ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

京都を楽しむ会(^O^)コミュの京都に生きた絵師?(^O^)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
そのころは仏画や 肖像画を多く描いてましたが、30代の後半に 上洛して画技を磨き上げました(^O^)ぴかぴか(新しい)
彼は雪舟五代を称し、『雲谷等顔』とあらそいますが 『等顔』が雪舟の「山水長巻」を入手したためにやぶれ、当時 名声のたかい『狩野永徳』に対抗しようとしました(^O^)
実際には、『等伯』は 『狩野永徳』より認められ そのため『永徳』は、『等伯』に負けた悔しさと 心労がたたり、亡くなってしまうのです(>_<)
『豊臣秀吉』が、亡き『棄丸(すてまる)』の菩提を弔うために建てた 祥雲寺(しょううんじ)の障壁面を描くように命ぜられた『等伯』は、一門をあげ 精魂を尽くし 描き上げました(^O^)ぴかぴか(新しい)
その一部が、智積院大書院(ちしゃくいん だいしょいん)にのこる「楓(かえで)」です(^O^)人差し指
大和絵の基礎にいたっては 狩野派などの技法を取り入れます(^O^)
金地院書院の「老松」は、智積院より 後の作品で 円熟した孤独さを感じさせます(^O^)
『等伯』より若く 京都で 名をあげた『狩野永徳』は、従来の障壁面が水墨画のながれをひいて 画家の個性を より多く表すのに対し、装飾性を重視し 濃厚な彩色を 画面いっぱいに展開しましたo(^-^)o
いわゆる“濃絵(だみえ=障壁画のうち、水墨画で描いたもの)”であり、当時の大衆性と適合しますo(^-^)o
祖父『狩野元信』が、狩野派の将来を担うものと期待した『永徳』は、24歳の時、『三好義継(みよし よしつぐ)』が建てた大徳寺の聚光院の襖絵を 父とともに制作し、四季花鳥を16面に雄大に描いていますo(^-^)o
人は これを“粗にして草”と評しましたわーい(嬉しい顔)
つまり、外見の華やかさに比して その内容が空虚で、精神的な深みに乏しい という意味ですわーい(嬉しい顔)
しかし それは禅的なものから装飾画への移行を示した 時代の要求でもありましたわーい(嬉しい顔)
こうして『永徳』は、御用絵師としての栄光を勝ち取りますわーい(嬉しい顔)手(チョキ)
その後、狩野派が主流を占め 『永徳』の高弟で その養子となった『山楽』と、その子『山雪』、『永徳』の孫の『探幽』『尚信』らは、安土桃山時代〜江戸初期にかけて活躍しますわーい(嬉しい顔)
狩野派は、江戸狩野と 京狩野に分かれますわーい(嬉しい顔)
しかし、『長谷川等伯』に 負けますが 狩野派は、御用絵師としての地位は ぐらつきますが 『等伯』は、息子が亡くなり 『等伯』も亡くなり、衰退し 再び、狩野派が 御用絵師に返り咲きますわーい(嬉しい顔)

コメント(3)

狩野ナントカサマ←オオスギルシ( ・_・;) たちの絵は、色が綺麗(^O^)
中国っぽい色彩で、鳳凰とか、すご〜く綺麗だと思うでしゅ。

探幽サマの雲龍図は迫力ありましゅよ。( ̄0 ̄)←リュウズキ

長谷川等伯も、すご〜く綺麗でスキだなぁ……
長谷川サマの描いた利休なんか上品で(^O^)……は〜いいなぁ
おっ、利休の姿を描いた作品を 知ってるですか(・◇・)?
利休は、等伯の作品を 気に入ってましたからね(^O^)人差し指
狩野元信(永徳のじいちゃん)(^O^)
狩野松栄(永徳のとおちゃん)(^O^)
簡単な説明ですね(^O^)
永徳の子供、養子は ちょっと ややこしい(^_^;)
ついでに、光琳派についても 補足(^_^;)人差し指
正式には、“宗達光琳派”って 言います(^O^)ぴかぴか(新しい)
俵屋宗達は、琳派の祖(^O^)
尾形光琳は、呉服屋の息子で その弟は 尾形幹山って言う 陶芸家です(^O^)人差し指
菩提寺は、千家・裏千家の東側にある お寺ですよ(^O^)人差し指

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

京都を楽しむ会(^O^) 更新情報

京都を楽しむ会(^O^)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング