきことを信じる人になることです。

仏陀の説いた信仰とは、この四つを信じることです。
業カルマの存在。
業には結果があること。
自分は業を持っていること。
仏陀の悟りの智慧である宇宙の真理。

仏陀は言う、
「私の教えを盲信してはならない、試して結果が出れば励行しなさい」。

コメント(6)

無明の中で
無駄なことをしてきたなと
思う今日この頃です。
タニヨー比丘の口癖ですけど、それに気づけばもう思い出してはいけないといいます。
思い出すことで心が暗くなるだけ自傷行為のようなものです。
苦悩のすべては過ぎてしまった過去とまだ来ぬ未来への恐れです。

いっささんの口癖のポジティブ、心明るくが一番ですね。
もちろん元気に生きている時も、また死を迎える時も、そして死のその瞬間も、充実する知恵を教えて下さっているのが仏教だと思います。
>>[3]

原始仏教に惹かれるのは、このような明快な倫理、徹底した合理主義です。

己こそが、己の拠り所である。
自己を救済する者、それは自己をおいて他にない。
万物を創造し人間の運命を支配する神は不在である。
まず己を整えることから始め、弛まず自己を鍛錬せよ。
これこそが真の救いの道である。
>>[004]

>原始仏教に惹かれるのは、このような明快な倫理、徹底した合理主義です。


そうですね。
ブッダは現代でさえなかなか見つけられない優れた知性の人だったと感じさせられますね。
「自分の死」という考えを僕たちは大抵、意識の底に抑圧して生きている。
今日や明日死なない者として自分を考え、
何年先も見据えてそれまでの長い時間の一コマとして今をとらえている。
だから現在という時間はどんどんのんべんだらりとしたものに変質し堕落しがちだ。
真実を見ようとする心、
どんな瞬間にも真実をより深く掘り下げようとする求道心こそ、
僕たちの瞬間瞬間の生き方を決して浮わついたものや、惰性に流されたものにせず、
深い深い何かと自分を常につないでくれるのじゃないかなあと思います。

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