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中央大学マンドリン倶楽部コミュの組曲「中世の放浪学生」

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<曲名>
組曲「中世の放浪学生」 作品350
Suite Goliardica Op.350

<作曲者>
アメデオ アマデイ
Amedeo Amadei

<編曲者>
中野 二郎
Jiro Nakano

<演奏時間>
約12分50秒

<録音情報>
ポルタ ビアンカ マンドリーノ 第3回演奏会
中央大学附属高等学校マンドリン倶楽部第28回定期演奏会
中央大学音楽研究会マンドリン倶楽部第54回定期演奏会
FREUDE MANDOLIN ORCHESTRA 第12回定期演奏会
新所沢マンドリン倶楽部第17回定期演奏会
COMRADE MANDOLIN ENSEMBLE 第7回定期演奏会
アンサンブル・ベル・セゾン 第1回マンドリンコンサート

<A.アマデイについて>
 A.アマデイは1866年12月9日イタリアのロレートに生まれ、1935年6月16日トリーノで逝去した、作曲家で管弦楽指揮者です。初めは父のR.アマデイ(Robert Amadei)に音楽を学び、その後20才にしてボローニアのアカデミアフィラルモニカを卒業、合唱指揮・オルガニストとして活躍しました。1889年第73連隊軍楽長を拝命、その後第50連隊軍楽長等を歴任して、退役後はトリ一ノに定往し、指揮者として、また教授として音楽界各方面につくしました。作品も多岐にわたり、管弦楽曲、吹奏楽曲、合唱曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、マンドリン合奏曲を含めて約500曲があります。アマデイの作品は、一貫してイタリー人の明朗にして円満なロマンティシズムに包まれています。特殊な技巧を労することなく、マンドリンの自然な表現で、しかも芸術的にマンドリン音楽を高揚した人なのです。
 マンドリン合奏曲への創作は1897年頃からはじめられていますが、1906年ミラノのイル・プレットロ主催の作曲コンクールに「プレクトラム讃歌」が受賞して以来、この方面の創作に意欲を燃やし、1909年同誌主催の第2回作曲コンクールに提出した「海の組曲」は81曲中見事一位に入賞。マンドリン音楽愛護者として知られた時の、イタリア皇太后マルゲリータ御下賜の大金牌を授与せられました。1910年春、ベルガモの著名な合奏団エステュディアンティーナ・ベルガマスカ(E.Giudici指揮)の名誉会長に推され、又、永年音楽に貢献した功によりカヴァリエーレの称号を、また1925年春には聖マウリツィオ聖ラッツァロの十字勲章を授与されました。更には演奏コンクールの審査員としてもしばしば出席して、斯楽のために労を惜しみませんでした。1901年以来、ボローニアで刊行されていたVita Mandolinistcaの主幹として1907、1908の二年間在任、斯楽の啓蒙につくしました。
 その間、創作活動は間断なく続けられましたが、マンドリン合奏における独創性を把握してこの真価を発揮して芸術性を高めたのは、マンドリン音楽に対する大いなる功績でありました。
 1935年6月16日トリーノにて逝去、同18日葬送式の後、故郷ロレートの墓地に永遠の眠りにつきました。彼の作品番号は485迄あり、最後の作品は管弦楽のための三楽章の組曲「ノルウェイの水彩画」であると言われています。

<解説>
 作曲者は斯界を代表する至宝的作曲家の一人です。初め父のRobert Amadei(この人もまた優れた作曲家で、マンドリンアンサンブル曲も作曲しています)に音楽を学びましたが、1888年ボローニャのAcademia Filarmonicaで作曲を収め、翌年にはピアノの課程も修了、更にオルガンや合唱指揮も収めました。1889年にはイタリア陸軍に従軍、軍学隊長等を歴任します。退任後はトリノに定住し、指揮者や教授として尽力しました。作品は多岐に渡り、その数も500を数えます。アマデイの作曲の本領は管弦楽にあり、そのうちの幾つかはマンドリン合奏にも遷されていますが、彼の作曲した瑞々しい響きの小品にもまた、マンドリン本来の表現能力に対して特別な技法を施すことなく、自然で明朗なロマンティシズムを遺憾なく発揮したものとして愛奏されうる曲となっています。

 この曲は組曲で、四楽章で構成されています。各楽章は以下の通りです。

1. 放浪(Ronda)

2. 愛のワルツ(Valzer d'amour)

3. 朝の調べ(Mattinata)

4. 謝肉祭の行列(Corteggio Carnevalesco)

 作者が亡くなったことが、Il Plettroの1935年7、8月号に大きく報道されました。そして同年7月20日に追悼演奏会が催されました。Petraliaの指揮により管弦楽の演奏で、その時が初演となった組曲「吟遊詩人」と本曲「中世の放浪学生」と、もう一曲、これは別れの曲と題して、医師であり作曲家であるC.Beltramoの作である小説に作曲した「北欧のスケッチ」の3曲が演奏されました。このことからも、本曲は作者の代表作品と思われます。
 なお、中世の放浪学生、または中世の遍歴書生詩人とは、12〜13世紀に恋愛詩、風刺詩を歌いながら各国を遍歴した学生や托鉢僧(たくはつそう)をいいます。

<中世の大学について>
 僧侶が知識階級であり、かつ教師であった中世において、大学は教会及び修道院の付属学校(スコラ)から発達しました。最も古いものとしては、11世紀末のサレルノ大学(イタリア)、12世紀にはボローニァ大学(イタリア)、パリ大学(フランス)が挙げられます。初めは法学(ボローニァ)、医学(サレルノ)、神学(パリ)の如き専門的なもののみでありましたが、後には文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽の自由7科に分けられました。大学はヨーロッパにたちまちにして普及し、特に著名なものとしてはオックスフォード(12世紀)、ケンブリッジ(13世紀)の他、ライプチッヒ、ナポリ、ウィーン、ハイデルベルヒ大学等があります。これらの大学はおのおのの政治、宗教的支配者、すなわち教皇、君主、諸候から兵役や納税が免ぜられて独立的存在であったそうです。大学(University)の本来の意味は中世における各種の職能組合およびギルド(中世の同業組合)で、大学は本来ギルド的性格、構成をもつ一つの自治体であったとされています。

<中世の学生について>
 中世の学生達が優れた教師を求めて遍歴の旅をしたり、中世の同職組合の職人達が、旅に出て技術をみがくという目的の他に、親方株が制限されていたために、故郷では親方になる可能性がない職人が、どこかで親方の未亡人や娘と結婚する可能性を求めての旅でもありました。この点では、職人の遍歴の旅も騎士の子弟の武者修行の旅も基本的には同じであったと言えるでしょう。

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