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京都の医療・介護・福祉情報コミュの「佐々木蔵之介の弟」です─佐々木酒造

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わーい(嬉しい顔)私は男3人兄弟の末っ子で、まさか酒屋を継ぐことになるとは思っておりませんでした。上の兄は「飲んで無くなってしまうものを造るのはいやだ」と言って建築の道に進んでしまいました。
 二番目の兄が跡を継ぐべくして、神戸大学の農学部に行ってバイオテクノロジーの研究や酒米の研究っていうテーマで卒論書いたりして、着々と酒造家の道を歩んでいたのですが、突然「俳優になる」と言って出ていってしまいました。
 いつも自己紹介のところで佐々木酒造です、と言ってもあまり皆さんご存じない感じなのですが、最近は俳優の佐々木蔵之介の弟です、というと結構知ってくださる方があって、うれしいような複雑な気分です。
 まあ、そんなことで、大学では中国文学科だった私が嫌々酒屋を継ぐことになったわけなんです。

 うちの蔵は二条城の北側あたりにあるのですが、皆さん、京都の造り酒屋というと真っ先に京都の南の伏見を連想されることと思います。もちろんそれはその通りで、現在の伏見区ではあの狭い範囲に20軒ほどの蔵元が密集していまして、全国的に見ても灘に次ぐ全国第二位の生産量を誇る酒処として全国に知られています。
 ところが、京都の造り酒屋の起源は洛中、旧京都市内なんです。

 昔の資料などを見ていると、私どもの蔵の創業が明治26年で、その時点で131軒の蔵元がありました。この頃は伏見よりも洛中の方が蔵元の数も生産量も多かったんです。
 もっとさかのぼれば、室町中期には300軒あまりと、もちろん日本最大の酒処だったわけです。そうなった理由は、室町時代には全国諸国の貢米が三条室町の米揚に集まって、その米を使ってお酒を造らせて、この頃に確立した今で言う「酒税」を、出来上がったお酒に対して徴収して幕府の財源に充てていたということで、幕府が酒屋の発展を助成した、という背景もあったようです。

 伏見の酒蔵さんは大手が多いですが、それに対して洛中の蔵元では、家内制工業的な小さな蔵元が多くて、都での小さな市場でのシェアの食い合いをしていたわけですから、自然と淘汰されていって減っていき、いまはうちだけになってしまいました。

 まあ、洛中のように、ここまで強烈に減った地域も珍しいのですが、全国的に見ても昭和48年をピークに毎年少しずつ清酒の生産量は減ってきて、現在は蔵元の数も生産量も半減してしまっています。今、全国では1500蔵ほどの蔵元がありますが、今後増える、ということは考えられない厳しい業種であることは確かです。
http://www.kyoto-minpo.net/sake/archives/2007/12/post_54.php

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