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Bar.の亭主コミュの 再会・其の伍

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一九九五年九月十一日 月曜日
酒場を訪れるなら、やはり、口開けがい
い。陽の沈みかけたトワイライト・タイム。
灯の点ったばかりの店先の看板。
重そうな木の扉を開くと、一九三十年代の
ビリー・ホリデーが『サマー・タイム』を熱
唱していた。騒音と競争の国から逃れてきた
私は、外界の時代の流れに置き去りにされ
て、一瞬時計が止まってしまったような錯覚
に陥った。
私が目の前のずしりと構えた一枚板のカウ
ンターに近寄ると、バーテンダーが一人やっ
て来た。夜の始まりを告げる一杯目の酒。私
はバーテンダーにギムレットを注文した。軽
やかなシェークの音が響きわたり、目の前の
アンティクな薄手のカクテル・グラスに注が
れた。大きく一口すすぎ込んだ私に、心地よ
い酔いが訪れたのは、時計の針が動きだした
のと同じ頃だっただろうか。できる事なら、
このまま世間と、縁を切って、なすことな
く、時を売って、きどっていたいと私は思っ
た。 丁度、アーティー・ショーのソロか
ら、ビリー・ホリデーのボゥカルに変わった
頃、二杯目のギムレットを注文しようと思っ
た。その時だった、扉の内側に、男が独り
立っているのにきずいたのは……。
顔は若々しいが、白髪のその男は、店内の
左右に目をやると、ゆっくりとカウンターに
歩み寄った。白髪の男の注文もギムレット
だった。しかし、男のギムレットと、私のギ
ムレットは明らかに違う物だった。バーテン
ダーが私に造った処方は、ゴードン・ドライ
・ジン、フレッシュ・ライム、それに、無色
に近い、瓶詰めのライムジュースを少々入れ
て、シェークした物だった。白く濁った混合
酒からは、無数の泡がはじけ、私の喉を鳴ら
した。しかし、白髪の男に出されたギムレッ
トは、プリマス・ジン、それに、ローズ社の
ライムジュース、それだけを使った物だっ
た。それは、薄い緑色に輝く、透明感のあ
る、鋭い刃物のような飲み物だった。
男はカクテル・グラスを持ち上げ、私に向
かって言った。
「これが本当のギムレットさ。これ以外は飲
めないね。」
「確かに美しい。しかし、私はさっぱりとし
て、口当たりのいい、こいつが好みなんで
す。」
「そうだな。うちの猫にも好き嫌いはあるも
のな。人間の味覚が画一的だとしたら、食べ
物も、酒も、文化として発達しなかっただろ
う。そういえば、俺の友人も時々、ギムレッ
トにビターなんかを入れて飲っていたっ
け。」
「難しい事は関係なく、ただ、旨いかどうか
ですよ。」
「貴方は酒呑みだね、酒呑みっていうのは、
飲んだ量や数で決まるんじゃないからね。」
「ただ、酔う為に飲んでるんじゃないって事
ですか。」
白髪の男は、しばらく答えなかったが、やが
て、ゆっくりと口を開いた。
「貴方、旨い酒に出会った時の喜びを知って
いるかい。」
「はい。でも、私は、そればかりのマニアに
はなりたくないです。酒の切れた生活も考え
たくないですけど、取りあえず、旨い酒があ
れば天国ですね。」
「旨い酒を飲むにはそれなりの場面っていう
物があるんだ。できる事なら酒はいつも美味
しく飲ることだ。あれこれ悩んだり、考えた
りしている時は飲らない方がいい。」
「だけど、嬉しい時の酒もあれば、哀しい時
涙する酒もありますよ。」
「そう、俺もそうだった。そして、今夜も本
当は、そのはずだった。」
男はそれっきり、口を開かなかった。
帰り際に男は、余分な勘定と伝言を頼んで
出ていった。
「もし、この店に、フィルと名乗る男がギム
レットを飲りに来たら、俺からだと、一杯出
してくれ。俺は今では、両頬の傷も消して、
名前も顔も昔に戻した、ただ、過ぎた時間は
戻すことが出来なかった。心残りは、もう一
度、二人で、ギムレットを飲りたかった事
だ。」
再会に失敗した男は、それ以来二度と、こ
の酒場を訪れる事はなかった。そして、私
は、二度と、会うことのない友人の影を追っ
て、来るはずのない酒場で、グラスを重ねて
いた。
私が三杯目のギムレットを注文しようとし
た時、バーテンダーから私に話しかけてき
た。
「夕べ、お客さんを訪ねて、男性の方がお見
えになりましたよ。」
「え、誰だい、身に覚えがないな。」
「さあ、この間お客さんが話していた方じゃ
ないですか。確か、沢村さんとか、おっ
しゃってましたよ。」
「そんな馬鹿な。」
私は笑って見せたが、バーテンダーの真面
目な顔を直視できず、目の焦点を失った。
昨日、九月十日は沢村昭文の命日だった。
私は、七年前の事故現場に行ってきた。そし
て、同じ日の十四年前、一九八一年の九月十
日にも、昭文はバイクで事故を起こしていた
事を知った。バイクは、ノーブレーキのまま
中央分離帯に衝突して、後部座席に乗ってい
た同級生の女の子が亡くなるという大事故
だったらしい。
私は、醒めた酔いを呼び戻そうと、一気に
ギムレットをあおるとスツールを立った。


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