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帝王学研究所コミュの(理想と活力)理想があれば手なり足なりに現れる〜新渡戸稲造〜

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(理想と活力)理想があれば手なり足なりに現れる〜新渡戸稲造〜

 今朝は、友人の自宅新築のために、気持ちをひとつにする「地鎮祭」がありました。転機も良く、良いお祭りができました。
 「野口もこんなことをするのか・・・?」と言われる方もいると思いますが、私は実は、「地鎮祭」に大きな意味(機会)があると思っています。

 施主、設計、工事+親族まで集う儀式、私はこの儀式で、集まり家の完成を願い、気持ちをひとつにして、事(建築)に当たる協働意識の始まりの日、そして新たな土地(地域)に入るご挨拶もあると思います。

 私は、我家の土地に、親子で自宅を建設したのですが、「今後もこの地域でお世話になります」気持ちを込めて、やはり家族だけで「地鎮祭」をしました。自分の気持ちを引き締める意味があると思っています。

 アメリカで、大きな倒産がありました。たぶん、理想を持ち、自信を持ち、進めたきたサブプライムローンの事業、現実社会合わなかった現実の審判が、社会から下されました。
 人は、様々な夢を持っています。その夢を、「志」とか「理想」とか、言うこともありますが、理想の無い人間は、気迫を感じれないように思います。理想に大きい、小さいという人がいますが、本人とれば大小よりも、ある事の意味が大事と考えます。

 明治・大正期の賢人の一人、新渡戸稲造氏の教示を集めた「自警録」の一節に、理想をテーマにした者がありました。
 
(本  文)
 人はなんで活きているかというに、理想で活きている。ただ呼吸するだけならパンだけでもよい。この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならない。・・・われわれのすべての働きは理想を実現せんがためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きているいことは存在というだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することなりはせぬか。(中略)


 人それぞれ、理想(目標)は違うと思いますが、地位か、金持ちか、行き方か、・・・、この年になると、人それそれの理想が違うと言うことを感じます。人生は、比較できないのだなと思いますが、前述の人をひきつける気迫、魅力を、あまり感じない人もいます。
 新渡戸氏は、教育者を例えて「理想の実現は何処」で、次のように表現しています。

(本  文)
 むかしの立派なる教育者貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等はみな塾を開いたことがあるが、今日のごとく何百人の生徒をあつめて演説講義したものではない。藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。人そのものが教育である。
 人が真に教育者なら笑っても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手、一投足、すべて教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充ち満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。地位を選んで大臣、局長、課長にならねばならぬということはない。文教の職にあたった政治家は、たくさんあるけれども、なんらの功績を残さぬ者が多い。(中略)

 理想があれば手なり足なりに現れる。・・・ゆえに理想があるなら、つねにここが理想の実行するところだと考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。(中略)


 姿そのもの、生き方そのものが、教育であり。ある域に達した人は、日々の生活そのものが教育者であれば教育に、政治家であれば政治その者になっていると説いています。
 論語に、30才で立ち、40才で迷わず、50才で天命を知り、60才で聞き耳を持ち、70才で矩(法)を越えず(違わず)とあります。中江藤樹、熊沢蕃山なる偉人は、日々の生活そのものが、周りへ教示だったのだと思います。

>理想があれば手なり足なりに現れる

 まだまだ、先人の境地に至ったいません。「欲と善行」をどうバランス良く活きるかのヒントは、、活きた学問にしか気付きません。
 一日三省を心がけ、偉人たちを目標にして、古典を読み、少しでも近づけるように、日々実践をして生きたいと思います。

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