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吉村昭コミュの作品を読んで行動した事

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氏の作品に、多大なる影響を受けました。
でも、それは絶対に私だけではないハズ!と思いトピック立てさせて頂きました。皆様それぞれの影響の結果を伺えれば幸いです。
私の場合は至極単純。「現場へ行ってみた」「現場の方と話した」です。
きっと長文でくどくなるので少しづつ。

・高熱随道→どうしても作品の現場に行きたく強引なコネを使って社内見学のコースで黒部ダムと発電所内部を見学させてもらいました。
そうすると、あの砲雪崩事故のあった場所に今でもきちんと塚がありました。奥鐘山の位置も確認。案内して下さった社員の方々も氏の作品をとてもよく御存知で、今まで以上に作品に説得力と重みを感じたのでした。

コメント(49)

>タカホさん
北海道!凄いわ。羆嵐の舞台も分かりそうでわからなそう。
間宮林蔵のたどったエトロフの辺りも行ってみたいです。
「高熱隧道」
86年の秋、奥鐘山西壁を登りにいったとき、日電歩道から志合谷を下りました。つづら折りの道の途中何カ所か地下へつながるトンネルの入り口があります。道がとぎれ急な斜面を右往左往してやっと黒部川の河床に下り、志合谷を振り返ると黒々と窓を開けたコンクリートの構造物が見えます。「ああ、これか!」構造物の背後に生い茂る草木の上に二階分の建物を想像で重ねてみました。反転し奥鐘山を振り返ると、二階分の建物が作業員ごと「ほう雪崩」れで飛ばされた距離は信じがたいものがあります。一緒に行った仲間3人も高熱隧道を読んでおり、感慨深げでした。

88年の春、剣岳から北仙人尾根〜折尾谷〜日電歩道〜志合谷でふたたび奥鐘山西壁までたどりつきました。
志合谷のところどころに前年行われたほう雪崩れ観測用の測定装置が設置してありました。このときは天気が悪く、三日ほど岩小屋で天候待ちをした後断念。黒部川沿いに欅平に行くほうが早いのですが黒部川が増水したので、泣く泣く志合谷を登りかえしました。

みぞれ降るなか足下ばかり見つめて雪面を登っていると、「どどーーん」雷のような音が聞こえます。はっとして見上げると、志合谷のはるか上でブロック雪崩れの飛沫が投網のように空中に広がりはじめていました。幸い雪崩れの中心線からは外れていましたが、逃げる間もなく大小の雪のブロックが転がってきます。腹をくくって1m台の大きなブロックだけをよけ、小さな固まりは体に当たるままにしてなんとかやり過ごしました。時間にして10〜20秒。やばかった!「高熱隧道」の読者の中でも志合谷で雪崩れを体験した人は数少ないと思いますw


「戦艦武蔵」「戦艦武蔵ノート」
近所の定食屋さんの常連に武蔵の見張り員をされていた老人がいらっしゃいました。3〜4年前に亡くなられましたが、生前は何度も酒飲みがてら話を伺いました。古い常連さんは「30年近くYさんの戦争話聞かされているから勘弁してくれ」と言ってましたがw 引っ越して来たばかりの私にとっては貴重な生き証人の話ですから、あれやこれやと伺ったものです。今思えば、ちゃんとテープでも取っておけばよかったなあと後悔しています。
Yさんは武蔵会の幹事もしておられ、吉村昭氏の取材の最初の時期、近所の神社に戦友と集まって取材を受けたとのこと。Yさんの手記をコピーさせていただいたものが形見となっています。
平成元年に関東に引っ越してきてすぐの時に、横須賀の記念艦三笠に行きました。その暫らく前に「海の史劇」を呼んで印象深かったのと、その三笠の実物が今も存在するのを、その頃初めて知りましたので。
今年の5月末にも、それ以来の三笠に行って日本海海戦100周年の記念イベントを見てきました。自衛艦の一般公開以外は、何ら日本海海戦にに結びつかないような催しばかりで、単にお祭として楽しんでいる雰囲気の家族連れの方々で賑わっていましたが、そうである事が、逆に今という歴史の流れを感じさせてくれました。
新刊ではないですが、新潮文庫になったばかりの「大黒屋光太夫」を読みました。
江戸期の漂流話ではもっとも有名なもので、日本に帰還した光太夫から聞き取った蘭学者により「北槎聞略」として詳細に記録され(岩波文庫)、かつて井上靖「おろしや国酔夢譚」で小説化され、映画化もされています(緒方拳主演)。しかし最近になって新史料がいくつか見つかり、特に日本帰還後のようすなどが判明したので、井上氏と吉村氏のを読み比べると帰還後の設定が全く違います。
例によって史料を博捜して精密に書き上げた吉村氏の漂流文学の代表作がまた一つ増えました。
>下足番さん
凄い!下足番さんは登山家なのでしょうか?以前、私も日電歩道に行きたいと思って登山が趣味の友人のお母さまに相談したら「あそこは上級者が行くところよ。あんたらみたいに山の経験がない者は無理!先ず剣岳何度か登くらいしなきゃ無理よ。山を甘く見ないの」と一蹴され、やむなく断念したのでした。以前現地で案内してくれていた方に日電歩道の話をしたら写真を見せてくれて、「道幅がないからね。今年も二人死んだし」と、日常ごとの様に言っていて、相当ビビってしまった記憶があります。 
だからあそこへ行かれた下足番さんは凄いなと思ってしまいました。しかも奥鐘山にも登られたなんて!山に登るという感覚がない私にはかなりの衝撃です。 感動しました。ありがとうございます。

ポポフ中将さん、三笠が現存しているなど、私も知りませんでした。いつでも見られるのでしょうか?それとも期限があるものなのかしら?申し込みが必要ですか?チャンスがあったら是非見てみたいです。

あと川さん、大黒屋光太夫、選に漏れず大変興味深い作品でした。間宮林蔵ともちょっとかぶったりして以前から興味があり、楽しみでした。新潮の新書というので「漂流着の魅力」という著書も大変面白かったです。
あの中では光太夫と「若宮丸」の水夫達を代表にとりあげていて、また漂流全般に触れていて、初めて「日本の海洋文学」というものを意識しました。この中で氏が取り上げられていた若宮丸漂流を記述した「環海異聞」に興味ひかれましたが、川さんはこちらも読まれましたか?
「北槎聞略」は現代語で書かれているのでしょうか?岩波から出版されているならばもしかしたら「環海異聞」もあるかもしれませんね。
読みやすくなっているならば是非この辺の海洋文学というのも読んでみたいです。
n skenさん
「漂流者の魅力」も読みました!小説化されていない若宮丸の話は興味深かったです。「環海異聞」は岩波文庫にはなっていないと思います。雄松堂出版から出版されてるようですが私は未読です。
「北槎聞略」は史料そのもので現代語訳ではありませんが、江戸時代の書き言葉なので、そう難しくはありませんよ。「大黒屋」読んだあとだと、史料の細かいところまで話がわかり興味深いと思います。漂流に関する本文は50頁ほどで、あとはロシアの政治・経済・文化などに関して項目ごとの聞き書きや、ロシアから携帯した物品などの絵が収録されていますので、「大黒屋光太夫」を読まれた方は感銘を受けると思います。
川さん、ありがとうゴザイマス。私には今、旬な話題でありがたいです。
嗚呼読みたくてたまらない。「大黒屋光太夫」はかなりドラマ性が強くて勢いがあって、読みごたえありましたよね。
史料でも関係著書なら目を通してみたくなります。「環海異聞」も「北槎聞略」も探してみます。
海の史劇(わし、小学校6年のときに読んだ早熟者です。)と言えば、世界で最初に実戦で海上から無線を使ったとされる「信濃丸」。
意外と知られていないのですが、この船はその後も永く活躍し、太平洋戦争でも生き残ります。
しかも、戦後はソ連からの引き揚げ船としてナホトカ舞鶴間を何度も往復しているんですよ。
吉村先生、このへんの話を書いてくれはらへんやろか。
「信濃丸」ですが、
漫画家の水木しげるは太平洋戦争中信濃丸に乗って前線に向かったとマンガで書いています。

「今まで見たことも無いボロ船」で「舷側をいじってみたらポロリととれた」そうです。

乗組員の苦闘とか、エピソードも多そうで長編になりそうですね。
「間宮林蔵」を読んで間宮林蔵さんの
お墓参りに行ってきました!
これも「行動」のうちに入るかな?
もう十数年前のことですが、「羆嵐」の舞台になった苫前町三毛別に行ったことがあります。事件を記した石碑と、慰霊碑が建っていて、谷筋に沿ってまだ農家が数件残っていました。真夏でしたが、現地が小説を読んで頭に描いた情景とあまりに一致していたので、道ばたから羆が飛び出してきそうな錯覚を憶えました。この辺に氷橋が架かっていて、この辺に最初の犠牲者が出た家が建っていて、こっちの斜面に羆が登っていったあとがあったんだろうなと、手に取るように分り、あらためて作者の綿密な取材ぶりに驚いた覚えがあります。
「破船」を読んで、
毎日米を炊くようになりました。

そして一人で
「なんと上品な甘さよ、こんな旨いものは食うたことがない」とか、
「硬い米などたいてしまって申し訳ないのう」とか、
「あしたこそは(魚を)捕らえてみせるぞ」とか、
「ちょんまげちょんまげちょんまげマーチッッッ♪」とか、
そんなことを考えながらメシを食うクセがつきました。

即席ラーメンを炊くコンロの火を眺めながら、
「今日もお船様は来んのう」とか考えるのも好きです。
これじゃあ行動ではなくて妄想ですねハイ分かってます生きててすみません。

※あとバイトの給料日を「お船様到来」って呼んでたなあ。
高熱隧道の現場に行かれた方。凄いです。羨ましいです。

私がしたことは、非常にささやかですが…
宇和島の「丸水」で鯛めしを食べました。ハイ。
ところで、宇和島にあるという名もないうどん屋はどこにあるんでしょうね?
先日の帰省で『熊撃ち』中の「安彦」の舞台となった、
王子製紙株式会社千歳第一発電所の敷地を見てきました。

見てきたといっても内部を見学したわけではなく、
敷地に入ったというだけです。夜分ということもあり、
「クマ出没注意」の古びた看板に恐怖が募りましたね。

『羆嵐』の舞台である苫前は母の実家に近い町なので、
近いうちに「三毛別」こと三渓を訪れてみようと思ってます。
正直言って、怖いですが^^;
そういえば、
『赤い人』の舞台ともなった月形町にも行ってきました。
時間切れで樺戸集治監の歴史を展示している樺戸博物館には
入れませんでしたが、二代目の本庁舎は見物できました。
ここも是非、次回は中に入ってみたいですね。
>abcさん

わかります。

私の場合、変な連想回路が出来てしまい・・・浪人生の頃に『破獄』を読んで以来・・・「味噌汁」を見ると「ボルト」「手錠」を連想してしまうようになってしまいました。

電車に乗った時は、車両の間を通る人がドアを閉める閉めないを観て、その度に「ドアを閉めるか閉めないか」だけでその人物の生い立ち、性格までつい想像してしまう吉村先生を思い出し、一人でニコニコしてしまいます(無気味)
>はぐれ刑事専務派さん

いい本を読むと、妄想がパワーアップして素敵ですよね。
自分は最近、長英逃亡でヤバかったです。

妄想と現実の隙間で高野長英になりきってしまうのですが、
妄想の中のオレ、強すぎです。追っ手をガシガシ蹴散らします(たまにビーム出すし)。
もっと真面目に読書を楽しめるようになりたいです。
>abcさん
長英逃亡、私もメチャメチャ小説の中に入り込みましたよ。私も長英と一緒に逃げてました(笑)長英逃亡は最高級の娯楽小説だと思います!

いつか、何年かかけて長英逃亡の足跡を辿る旅がしたいです。
>ちめさん

なるほど、って感じです。
自分の場合は自身が長英になりきっていたので、
次回の妄想では長英と連れ立って逃げてみます。

てか、ここまで病んだ妄想をするのは自分ぐらいかとおもっていましたが、
ちめさんといいはぐれ刑事専務派さんといい、
吉村ファンって妄想が好きなんスかね?

自分が吉村昭にハマったのは、オヤジに借りた「羆」がキッカケなんスけど、
オヤジも吉村昭の本から影響を受けているみたいなんスよ。
で、親父の場合もその影響が、バッチリ行動に発露してるんスよ。

例えば、親父がオレに「この仕事はどうだ?」みたいに話しかけてくると、
その職種からはたいてい吉村昭の匂いがするんスよ。

親父「お前な、いつまでもバイトだけってわけにいかんだろ」
オレ「なんかウメー仕事あんの?」
親父「マタギなんていい仕事だと思わんか?」
オレ「いきなりムチャなこと言ってんじゃねぇ!シャイニングフィンガー!」
親父「させるか!円月殺法!!」

オヤジにも妄想壁あるんスよね。
ドキュメンタリーをテレビでよく見るようになりました。
現実こそがドラマなんですよね。
でもテレビは小説よりも情報量が圧倒的に少ないですね。事実の細かいところまで分からず、イメージや印象だけで片付けようとする。
「プロジェクトX」には吉村作品をネタにしたものも多いけど、吉村さん本人はどう思っていたんでしょうか。
南南東KO太郎さま 親子で楽しすぎます! 吉村さん作品
は家にどれだけあるか?分からないくらい読みましたが・・
長崎に行っても出島を訪ねるくらいしかしていません涙
ふぉんしいほるとの娘 大黒屋光太夫(これはサインをいただきました) 
赤い人・・印象深い作品を読み返し死顔 回り灯籠と 昨年はひとりで『追悼 吉村昭さん』をやってました
mixi初心者です よろしくお願いします手(チョキ) 
吉村さんは事実から小説を構成する作家だが、自分に都合のいい事実だけを取り上げるようなことはしない人だと思う。現実の出来事というのは決していわゆる「ドラマチック」なものばかりではなく、むしろ綺麗に善悪で割り切れるような展開に水を差すような事実もたくさん伏在しているものだ。吉村氏はそういう「都合の悪い」事実もきちんと取り上げようとしている。事実こそがドラマであるという信念を持って仕事しているということだと思う。
 そんな氏の態度に感銘を受ける。
高熱隧道に行って来ました。関西電力の黒部ルート見学会です。オラのPageにフォトアルバムでアップしましたので良かったらご覧ください。
>銀座のヤスさん
うわ、これはおもしろそうだ!
あとでじっくり拝見させていただきます。
(いまから娘を風呂に入れなきゃならないので……笑)
>銀座のヤス さん

写真すべて拝見しました。素敵な写真ですね!!!
立山の美しさにため息が出ましたし、高熱隋道の現場の写真は作品の情景が目に浮かぶようで、とても面白かったです。写真と小さなコメントだけで、自分も旅を楽しんだような気分になれるなんて…。
私もはげしく行きたくなってきました。
DickHeadさん、つたない写真を全て見ていただけて光栄です。今度は長崎造船所でも行きたいものです。
 銀座のヤス さんへ
 写真拝見しました。私も関電の見学会に10年ほど前に参加したのですが、懐かしく思い出しました。
 高熱隧道のあの現場は当時と比べ温度が下がったと聞きましたが、凄く感動をしたのを覚えています。
 見学会の倍率は高いのでなかなか再度参加するのは難しいですが、又行きたくなりました。
 紅葉の季節もいいでしょうね。
 素敵な写真ありがとうございました。
 天狗党などが辿った道を歩くのも趣があるかも知れませんね。
ひょうもんかめさん、今は倍率もずいぶん下がりましたよ。応募の仕方も最初の頃は往復ハガキでしたが、今は普通のハガキで、かなり早く当選が判ります。
羆嵐の現場に行ってきました。

実際に事件があったお宅を再現し、苫前町では一応観光スポットのような場所になっていますが、手前100mほどは砂利道、観光客は我々以外誰もおらず、寂しい場所でした。

実際の現場とあって熊の造形物もあったりするのですが、写真など撮ってはいけないような雰囲気です。正直今にも本当に熊が出てきそうで怖かったです。

町まで車で20〜30分かかる場所ですから、当時はどれほどだったか。あの場所しか割り当てられなかった?方たちの苦労が忍ばれました。
『海軍乙事件』の舞台で

パラオ共和国にある元日本海軍の水上基地跡を訪れました。

画像はスベリと呼ばれる飛行艇陸揚げ用のスロープで70年前に作られたものが残っています。
水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しており
九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。
近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。

小説では、この場所から、当時の連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将ら座乗の
二式大艇、二機が(当初の予定では三機)転進を図るべく、空襲警報が鳴る
混乱の中、準備もそこそこに大慌てで離水し、フィリピンのダバオ基地へ向け飛び立ちました。

飛行艇は低気圧に巻き込まれ行方不明になりました。
古賀峯一大将は機上の人なり、殉職したとされるのが史実ですが
実は嘘で、パラオの司令部で割腹したという説もあります。

あくまで私、個人の見解ですが、たとえば
「山本五十六は生きていた」と主張する人がいるように、この手の話に生存説は付き物です。
歴史上著名な人物とは、簡単には死を認めてもらえないのではないでしょうか。


現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く感じられます。
昨年10月に山口県周防大島にある「陸奥記念館」に行きました。爆沈から27年の時を経て引き揚げられた遺品・装備の数々は将兵の無念を語るかのようでした。

柱島泊地もよく見えました。
アメリカ彦蔵、大黒屋光太夫、漂流を読んだことで何も恐れず外へ飛び出したい気持ちになり、春からの留学を後押ししてくれました。

ジョセフ彦のようにたくましくなりたいと思っています。
この夏休みに、四国周遊旅行に行きました。最後の日にに香川県の小豆島に行くことになり、高松からフェリーに乗り土庄港に上陸。人気のエンジェルロードに向かおうと地図をチェックしていたら、尾崎放哉記念館というのがすぐ近くにあるのに気が付きました。この作家の名前は吉村さんの小説で読んだことがあると思い出し、行ってみることにしました。
小説は「海も暮れきる」です。尾崎放哉は自らの最期を海の見える場所で過ごしたいと考え、海の見える寺の一角に住んでいたということですが、その庵が記念館となっているようです。彼の選んだ地は、瀬戸内の中でも温暖で気候の良い、この小豆島だったのかと、いまさらながらに納得しました。

小説の中では、地元の人にはひどく嫌われたように描かれていましたが、こうして街おこしの一角として記念館になっているのを見ると、人の一生というのは同時代だけでは判断できないところがあるなと感じました。

http://www2.netwave.or.jp/~hosai/index.htm

ただ、行ったのが水曜日で館は休館日、中を見ることはできませんでした。それでも、庵の佇まいと海との距離感を感じることはでき、小説の情景を思い浮かべることができました。

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