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タイ仏教コミュの法身に到達するための瞑想法

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今日は「法身に到達するための瞑想法」について学びましょう。瞑想は心を落ち着かせ安定させるものです。しかし、瞑想の中には仏教のものと、そうでないものがあります。仙人の瞑想法もありますね。例えば、仏伝の中では、仏陀となる前のお釈迦様は、アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ダーマ・プッタ仙人の処で瞑想法を習いました。その時のお釈迦様は、無色定(むしきじょう)まで至ったのですが、お釈迦様は、これでは涅槃へ行くことはできないと気づきました。そのため、それまでの瞑想法を止め、身体の中心に心をおく瞑想を行うようになりました。そして中道を見つけ、悟りを開き、最終的に仏陀となりました。では、仏教における瞑想とそうでない瞑想にはどのような違いがあるのでしょうか。それは、仏教の教えでない瞑想は、「心を身体の外に据える」ということを1番重要視しているということです。

例えば、火を祀る仙人は瞑想をするときには、心を火に据え集中させます。これで、ある程度心を安定させることができます。心を身体の外に置くために、心は安定しますが、明るくなりません。それは大体蝋燭の灯火ほどの明るさといえます。この瞑想法でも、天国が見えるなどの神通力を得ることが出来ます。これに対し、仏教の瞑想法は、心を身体の中、そしてその身体の中心に置きます。この状態がとても安定した状態になると、顕微鏡を使って小さな微生物を見るかのように、様々な些細な物事もはっきりと目に観えるようになるのです。ここで見えるのは蝋燭ではなく、太陽のような明るさです。仏教における瞑想法にはいくつかの段階に分けて修行をします。瞑想諸段階の基本は、心を穏やかに安定させることです。そしてその方法は5世紀頃のブッダゴーサ長老の『清浄道論』によると40種類あります。例えば、明るさを思い浮かべる「光明遍」などの「十偏」。あるいは、出血した死体、虫の湧いた死体など様々な状態の死体を思う「不浄観」。仏陀、仏陀の教え、仏弟子の徳などを念じる「十随念」。または、呼吸の出入を念じる「出入息念」などです。

様々な方法がありますが、共通して言えることは、心をそのものに集中させることを目的として行っているということです。しかし方法はこれだけに収まりません。それは100種類に及ぶかもしれません。水晶球を思う瞑想であって「光明遍」と呼びます。これは「十偏」の中の1つの方法です。また、「サンマー・アラハン」と心の中で唱えることも教えていますね。「サンマー」とは「正しい」、「アラハン」は「煩悩から離れた者」という意味です。すなわち、仏陀のことを指しています。これは、「仏随念」の一種です。私達の行う瞑想は水晶球を身体の中心に思う「光明遍」と、「サンマー・アラハン」と唱える「仏随念」の2つを交えた方法ということになります。水晶球ではなく、透明な仏像を思うと、「光明遍」と「仏随念」の2つを一緒に行っていることになります。

こんなことがありました。ある子供が瞑想をするので、水晶球を思い浮かべるようにと言いました。しかし子供は思い浮かべることができませんでした。仏像を思い浮かべることもできませんでした。ですから、両親の顔を思い浮かべてくださいといいましたが、やはり思い浮かべることはできませんでした。その子供は家も、寝室も、全然思い出せないと答えていました。そこで、何だったら思い浮かべることができるのか聞いてみました。子供はみかんが大好きだといい、みかんの種なら思い浮かべることができると答えました。ですから、透明なみかんの種を思い浮かべるように、そして、これが1番大切なことなのですが、その種を身体の中心に置き、そのみかんの種を観続けるようにとその子供に教えました。こうして子供は瞑想を始めました。すると、瞑想を続けるにつれ次第にみかんの種は消え、丸い光が出てきました。

たとえ思うものがみかんの種など、どんなものであっても思い浮かべることが可能なのです。なぜなら、これは瞑想の対象となることです。一般的には水晶球を瞑想の対象とすることを薦めています。丸く角のない水晶球は思い浮かべやすいからです。毎日、礼拝している仏像であっても、見慣れているものですから、思うことは簡単に出来ると思います。しかし、友達の顔を思うのが得意だといい、友達の顔を思い瞑想していると、その人と旅行へ行った思い出がよぎり、その思い出を振り返りまた違うことを考えてしまうことがあるかもしれません。これでは心を一箇所にとどめておくことは出来ません。ですから、これはやめておきましょう。透明な仏像や瞑想球を思い、「サンマー・アラハン」と心の中で唱えることが1番良い方法だと思います。しかし、何を思うとしても、それはただ心を穏やかに安定させるための対象でしかないことを忘れないでください。

そして、『清浄道論』の40法やこれ以外のみかんの種や蓮の花、満月など、どれを瞑想の対象とおいても問題ありません。なぜなら、すべては心を穏やかに落ち着かせ、安定させるためのものだからです。心がある程度穏やかに安定すると、自分で作った瞑想の対象は自然に消えていき、新しいものが現れます。それは丸くて、透明で、明るいものです。これこそ、本物の瞑想の対象です。身体の中心に現れます。これは私達が作ったものではありません。「中道」という言葉は、苦でもなく、楽でもなく、その真ん中の状態ということです。ただし、実践的に心を身体の中心である「中道」に置き瞑想をし、その状態を続けます。お釈迦様は最初の段階から仏陀となった最終段階までこのように修行されました。仏弟子もこのような方法で阿羅漢となりました。

ここからは、心のベースについて話しましょう。前に心は身体の中心にあるという話をしましたね。いきなり心を身体の中心に置きましょうといっても、やはり、難しいですね。ですから、順序にそって、心を身体の中心へともっていきましょう。身体には7つの心のベースがあります。1から順に、ゆっくり心を動かしましょう。第1ベースは男性は右、女性は左の鼻腔にあります。他の物事に執着している心をそこから離して、鼻腔へもってきます。第2ベースは男性は右、女性は左の目頭にあります。六感の嗅覚をつかさどるベースです。嗅覚は鼻にあるのではないかと疑問に思う方もいると思いますが、医学的にも証明されてもいるのですが、嗅覚は鼻で感じるのはなく、この目頭に近い所にある神経で感じとる仕組みになっているんです。第2ベースはこの嗅覚があるところになります。第3ベースは頭の真ん中にあります。ここから男女ともに同じベースになります。眉間から糸を通し、耳の上からも糸を通して交差した所が第3ベース、頭の真ん中です。ここは視覚をつかさどる所です。またこれも医学的に証明されています。

光は水晶体から入り、中心窩を通り、視神経へと伝わり映像化されていきます。こうして伝わった両目の光はある一定の場所で統合されます。この統合点を第3ベース、頭の真ん中です。第4ベースは頭の真ん中からまっすぐ下りた口蓋にあります。ここは聴覚をつかさどる所です。医学的には、耳から入った音は骨伝導によって音として消えこますよね。両耳から入った音が交わる点が第4ベース、口蓋です。第5ベースは第4ベースからまっすぐ下りた首の喉仏の辺りにあります。ここは味覚をつかさどる所であり、舌の付け根に相当します。第5ベースは、喉仏にあります。第6ベースは第5ベースからまっすぐ下りた第6ベースにあります。これは触覚をつかさどります。第6ベースは臍にあります。そしてここから人差し指と中指の2本分上の所に第7ベースがあります。ここが心のあり場となります。第1〜6のベースは、第7ベースへ向かうための通り道です。瞑想する時には、心をこの第7ベースへ置くように心がけてください。

始めてすぐに心を第7ベースへ置くことの出来る方は、それでも構いませんし、いきなりそれは難しいと言う方は1、2、3、4、5、6、7、と順に心を移動させていく方法でも構いません。また、慣れない人は1、2、3、4、5、6、5、4、3、2、1と繰り返して心を慣らしてから第7ベースへ置くことも効果的です。第7ベースはとても重要な場所です。カップの蓋も真ん中を支えることで安定しますよね。これと同様に身体の中心に心を置くことで、安定し、集中することができるのです。心を他の場所において置くと、他の物事に簡単に心が動いてしまいます。常に心を第7ベースに置うことで心を安定させ力を保つことができます。ですから第7ベースはとても重要な場所といわれるのです。

寝る前に心を第7ベースにおいてから眠りについてください。そうすれば寝ている間に、いろいろな夢を見たとしても、目覚める直前にまた心は第7ベースに戻り、目覚めます。瞑想体験者の中には瞑想をしても暗闇しか見えず、光はまったく見えてきません、うとうとし眠りにつこうとしていた瞬間、第7ベースからわっと光が現れ、そのまま眠りについたという経験をされた方もいらっしゃいました。ですから、皆さんもこの第7ベースに心を置くことを大切にしてください。瞑想をする時には必ず第7ベースに心を置いてください。慣れない方は1〜7を繰り返し行っても構いませんし、直接第7ベースにおいても構いません。それでは、瞑想を始めましょう。

右足を左足の上に乗せ、右手人差し指と左手親指が軽くくっ付くように右手を左手に置き、その手を組んだ足のくるぶしの上に置きます。それから背筋を伸ばし、痺れないように身体全体を楽にリラックスさせ、軽く目を瞑りましょう。瞑想を始めるときには毎回、まず基本としてこのように姿勢を整えますが、その後はあまり姿勢を気にしなくても構いません。おでこ、頭、首、肩、腕、手のひら、背中、腰、足の指先まで、リラックスさせましょう。体を動かして、自分の1番心地よく坐れる体勢を整えてください。きちんと体勢を整えることができると、体が安定し、長く瞑想を続けることができ、また、足が痺れ難くなります。体を調整することが出来たら、次は心をリラックスさせましょう。すべての物事を、一旦、外に置き、忘れましょう。家族、仕事、出家式の準備もすべて捨ててください。先生達から教えてもらった物事もすべて忘れましょう。

この時間以外に考える時間はたくさんあります。考え事をするより、瞑想時間はほんの少ししかありません。この時間は心を鍛える修行として、心を穏やかに落ち着かせてください。ほかの事はまたあとで考えよう、やろうと、自分に言い聞かせてくださいね。それでは、透明で真ん丸い水晶球を思ってください。そしてそれを第1ベースの鼻腔に置いてください。男性の皆さんは右側の鼻腔ですね。小指の指先くらいの水晶球を思ってください。そして鼻腔にある水晶球の真ん中から「サンマー・アラハン」と3回唱えてから、第2ベースである目頭へとゆっくり水晶球を移動させます。「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」と3回唱えましょう。次に眉間から糸を通し、耳の上からも糸を通して交差した所にある第3ベース、頭の真ん中へ移動しましょう。「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」。第3ベースからまっすぐに第4ベースへと水晶球をおろしてください。さあ、唱えましょう。「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」。第5ベースへと移しましょう。

「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」。次は、第6ベースの臍へとゆっくり水晶球を動かしましょう。「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」。最後に第7ベース、身体の中心へ水晶球を置きましょう。それから「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」と唱えてください。今、第7ベースに水晶球がありますね。今からは水晶球の好きな大きさへさせても構いません。小さいままでも、みかんやレモンほどの大きさでも構いません。ただ力を入れてはいけません。優しく、優しく思いましょう。その水晶球を第7ベースで保ち続けてください。はっきり見えなくても問題ありません。

それを観続けてください。心地良い状態を続けましょう。この状態を続けていると、安定し、ある程度に達すると、はっきり見えていなかった水晶球が自然とはっきり見えてくるようになります。つい他の事を考えてしまい、それに気づいたのであれば、その物事を捨ててください。そしてまた再び水晶球を思ってください。これが何度続いても、気をとりなおして新たに水晶球を思い、「サンマー・アラハン、サンマー・アラハン、サンマー・アラハン」と唱えてください。第7ベースに心を置き、その状態を保ち続けてください。

コメント(2)

第7ベースとは身体の中心のことなのですね。
>>[1]

こちらに体内における7つの心のベースを示す図がありますので参考に。
初心者のための瞑想法
http://www.dmc.tv/pages/jp/meditation/meditation_introduction.html

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