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京都を楽しむ会(^O^)コミュの聚楽第と御土居?(^O^)

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山崎の合戦の後、近畿周辺の諸将を征服した秀吉が入京したのは、小牧・長久手の戦いの翌年 1585(天正13)年のことです(^O^)人差し指
秀吉は、『前田玄以(まえだ げんい)』を所司代に任命して、5年間で 奈良の大仏より大きな大仏を 東山に造ることを命じます(^O^)人差し指
これを口実に、刀狩りが行われ この前後に検地や身分制度の確立など、集権的体制が勧められたのは 皆さんの知っている通りです(^O^)人差し指
京都を訪れる人々の大半は、三条大橋を渡るそうです(^O^)
東海道五十三次の終点であることは、有名ですね(^O^)手(パー)
現在は、三条街道(鴨川を渡った東側)と三条通に呼び名が変わります(^O^)ぴかぴか(新しい)
橋にある擬宝珠(ぎぼし)の紫銅(からがね)には、1ヶ所を除き こんなことが記載されてます(^O^)
「洛陽三条之橋至後 代化度往還人磐石 之礎入地五尋切石 之柱六十三本蓋於 日城石柱濫…」
この橋は、従来の人を済度(さいど)し 橋脚(きょうきゃく)の石柱は63本、地下五尋(ひろ)〔約9メートル〕にはいる 日本石柱のはじめだ(^O^)
と刻んでます(^O^)メモ
当時の橋の全長は101メートル(現在74メートル)、幅7メートル(現在15.5メートル)、紫銅(からがね)には、建設の意気込みを刻んでます(^O^)人差し指
円柱の石柱は、現在は橋畔や京都博物館に保存されていますが、なかでも 平安神宮の飛石に利用されています(^O^)
聚楽第は、秀吉が京都を封建都市として育成するための中心として建てたもので、1588(天正15)年に完成しました(^O^)
同年、九州征伐から戻った秀吉は 天皇・公卿を 聚楽第に招き一大盛宴を行い 引出物(ひきでもの)として大判・小判を出したそうです(」゜□゜)」
懐柔と示威は次第に進み、1592(天正19)年 秀吉は、関白職を 養子『豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)』に譲り、秀次は聚楽第に入りますo(^-^)oぴかぴか(新しい)
はじめ秀吉は 子供がいなかったので、御陽成(ごようぜい)天皇の弟『智仁(ともひと)親王〔桂離宮の建設者〕』を養子としたのですが、『淀殿』が、『棄丸(すてまる=鶴松)を生んだので 親王は旧に復します(^O^)あせあせ(飛び散る汗) ところが『鶴松』が5歳で亡くなるので、迎えたのが姉の子供である『秀次』です(^O^)

コメント(2)

秀次は、殺生関白とゆわれましたね


秀吉側の創作でしゅかね

秀吉は、秀次に継がせたあたりが一番絶頂期だったのかも……アトツギ問題は昔から繰り返されましたが、一度決めたものを覆すとたいていあかんくなってますね。
ですね(^O^)
つまり、我が子が 可愛いんですね(^O^)あせあせ(飛び散る汗)

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