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カッケー日本人を取り戻そう!コミュのカッケーと思う日本人 ?:乃木希典

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各自がカッケーと思う日本人を教えてください。

氏名:乃木希典

ポイント:日露戦争における敗軍のステッセル将軍の対応にみる武士道精神

Wikiより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

日露戦争への従軍 [編集]
馬蹄銀事件による休職 [編集]

台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。

しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[55]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、乃木は休職を申し出て帰京した。ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった[56]。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。

休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。その姿は「農人乃木」と言われた[57]。
復職と出撃・長男戦死 [編集]

日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職したが、乃木はこの後備任務が不満だった[58]。

明治37年(1904年)5月2日、乃木は、第三軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫に対し、「どうです、若返ったように見えませんか?ども白髪が、また黒くなってきたように思うのですが」と述べてている[59]。

なお、乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、司令官のうち薩摩藩出身者と長州藩出身者とを同数にすべきであるという藩閥政治の結果とする主張もある[60]。

乃木は、明治37年(1904年)6月1日、宇品を出航し、戦地に赴いた。[61]。

乃木が日本を立つ直前の明治37年(1904年)5月27日、長男・勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は、広島において勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。長男・勝典の戦死は新聞でも報道された[62]。
旅順攻囲戦 [編集]

詳細は「旅順攻囲戦」を参照

乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団及び第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[63]。

明治37年(1904年)6月6日、乃木は塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[61]。

乃木率いる第3軍は、明治37年(1904年)6月26日から進軍を開始し、同年8月7日に第1回目の、同年10月26日に第2回目の、同年11月26日に第3回目の総攻撃を行った[64]。また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した[65]。

乃木は、強襲法を採用した第1回総攻撃による死傷者が1万6000人に至って失敗したことを受け、第2回総攻撃以降は、ロシア軍の堡塁の手前まで塹壕を掘り進めて構築された突撃陣地から攻撃を行う正攻法を採用した。正攻法の採用について、乃木率いる第3軍の参謀らの多くが反対し、作戦会議は紛糾したが、最終的には乃木自らが正攻法によることを決定した。これにより、第3軍の損害率はかなり減少した[66]。

ところが、旅順要塞は容易には陥落しなかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると思われていたから、日本軍の内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[67]。

また、乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2400通も届けられた[68]。

明治37年(1904年)11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。これを知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」と述べたという[69]。長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、「一人息子と泣いてはすまぬ、2人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[70]。

明治38年(1905年)1月1日、旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される。)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[71]。乃木の下で戦った桜井忠温は、乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った、と述べた。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[72]。
旅順要塞攻略と水師営の会見での会見 [編集]
水師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセル将軍

旅順要塞攻略後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は同要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した[73]。

これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木は、ステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた[74]。また、乃木は、従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた[75]。

こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され、賞賛された[76]。また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された[77]。

乃木は、明治38年(1905年)1月13日、旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の意訳を求めた[78]。
奉天会戦 [編集]

詳細は「奉天会戦」を参照

乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。

第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると誤解して兵力を振り分けたので、第3軍は激しい抵抗にあった。第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ。」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、第3軍の司令部を再前線にまで突出させたが、幕僚の必至の説得により、司令部は元の位置に戻された[79]。

その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。第3軍の奮戦によって、ロシア軍総司令官クロパトキンは、第3軍の兵力を実際の2倍以上であると誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部及び中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[79][80]。

アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは、奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になったと述べた[81]。
凱旋 [編集]

乃木は、法典の北方に位置する法庫門において日露戦争の休戦を迎えた。この際、乃木は、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと及び樺太すべてを割譲させることは困難であること等を述べている[82]。

明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間旅順に滞在して旅順の砲台を巡視した後、大連を出航し、同月10日には宇品に、同月14日は東京・新橋駅に凱旋した[83]。

乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[84]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[85]旅順要塞の攻略が極めて困難であったことや、二人の子息を亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[86]。

乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[87]。

乃木は、凱旋後、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書は、旅順要塞の攻略に長期間を要した上、多大な犠牲を被ったこと等を率直に認める内容であり、乃木は、これを読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし、明治天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[88]。
乃木に対する世界的賞賛 [編集]
ニーヴァ誌に掲載された乃木の挿絵

旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され[89]、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に、水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された[76]。

乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国であるロシアの新聞『ニーヴァ』ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[90]

加えて、乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[91]。
学習院院長就任 [編集]
乃木式教育 [編集]

明治40年(1907年)1月31日、乃木は学習院院長を兼任する。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後任の参謀総長にしようと明治天皇に内奏した。しかし、明治天皇はこれを許さず、自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に指名した[92]。明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる[93]。

乃木は、当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって指導に努めた。また、乃木は、剣道の教育を最重要視した[94]。時には、日頃の成果を見せよといって、生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった[95]。

乃木の教育方針は、「乃木式」と呼ばれた[96]。
生徒からの評判 [編集]

乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科及び高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。乃木は、生徒に親しく声をかけ、よくだじゃれを飛ばして生徒を笑わせた[97]。学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した[98]。

他方、乃木の教育方針に反発した生徒もいた。そうした生徒は同人雑誌『白樺』の下に集まり、乃木を非文明的であると嘲笑した。これに対し、乃木は、以前から親交のあった森鴎外に助言を求めている[99]。
昭和天皇の養育 [編集]

明治41年(1908年)4月、裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。昭和天皇は、乃木を「院長閣下」と呼び、後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ[100]。
殉死 [編集]
自決当日の乃木夫妻
旧乃木希典邸。乃木および静子夫人が自刃した場所でもある。
乃木希典那須野旧宅。日清戦争後に閑居していた時期に使用された。
自刃前の乃木 [編集]

乃木は、大正元年(1912年)9月10日、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、淳宮(後の秩父宮雍仁親王)及び光宮(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時弱冠10歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという[101]。
自刃 [編集]

乃木は、大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻とともに自刃して亡くなった[102]。当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況等について詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と妻の静が自刃した状況につき、以下のように推測している[103]。

1. 乃木は、大正元年9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。
2. 将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に「遺言条々」を、13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した。
3. 夫人(静)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。#

乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも「遺言条々」と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた[104]。

乃木は、以下のような辞世を残した。

神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

また、妻の静は、

出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき

という辞世を詠んだ[105]。

なお、乃木の遺書には、遺書に記載されていない事柄については静に申しつけておく旨の記載等があり、乃木自刃後も妻の静が生存することを前提とした[106]。
乃木自刃に対する反応 [編集]

乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木を慕っていた迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである。」と述べて大きくため息をついた[107]。

また、乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。特に、ニューヨーク・タイムズは、日露戦争の従軍記者・リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された[108]。

乃木夫妻の葬儀は、大正元年(1912年)9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された[109]。

また、第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、『乃木大将と日本人(原題『Nogi』)』を著し故人を讃えた。
乃木神社の建立 [編集]

乃木の死去を受け、読売新聞のコラム『銀座より』では、乃木神社建立、乃木邸の保存、新坂の乃木坂への改称等を希望するとの意見が示された。そして、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された[110]。
略年譜 [編集]

以下、乃木の略年譜を示す[111]。

* 嘉永2年(1849年)12月11日 - 誕生
* 安政5年(1858年)- 長府に帰郷。
* 慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。
* 明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。名を希典と改める。
* 明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。この際、軍旗を西郷軍に奪われた(軍旗を参照)。
* 明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。
* 明治25年(1892年) - 歩兵第5旅団長を辞任して2月に休職となる。12月に歩兵第1旅団長の就任ため復職。
* 明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。
* 明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)として台湾出兵に参加。
* 明治29年(1896年) - 台湾総督に就任。母の壽子も台湾に来るが、すぐマラリアに罹患し、病没した[112]。
* 明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。
* 明治32年(1899年) - 第11師団の初代師団長(中将)に親補せられる。
* 明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻囲戦を指揮し、また奉天会戦に参加する。乃木勝典が金州南山で、乃木保典が203高地でそれぞれ戦死する。
* 明治40年(1907年) - 学習院院長として皇族及び華族子弟の教育に従事。
* 明治44年(1911年) - 7月1日に大英帝国のハイドパークで英国少年軍(ボーイスカウト)を閲兵。
* 大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園。
* 大正5年(1916年) - 裕仁親王の立太子礼に際して、正二位を追贈される。

栄典 [編集]

以下、乃木が受けた栄典(勲章等)について示す[113]。

* 明治11年(1878年)1月30日:勲四等
* 明治18年(1885年)4月7日:勲三等旭日中綬章
* 明治28年(1895年)8月20日:功三級金鵄勲章、旭日重光章、男爵
* 明治30年(1897年)6月26日:勲一等瑞宝章
* 明治37年(1904年)9月21日:伯爵
* 明治39年(1906年)4月1日:勲一等旭日桐花大綬章
* 明治39年(1906年)9月8日:ドイツ帝国からプール・ル・メリット勲章受領。
* 明治40年(1907年)4月16日:フランス政府からレジヨン・ドヌール勲章受領。
* 明治42年(1909年)4月28日:チリ政府から金製有功章を受領。
* 明治44年(1911年)10月25日:ルーマニア皇帝から勲章受領。
* 明治45年(1912年)5月10日:イギリスからグランド・クロス・オブ・ザ・ヴィクトリア勲章受領。
* 明治45年(1912年)6月5日:イギリスからバス勲章受領。

人物 [編集]
日露戦争における自責の念 [編集]

乃木は、日露戦争において多くの兵を失ったことに自責の念を感じていた。

乃木は、時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一名を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい。」と述べた[114]。

また、乃木は、東郷平八郎及び上村彦之丞とともに長野における戦役講演に招かれた。しかし乃木は、勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります。」と言って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまった[115]。
戦傷病者へのいたわり [編集]

乃木は、癈兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを癈兵院に寄贈した[116]。

そのため、癈兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。また、癈兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた[116][117]。

また、上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木あてに届き、乃木は喜んだという[118]
辻占売りの少年 [編集]
乃木大将と辻占売りの少年(旧乃木邸内)

少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金二円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[119]。
初対面の石原莞爾を歓待する。 [編集]
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少年時代の石原莞爾が、興味本位で紹介状も無く、いきなり乃木を訪ねた際に乃木は喜んで石原を家に招き入れた。石原も「乃木閣下ならば紹介状が無くても必ず会ってくれる」と確信して訪問していたようである。日露戦争の補給線などに関わる質問にも、地図を持ち出して来て丁寧に答え、暇乞いをしようとする石原に夕飯を食べてゆくよう勧めた。石原には白米の飯を出されたが、「閣下と同じ物を食べたいのです」と乃木が日露戦争時から食べていた稗飯をせがんだ。石原は稗飯のあまりの味のなさには閉口したが、それでもぜんぶ平らげて乃木を感心させた。
楠木正成に対する尊敬 [編集]
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乃木はまた、楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は楠公を見習ったものである。乃木は楠公に関する書物をできる限り集め考究した。ちなみに楠公が正行と別れた大阪府島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠公について次のような歌を詠んでいる。

* いたづらに立ち茂りなば楠の木もいかでかほりを世にとどむべき
* 根も幹ものこらず朽果てし楠の薫りの高くもあるかな

国史学者笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている。

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