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『山口県観光案内』コミュの “維新胎動”の地『松下村塾』

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『松下村塾(しょうかそんじゅく)』は、幕末に 吉田松陰 が主宰した私塾で、山口県萩市(椿東)にあります。

松下村塾は、もともと叔父の 玉木文之進 が天保13年(1842年)に自邸に私塾を開設したのが始まりで、ついで外叔父の 久保五郎左衛門 が継承し教育にあたっていました。
安政4年(1857年)、27歳の松陰がこれを継ぎ、塾を主宰することになります。

吉田松陰は、文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士 杉百合之助 の次男として生まれ、天保5年(1834年)6歳の時に叔父で 山鹿流兵学師範 である 吉田大助 の養子となりますが、天保6年に養父 大助 が死去したため、同じく叔父の 玉木文之進 が開いた 松下村塾 で指導を受けています。

天保9(1838年)8歳のとき藩校 明倫館(めいりんかん) で山鹿流兵学の講義をし、その後 明倫館 で教授することになった。また10歳のときには藩主 毛利敬親(たかちか) の前で「武教全書」を講義し、その巧みさに藩主を驚かせています。

この 松陰 の教育指導の功績により、天保14年に 玉木文之進 は大組証人役として出仕し、安政3年(1856年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して“名代官”と言われました。 郡奉行 や 毛利一門家である 厚狭毛利家参謀 等当職を歴任しています。


安政元年(1854年)に、吉田松陰が米国の艦船に乗船(密航)を企てた罪で投獄され、安政2年に生家で預かりの身となり、実家である杉家に蟄居し、家族の薦めにより、邸内に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開しました。 幽囚室での「孟子」講義は、単なる解説ではなく 松陰独自の解釈 で高い評判となり、次第に萩城下に広がっていきました。
その後、叔父の 玉木文之進 が開いていた私塾を引き受けて安政4年11月5日、27歳の松陰がこれを継ぎ『松下村塾』主宰することになりました。
松陰が藩から家学教育の許可を得て名実ともに松下村塾の主宰者となったのは、安政5年7月からですが同年11月29日、松陰はふたたび一室に幽囚され、続いて再入獄の身となりました。

この僅かな期間に、子弟が集まり松陰に師事し、松陰が指導激励した場所である私塾で、高杉晋作を始め、幕末維新の原動力(指導者)となり、明治新政府で活躍する多くの逸材を育てました。

松下村塾は、安政2年当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え 杉家邸内の納屋 を増改築して講義を開始しました。
木造瓦葺き平屋建ての50?ほどの小舎で、8畳一室と、後に増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っていました。

塾では身分の区別なく学ぶことができ、幕末維新期に活躍し、近代日本の原動力となった数多くの逸材が輩出されています。 この塾に通っていたのは主に近所の青年たちで、高杉晋作のような士分の存在は稀な存在でした。
(松下村塾は、武士や町民など身分や階級にとらわれずに塾生を受け入れていました)

僅か2年余りに過ぎない短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、しかも一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていきました。 講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたといわれています。
松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」とも言っています。 また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いていました。

松陰の勉強法は書物をただ読むだけではなくて要点を書き取ることが大切であること、知識を蓄えて鵜呑みにするだけでは意味がない、自分の考えを磨いて疑問を持ち、それを解決してゆくという事を指導していました。 松陰は『飛耳帳目録』という国内外の情報をまとめたものを綴じていたのですが、日本と世界の情勢は 松下村塾 へ行くと判るといって遠方より来る人もいたとも言われています。

藩校 明倫館 の教授を務めた松陰が主宰し、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた松下村塾は、士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん、武士に仕えながら卒(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・中間なども入学できなかった 明倫館 と対照的でした。


松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は“松門双璧”と呼ばれた 久坂玄端、高杉晋作 等、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、伊藤博文、山県有朋 等、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たします。

短期間しか存続しませんでしたが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しました。 塾生名簿や門人帳の類は存在せず在塾した門人数は正確にはわかりませんが、おおよそ 約300人 と推定されています。
著名な門下生には「尊王攘夷」「倒幕」の全国志士の“総元締”の役割を果たした 久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、この人々の死んだ後を受けて藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を打ち破った“革命児” 高杉晋作 がいました。

高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれました。
また、この2人に 吉田稔麿 を入れて「松陰門下の三秀」と言い、さらに 入江九一 を合わせて「松下村塾の四天王」と称されています。

これら直門の高弟の衣鉢を継いで、末弟子の伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義らが、明治政府の最高指導者となりました。 他の門下生には、萩の乱を起こした 前原一誠 や 野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎 等がいます。


久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、それ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いですが、生き残った者は、伊藤博文、山県有朋の内閣総理大臣を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たしました。


慶応元年(1865年)に 塾生の1人である 馬島甫仙(まじまほせん) が帰郷し、塾を再開させました。 近隣の子弟を集め、松陰先生の思想を受け継いで教育を行っていました。
明治3年(1870年)に東京の兵部省本庁と大坂兵部省出張所と往復する多忙な日々を過ごしていた 同門 の兵部大丞 山田顕義 の求めに応じて大阪に出向き、塾は閉鎖されます。

明治5年(1872年)に 玉木文之進 が退官し、松下村塾を再開させます。
しかし、明治9年に元参議で松下村塾出身の 前原一誠 が起こした『萩の乱』に、文之進の養子 玉木正誼(まさよし) を始め、塾生の一部が参加しました。 乱(前原騒動)は政府軍に制圧され、その責任を取る形で文之進は先祖の墓の前で自刃します。 これにより塾はまたしても閉鎖されます。

これを引き継いだのが、吉田松陰の実兄 杉民治 です。
明治13年(1880年)に官職を退き、塾を再開させます。 漢学を中心とした教育を行っていましたが、明治25年に 民治 が萩の私立学校の校長に就任したため塾は閉鎖され、ここに『松下村塾』は、50年の歴史に幕を閉じました。


大正11年(1922年)10月12日、国の史跡に指定されており、松陰神社の境内には、修復された当時の建物が保存管理しています。
講義室だった8畳の部屋には 松陰の像 と 机 が置いてあります。


余曰く、「学は、人たる所以を学ぶなり。〜(中略)〜 抑ゝ人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり〜(後略) 」と。

 私はいう、「学問は人が人である、そのいわれを学ぶものである。(中略)大体、人にとって最も大事なのは、君臣の義、つまり君主と家臣の間が正しい道である。国家にとって最も大事なものは、華夷の弁、すなわち我が国と他国との別れるいわれ、つまり違いを認識することである。」と。


吉田松陰先生は「学は人たる所以を学ぶなり」とおっしゃっておられます。

つまり、人として身につけるべきことを身につけていく、これこそが教育であろう、このように思われていました。
そしてまた、それぞれ人間はいろいろな可能性を秘めているわけで、そうした可能性を引き出していく、そうした教育が行われることも求められていました。



「吉田松陰」と「松下村塾」の名は門人達の活躍により全国に轟き、現在まで語り継がれる歴史上稀に見る“日本最高の学び舎”といっても過言ではないと思います。


松下村塾が置かれた 松陰の実家・杉家の邸内 に、明治23年(1890年)に松陰の実兄 杉民治 が土蔵造りの小祠を建て、松陰が生前愛用していた 赤間硯 と松陰の 書簡 を御神体として祀ったのを始まりとする 吉田松陰 を 祭神 とする『松陰神社』が鎮座し、境内には国指定史跡の『松下村塾』『吉田松陰幽囚の旧宅』などが保存管理されています。
北隣にある『松門神社』は、松陰神社創建当時の土蔵造りの本殿であり、松下村塾出身の松陰門下生を祀っています。


近くには『吉田松陰誕生地』『吉田松陰の墓及び墓所』をはじめ、叔父で松下村塾初代主催者である『玉木文之進旧宅』や毛利家の菩提寺である『東光寺』などがあります。



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