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回復訳聖書コミュの回復訳で学ぶ聖書真理  神の言葉

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英語版回復訳を無料配布している 

http://www.biblesforamerica.org/

のサイト内で見つけた、回復訳を使って聖書真理を学ぶテキストをそのまま日本語化していきます。
iPhoneでもアプリでRecovery Versionで検索すると閲覧できます(英語)。

・神の言葉

・神

・神のエコノミー

・キリスト

・その霊

・永遠の命

・神聖な真理―実際

・人

・福音

・救い

・クリスチャンの経験

・信者たち

・召会―キリストのからだ

・王国

・新エルサレム


今回は「神の言葉」です。

コメント(53)

啓示録19:13
「彼は血に浸された衣をまとっている.また、彼の名は神の言と呼ばれる」

啓示録19:13ノート2
「神の言は、神の定義、説明、表現です。神の言としてのキリストは、ヨハネによる福音書では、神の選ばれた民に恵みとして命を分け与えますが(ヨハネ1:1、4、14)、ヨハネの啓示録で、彼は反逆の民の上に神の裁きを執行されます」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=66_19_13_0_2



ローマ10:8
「それでは何と言っていますか?『言葉はあなたに近い.あなたの口の中に、またあなたの心の中にある』.これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉です」

ローマ10:8ノート1
「ここの「言葉」と「キリスト」が、交互に使われているのは(6-7節)、この言葉がキリストであることを示しています。キリストは、天から下って来て肉体と成り、ハデス[陰府]から上って来て復活させられました。こうして、彼は生ける言、その霊と成り(エペソ6:17)、わたしたちの口の中、心の中にあるようになりました。それは、空気や息のように、わたしたちの中に取り入れることができます。彼は近く、便利です」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_10_8_0_1



以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<言葉の機能>

・主イエスについて証する

ヨハネ5:39
「あなたがたは1聖書を調べている.なぜなら、その中に永遠の命があると思っているからである.しかし聖書は、わたしについて証しするのである」

ヨハネ5:39ノート1
「『聖書を調べ』ることと、『わたしに来』る(40節)ことは、分けて考えられます。ユダヤの宗教徒たちは聖書を調べましたが、進んで主に来ようとはしませんでした。この二つを一緒にすべきです。聖書は主について証しをしていますから、聖書と主を引き離してはなりません。わたしたちは聖書に触れても、主に触れないかもしれません。主だけが、命を与えることができるのです」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_5_39_0_1


ルカ24:44
「イエスは彼らに言われた、『わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない』」

ルカ24:44ノート1
「モーセの律法、預言者の書、詩篇は、旧約聖書、すなわち「聖書全体」の三つの部分です(27節)。ここの救い主の言葉は、全旧約聖書は彼の啓示であり、彼はその中心と内容であることを明らかにしています」


http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=42_24_44_0_1


以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・救いへと至る知恵を得させる

第二テモテ3:15
「また幼い時から聖なる書に親しんできたことを、知っているからです.この聖なる書はあなたに、キリスト・イエスにある信仰を通して、救いへと至る知恵を得させることができるのです」

第二テモテ3:15ノート1
「テモテは新約の知識に加えて、幼い時から旧約の知識の良い土台も持っていました。彼は、神の言葉を供給する上で十分に成就され、装備されていました。また地方召会を顧みることだけでなく、召会が悪くなっていく衰退に対抗することでも、十分に装備されていました」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_15_0_1


以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・信者たちの霊の乳である

第一ペテロ2:2
「生まれたばかりの赤子のように、悪巧みのない言葉の乳を切に慕い求めなさい.それによって、あなたがたが成長して救いへと至るためです」

第一ペテロ2:2ノート1
「信者たちは再生を通して生まれ(1:3、23)、赤子となり、霊の乳で養われ、命の中で成長して、さらに進んだ救いへと至ることができます。そしてそれは神の建造のためです」

第一ペテロ2:2ノート2
「1節の『悪巧み』と対比。すなわち、偽りの目的がない、魂を養うこと以外のいかなる目あてもない」

第一ペテロ2:2ノート3
「ローマ人への手紙第12章1節で『理にかなった』と訳されたギリシャ語は、名詞の『言葉』から派生しているので、『言葉の』です。思いには(体と対照的に)、理性的な機能に属する意味があります。ですから、理性的な、論理的な、道理にかなったを意味します。言葉の乳は、体のための乳ではなく、魂、すなわち内なる存在のための乳です。それは神の言葉の中で伝達され、わたしたちの理性的な思いの理解を通して、わたしたちの知的な機能によって吸収されて、わたしたちの内なる人を養います」

第一ペテロ2:2ノート4
「成長することは、命の事柄であり、命の中の事柄です。わたしたちは再生を通して神聖な命を受けましたが、神の言葉の中で伝達される乳で養われることによって、この命の中で成長し、この命をもって成長する必要があります」






ヘブル5:12
「時間の上では、あなたがたは教える者であるはずなのに、神の言の初歩的な基本を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります.そして固い食物ではなく、乳を必要とする者になっています」

ヘブル5:12ノート3
「この節は、『教える者』や『教え』ることについて述べていますが、神の言葉を、養いのための乳や固い食物にたとえています。これは、マタイによる福音書第4章4節の主の言葉や、エレミヤ書第15章16節の預言者の言葉と符合します。パウロとペテロは神聖な言葉について、同じ観念を持っていました(?コリント3:2.?ペテロ2:2)」


http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=60_2_2_0_1

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=60_2_2_0_2

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=60_2_2_0_3

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=60_2_2_0_4


http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_5_12_0_3


先の書き込みでリンクを貼るのを忘れたのでまとめて貼りました。

以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・信者たちの命のパンとなる



マタイ4:4
「しかし、イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる』と書かれている」」

マタイ4:4ノート3
「この言葉は、主イエスが聖書の神の言葉を彼のパンとして取り、それによって生きておられたことを示します」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_4_4_0_3



第一テモテ4:6
「これらの事を兄弟たちの前に提示するなら、あなたはその信仰の言と、あなたが緊密に従ってきた良い教えの言に養われて、キリスト・イエスの良い奉仕者となります」

第一テモテ4:6ノート2
「あるいは、自分自身を養って。養われることは命の成長のためであって、命の事柄です。それは、単に教えられるという知識の事柄とは異なります。キリストを人に供給するには、まずわたしたち自身が、キリストに関する命の言葉で養われる必要があります」

第一テモテ4:6ノート4
「良い教えの言葉とは、信者たちを養い、成就し、強めるために、キリストの豊富を内容とし、伝達する甘い言葉です」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=54_4_6_0_2

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=54_4_6_0_4



以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・信者たちを完全にする



第二テモテ3:16
「聖書はすべて、神の息吹かれたものであり、人を教え、戒め、矯正し、義の中で訓練するのに益があります」

第二テモテ3:16ノート1
「あるいは、神の息吹かれたすべての聖書には益もあります。召会の衰退における死、腐敗、混乱に対抗するためには、第1章の基礎となっている永遠の命(1:1、10)、第2章で強調されている神聖な真理(2:15、18、25)、第3章で高く尊重されている聖書(3:14-17)、これらすべてが必要です。永遠の命は、死を飲み尽くすだけでなく、命の供給を与えます。神聖な真理は、腐敗のむなしさを、すべての神聖な豊富の実際に置き換えます。聖書は、混乱を除き去るだけでなく、神聖な光と啓示を与えます。ですから使徒は本書で、これら三つの事柄を強調したのです」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_16_0_1


第二テモテ3:16ノート3
「叱責、論破」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_16_0_3


第二テモテ3:16ノート4
「間違っているものを正しくし、人を正しい道へ戻し、真っすぐな状態に回復する」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_16_0_4


第二テモテ3:16ノート5
「義にしたがった訓練、あるいは懲らしめ。義の要素と状況の中で訓練すること、あるいは懲らしめること」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_16_0_5



第二テモテ3:17
「それは、神の人があらゆる良いわざのために十分に装備されて、完全な者になるためです」

第二テモテ3:17ノート2
「資格において完全で申し分のない」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_17_0_2


第二テモテ3:17ノート3
「あるいは、支度した、備えられた、準備された」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=55_3_17_0_3




以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<御言葉を受け取る>

ルカ24:45
「それから、イエスは彼らの思いを開いて、彼らが聖書を理解できるようにされた」

ルカ24:45ノート1
「聖書を理解するには、わたしたちの思いが霊なる主によって、彼の照らしを通して(エペソ1:18)開かれる必要があることを示しています」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=42_24_45_0_1


以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
きのうの書き込みに

・理解をもって

という小見出しが抜けていました。すみません。
・知恵と啓示の霊によって



エペソ1:17
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の御父が、知恵とd啓示の霊をあなたがたに与えて、あなたがたに彼を十分に認識させ」

エペソ1:17ノート3
「ここの霊は、神の霊が内住しているわたしたちの再生された霊であるに違いありません。そのような霊を、神はわたしたちに与えておられます。それは、わたしたちが知恵と啓示を持って、神と彼のエコノミーを知るためです」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_1_17_0_3


エペソ1:17ノート4
「知恵は、わたしたちの霊の中にあり、それによってわたしたちは神の奥義を知ります。啓示は、神の霊に属するもので、おおいを開いてわたしたちにビジョンを見せます。わたしたちはまず、知恵、すなわち理解する能力を持ち、それによって霊の事柄を知ることができるようになります。次に、神の霊は霊の事柄を啓示して、わたしたちに霊的な理解を与えます。

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_1_17_0_4



エペソ3:5
「その奥義は、今や彼の聖なる使徒たちと預言者たちに、霊の中で啓示されていますが、別の世代では、そのように人の子たちに知らされていませんでした」

エペソ3:5ノート3
「これは、使徒たちと預言者たちの人の霊、神の聖霊によって再生され、内住された霊です。それはミングリングされた霊、人の霊と神の霊がミングリングされた霊と考えることができます。そのようなミングリングされた霊は、キリストと召会に関する新約の啓示が、使徒たちと預言者たちに啓示される手段です。わたしたちはこの啓示を見るために、同じ種類の霊を必要とします」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_3_5_0_3





以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・霊の中で祈ることによって


エペソ6:18
「すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい.どんな時にも霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい」


エペソ6:18ノート1
「この句は、17節の述語「受け取りなさい」を修飾して、救いのかぶとだけでなく、神の言葉をも受け取るようにと言います。これは、わたしたちがすべての祈りと願い求めの手段によって、神の言葉を受け取る必要があることを示します。わたしたちは、神の言葉を受け取るために祈る必要があります。
神のすべての武具は、六項目から成ります。祈りは七番目の項目と考えられます。それは、わたしたちが他の項目を適用して、武器を実行的に利用できるようにする唯一の、重要で、決定的な手段です」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_6_18_0_1


エペソ6:18ノート3
「これは、神の霊が内住している、わたしたちの再生された霊です。それはミングリングされた霊、わたしたちの霊と神の霊がミングリングされた霊と考えられます。祈りの中で、わたしたちが用いるべき主要な器官は、この霊です。」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_6_18_0_3


以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・歌うことによって

コロサイ3:16
「知恵を尽くして、キリストの言をあなたがたの内に豊かに住まわせ、詩と詩歌と霊の歌とをもって、互いに教え戒め合い、恵みをもって、心から神に向かって歌いなさい」

コロサイ3:16ノート5
「「教え戒め」と「歌い」は、動詞「住まわせ」を修飾します。これは、主の言葉をわたしたちの内に豊かに住まわせる道が、教え、戒め、歌うことによることを示しています」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=51_3_16_0_5


コロサイ3:16ノート7
「わたしたちは、言葉だけでなく、詩と詩歌と霊の歌によっても、教え戒めるべきです」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=51_3_16_0_7


以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。


今回で「神の言葉」のシリーズはおしまいです。
次回からは「神」です。

長らく休止しておりましたが、今日から再開します。
今回からは「神」です。

<三であるが一?>

第二コリント13:14
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」

第二コリント13:14ノート1 第一〜四段落
「主の恵みは、わたしたちの享受のための、わたしたちの命としての主ご自身です(ヨハネ1:17とノート1.?コリント15:10とノート1)。神の愛は、主の恵みの源としての神ご自身です(?ヨハネ4:8、16)。聖霊の交わりは、わたしたちがあずかるための、神の愛を伴う主の恵みの伝達としての聖霊ご自身です。これらは三つの別々のものではなく、一つのものの三つの面です。それは、主、神、聖霊が三つの別々の神ではなく、「一つの同じ、分けられてもいなければ、分けることもできない神の三つの実質(ハイポスタシーズ)」(フィリップ・シャフ)であるのと同じです。英語の「ハイポスタシス」(hypostasis)は「ハイポスタシーズ」(hypostases)の単数形であり、そのギリシャ語は(参照、ヘブル11:1のノート2)、下の支え、下からの支え、すなわち下から支えるもの、支えている実質を意味します。父、子、霊は、ハイポスタシーズ、支える実質であり、ひとりの神格を構成します。
神は起源であるので、神の愛は源です。主は神の表現であるので、主の恵みは神の愛の経路です。その霊の交わりは、神の愛を伴う主の恵みの分与です。その霊は、三一の神、すなわち父、子、聖霊とその神聖な美徳を、わたしたちが経験し享受するための、神を伴う主の伝達であるからです。ここでは、主の恵みが最初に述べられています。なぜなら、この手紙はキリストの恵みに関するものであるからです(1:12.4:15.6:1.8:1、9.9:8、14.12:9)。そらされ、混乱させられ、その後、励まされ、回復されたコリントの信者たちには、このような愛、恵み、交わりの三つの美徳の神聖な属性と、このような三つの神聖な実質から成る三一の神、すなわち父、子、霊から成る三一の神が必要でした。ですから使徒は、彼の愛のこもった親密な手紙を結ぶにあたって、一つの文の中に、これらの神聖な尊いものをみな含めたのです。
この節は、神格の三一が、組織神学の教理的理解のためではなく、三一における神ご自身が、選ばれ贖われた人々の中へと分与されるためであることを、強く証明します。聖書の中で三一は、決して単なる教理として啓示されていません。それは常に、神と彼の被造物との関係、特に神が創造された人、とりわけ彼が選び贖われた人々との関係について啓示されているか、あるいは述べられています。創造に関する神聖な啓示において使われた最初の神聖な称号、ヘブル語のエロヒムは複数形であり(創1:1)、人のための天地の創造主としての神が、三一であることを暗示しています。人をご自身のかたちに、ご自身の姿に創造されたことに関して、彼は「われわれに」と「われわれの」という複数の代名詞を使われました。これは神の三一に言及しており(創1:26)、神は人と一になり、神の三一において、人を通してご自身を表現することを暗示しています。後に創世記第3章22節、第11章7節、イザヤ書第6章8節で、神は人との関係、神と彼の選ばれた人々との関係を述べる時、繰り返しご自身を「われわれ」と言っておられます。
堕落した人を贖い、人と一になる立場を再び持つために、神は御子の中でその霊を通して(ルカ1:31-35)肉体と成り(ヨハネ1:1、14)、人と成られました。そして、やはり御子の中で(ルカ2:49)、その霊によって(ルカ4:1.マタイ12:28)、地上で人の生活をされました。地上での御子の務めの初めに、御父は人々に臨むため、また彼らをご自分に連れ戻すために、その霊をもって御子を油塗られました(マタイ3:16-17.ルカ4:18)。彼は肉体において十字架につけられ、復活して命を与える霊と成られる直前(?コリント15:45)、彼の奥義的な三一を、弟子たちに明白な言葉で啓示されました(ヨハネ第14章―第17章)。その内容は、御子は御父の中にあり、御父は御子の中にあること(ヨハネ14:9-11)、その霊は御子の変貌であること(ヨハネ14:16-20)、同時同存し、相互内在するこの三は信者たちの享受のために、彼らと共に住まわれること(ヨハネ14:23.17:21-23)、御父が持っておられるすべては御子のものであること、御子が所有しておられるすべてはその霊によって受け取られたこと(ヨハネ16:13-15)です。そのような三一は、完全に、手順を経た神を信者たちの中へ分与することと関係があります(ヨハネ14:17、20.15:4-5)。それは彼らが、三一の神の中で、三一の神と一になるためです(ヨハネ17:21-23)。」
http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=47_13_14_0_1

以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<三であるが一?>

第二コリント13:14
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」

第二コリント13:14ノート1第五〜八段落。
「復活の後、主は弟子たちに、すべての国民を弟子として、彼らを父と子と聖霊の名の中へとバプテスマするように命じられました(マタイ28:19)。主は、信じる者たちを三一の神の中へと、すなわち、肉体と成り、人の生活、十字架を経過し、復活の中へ入り、手順を経た神との有機的結合へともたらすよう、弟子たちに命じられたのです。このような有機的結合に基づいて、使徒はコリント人への神聖な手紙の結びで、ほめたたえられるべき三一をもって彼らを祝福しました。それは、その霊の交わりを通して、御父の愛を伴う御子の恵みにあずからせることです。神聖な三一において、父なる神は、キリストのからだである召会のすべての肢体の中で、主(子なる神)の務めを通し、その霊なる神の賜物によって、すべてのことを行なわれます(?コリント12:4-6)。
エペソ人への手紙は、キリストのからだとしての召会の産出、存在、成長、建造、戦いに関する書です。その神聖な啓示全体は、この神聖なエコノミー、すなわち、三一の神をキリストのからだの肢体の中に分与することから成っています。エペソ人への手紙第1章は、父なる神が永遠の中でこれらの肢体を選び、あらかじめ定められたこと(エペソ1:4-5)、子なる神が彼らを贖われたこと(エペソ1:6-12)、その霊なる神が担保として彼らに証印を押されたこと(エペソ1:13-14)、その結果、ご自身を召会の形成のために彼の信者たちに分け与えておられること、この召会はキリストのからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満であること(エペソ1:18-23)を啓示しています。第2章は、神聖な三一において、すべての信者が、ユダヤ人も異邦人も、子なる神を通して、その霊なる神の中で、父なる神に近づくことができることを見せています(エペソ2:18)。これは、三が、肉体と成ること、人の生活、十字架、復活の過程を経た後でさえ、同時同存し、相互内在されることを示します。第3章で使徒は、父なる神が信者たちを、霊なる神を通して、彼らの内なる人の中へと増強してくださるように、またキリスト(子なる神)が、彼らの心の中にホームを造ってくださるように、すなわち、彼らの全存在を占有してくださるようにと祈りました。それは、彼らが満たされて、神の全豊満へと至るためです(エペソ3:14-19)。これは、信者たちが三一における神にあずかることでの最高の経験です。第4章は、霊、主、父としての手順を経た神が、いかにキリストのからだ(エペソ4:4-6)とミングリングされているかを描写しています。それは、からだのすべての肢体が神聖な三一を経験するためです。第5章は、主(子なる神)を、霊なる神の歌をもって賛美すること、わたしたちの主イエス・キリスト(子なる神)の御名の中で父なる神に感謝をささげることを、信者たちに勧めています(エペソ5:19-20)。これは、わたしたちが神聖な三一における手順を経た神を賛美し、彼に感謝することです。わたしたちは、彼を三一の神として享受できることに、感謝しなければなりません。第6章は、主(子なる神)の中で力づけられることによって、神(父なる神)のすべての武具を身に着け、その霊(霊なる神)の剣を振るって、霊的戦いを戦うことを教えています(エペソ6:10、11、17)。霊的戦いにおいても、信者による三一の神の経験と享受があるのです。
使徒ペテロは、彼の手紙の中で、信者たちに父なる神の選び、霊なる神の聖別、イエス・キリスト(子なる神)の血による贖いに(?ペテロ1:2)言及することによって、神が三一であるのは、信者たちの享受のためであることを確証します。使徒ヨハネも、神聖な三一は、信者が手順を経た三一の神にあずかるためであるという啓示を、さらに強めています。啓示録でヨハネは、今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方(父なる神)から、また彼の御座の前の七つの霊(霊なる神)から、また忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者であるイエス・キリスト(子なる神)からの恵みと平安をもって、各地の召会を祝福します(啓1:4-5)。ヨハネの諸召会に対するこの祝福はまた、手順を経た三一の神が、信者たちの享受のためであることを示しています。手順を経た三一の神は、永遠の父としての彼であるものすべての中で、七倍に強化された霊としての彼がなし得ることすべての中で、油塗られた御子としての彼が到達し獲得したものすべての中で、信者たちの享受となられます。こうして彼らは、金の燭台として彼の団体の証しとなるのです(啓1:9、11、20)。
こういうわけで、創世記から啓示録で、聖なる御言にある神格の三一の神聖な啓示は、神学の研究のためではないことが明らかにされます。この啓示は、神が奥義的な、すばらしい三一の中で、どのようにご自身を選びの民の中へと分与されるかの認識のためにあります。三一が分与されることによって、神に選ばれ贖われた民であるわたしたちは、コリントの信者たちに対する使徒の祝福の中で示されているように、現在から永遠に至るまで、手順を経た神にあずかり、経験し、享受し、所有するのです。アーメン」


http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=47_13_14_0_1

以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<三であるが一?>

マタイ28:19
「だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして」

マタイ28:19ノート5
「神聖な三一に対して一つの名があります。その名は神聖な方の総合計であり、彼のパースンに等しいです。だれかを三一の名の中へとバプテスマするとは、彼を三一の神のすべての中に浸し込むことです」

マタイ28:19ノート6
「マタイによる福音書とヨハネによる福音書の二冊は、神聖な三一が聖書の他のいずれの書物よりも完全に啓示されています。それは、神の選びの民が彼にあずかり、享受するためです。ヨハネは、父、子、霊における神たる方の奥義を、特に第14章から第16章で、わたしたちの命の経験のために啓示しています。マタイは、王国の設立のために、三のすべてに対する一つの名を与えることによって、神聖な三一の実際を明らかにしています。マタイの開始の章で、聖霊(1:18)、キリスト(御子―1:18)、神(御父―1:23)が、人なるイエスを生み出すために(1:21)登場します。この方はエホバ救い主、神われらと共にいます方として、まさしく三一の神の具体化です。第3章でマタイは開かれた天の下で、バプテスマの水の中に立つ御子、御子の上に下るはととしてのその霊、天から御子に語りかける御父という絵を提示します(3:16-17)。第12章では、御子は人のパースンの中で、御父の王国をもたらすために、その霊によって悪鬼どもを追い出されました(12:28)。第16章では、王国の命脈である召会の建造のために、御父は御子を弟子たちに啓示されました(16:16-19)。第17章では、御子は変貌されましたが(17:2)、それは王国の実現の縮図の展覧であることが(16:28)、御父の喜びの言葉(17:5)によって確認されました。最後に終わりの章では、キリストが、最後のアダムとして、十字架の手順を経過し、復活の領域の中に入り、命を与える霊と成った後、復活の雰囲気と実際の中で、弟子たちの所に戻って来て、異教徒を神聖な三一の名、パースン、実際の中へとバプテスマすることによって、王国の民とするようにと彼らに命じられました。その後、使徒行伝と書簡で、人々を父、子、霊の名の中へとバプテスマすることは、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることであり(使徒8:16.19:5)、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることは、キリストのパースンの中へとバプテスマすることであると(ガラテヤ3:27.ローマ6:3)示されています。なぜなら、キリストは三一の神の具体化であり、命を与える霊と成って(?コリント15:45)、どんな時どんな場所でも、人々が彼の中へとバプテスマされるのに便利な方であることが、明らかにされているからです。父、子、霊の実際の中へとバプテスマされることは、マタイによれば、天の王国の設立のためです。地的社会と異なって、天的王国は、肉と血から成る人で組織されることはあり得ません(?コリント15:50)。それは、三一の神との結合の中へと浸し込まれ、彼らの中へ造り込まれた三一の神で、確立され建造されている人々によってのみ、構成され得るのです」
http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_28_19_0_5
http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_28_19_0_6


マタイ3:17
「すると見よ、天からの声が言った、『これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ』」

マタイ3:17ノート1
「聖霊が下って来ることはキリストの油塗りであり、御父の語りかけは愛する子であるキリストへの証しでした。ここに神聖な三一の絵があります。すなわち、御子は水から上がり、霊は御子の上に下り、御父は御子について語られました。これは父、子、霊が同時に存在することを証明します。これは神のエコノミーの達成のためです」

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ヨハネ14:7
「あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたはずである.今からあなたがたは彼を知る.そしてすでに彼を見たのである」

ヨハネ14:7ノート1
「この章は、神がご自身を人の中に分与される道を啓示しています。ご自身をわたしたちに分与することで、神は三一です。神は一であり、しかも三、すなわち父、子、霊です。御子は御父の具体化、表現であり(7-11節)、その霊は御子の実際、実現です(17-20節)。御父は御子の中で(御子は御父とさえ呼ばれています―イザヤ9:6)表現され、見られます。御子はその霊として(?コリント3:17)啓示され、実際化されます。御父は御子にあって、信者たちの間で表現され、御子はその霊として、信者たちの中で実際化されます。父なる神は隠されており、子なる神は人の間に現され、霊なる神は人の中に入って、人の命また命の供給、すべてとなられます。ですから、この三一の神―御子にある御父と、その霊としての御子は、ご自身をわたしたちの中に分与して、わたしたちの分け前となられます。それは、わたしたちが彼の神聖な三一の中で、彼をすべてとして享受するためです」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<三であるが一?>

ヨハネ14:26
「しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる」

ヨハネ14:26ノート1
「慰め主、聖霊は、御父によって御子の名の中で遣わされました。ですから聖霊は、御父によっても、御子によっても遣わされました。こうして、聖霊は御父からだけでなく、御子からも来て、御父の実際となり、御子の実際ともなられます。こういうわけで、わたしたちが御子の名を呼び求める時、その霊を得るのです(?コリント12:3)」

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ヨハネ14:26ノート2
「御父が御子の名の中にあるとは、御父が御子であることと同じです(参照、5:43のノート1)。ですから、御父が御子の名の中で聖霊を遣わすとは、御子が御父から聖霊を遣わすことです(15:26)。御子と御父は一つです(10:30)。こうして、遣わされたその霊は、御父からだけでなく(15:26)、御子からも来られます。さらに、その霊が来る時、彼は御父と御子と共に来られます(参照、15:26のノート1)。これは、御父、御子、その霊が、ひとりの神、三一の神であって、わたしたちに届き、彼の神聖な三一の中で、ご自身をわたしたちの中へと造り込み、分与して、わたしたちの命またすべてとなられることを証明します」

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ヨハネ14:26ノート3
「第5章43節は、御子が御父の名の中で来たと言い、ここでは、御父が御子の名の中で聖霊を遣わしたと言います。これは、御子と御父が一であるだけでなく(10:30)、聖霊は御父と御子と一であることをも証明します。御父によって御子の名の中で遣わされた聖霊は、御父から来る実際であるだけでなく、御子から来る実際でもあります。これは、最終的にその霊として人に到達する三一の神―父、子、霊です」

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ヨハネ5:43
「わたしはわたしの父の御名の中で来たが、あなたがたはわたしを受け入れない.もし他の者が自分の名の中で来るなら、あなたがたは彼を受け入れるであろう」

ヨハネ5:43ノート1
「御子が御父の御名の中におられることは、御子が御父であられることと等しいです。ですから、彼は御父と呼ばれます(イザヤ9:6)。これは、御子と御父が一であることを証明します(10:30)。第14章26節のノート2を参照」

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ヨハネ15:26
「しかし、わたしが父からあなたがたに遣わす慰め主、すなわち、父から出て来る実際の霊が来る時、彼はわたしについて証しする」

ヨハネ15:26ノート1
「ギリシャ語の意味は、「……から……共に(from with)」(参照、1:14のノート5)です。御父から御子によって遣わされた実際の霊は、御父から来ただけでなく、御父と共に来られました。御父は源です。この霊が源から来る時、彼は源から離れるのではなく、源と共に来られます。御子によって遣わされ、御父と共に来られるこの霊は、御子について証しされます。ですから、御子についての彼の証しは、三一の神の事柄です」

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ヨハネ10:30
「わたしと父は一である」

ヨハネ10:30ノート1
「主はここで彼の神性、すなわち、彼が神であることを断言されました(33節.5:18.1:1.20:28.?ヨハネ5:20.ピリピ2:6)」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<三であるが一?>

第一ペテロ1:2
「すなわち、父なる神の予知にしたがい、その霊の聖別の中で、イエス・キリストの血に対する従順と、彼の血の注ぎへと選ばれた人たちへ.恵みと平安があなたがたに増し加わりますように」

第一ペテロ1:2ノート2
「ここに、信者たちが三一の神にあずかるための、神たる方の三一の働きによる神聖なエコノミーが啓示されています。父なる神の選びは開始です。霊なる神の聖別は、父なる神の選びを遂行します。子なる神の血の注ぎで象徴される贖いは、完成です。これらの段階を通して、信者たちは選ばれ、聖別され、贖われ、三一の神、すなわち父、子、霊の享受へと入りました。信者たちは三一の神の中へとバプテスマされて(マタイ28:19)、その美徳を享受しています(?コリント13:14)」


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第一ペテロ1:13
「こういうわけで、あなたがたは思いの腰にa帯を締め、慎み、イエス・キリストの出現の時に、あなたがたにもたらされる恵みの上に望みを完全に置きなさい」

第一ペテロ1:13ノート1
「「3節から12節は、父なる神の祝福(ほめ言葉)の長い文であって、彼の驚くべき卓越した救いを明らかにします。その救いは、わたしたちの霊の再生から始まり(3節)、わたしたちの魂の救いにおいて完成し(9節)、キリストの苦難と栄光を通して成就され(11節)、聖霊によってわたしたちに適用されます(12節)。これに基づいて、13節は、三一の神が彼のエコノミーにしたがって遂行される完全な救いにあずかっている人たちに、勧め始めます」

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エペソ1:3
「ほむべきかな.わたしたちの主イエス・キリストの神また父.この方はキリストの中で、天上にある霊のものであるあらゆる祝福をもって、わたしたちを祝福してくださいました」

エペソ1:3ノート1
「文字どおりには、賞賛される、頌栄をもって賛美されることです。この区分では、三一の神が賞賛され、頌栄をもって賛美されています。すなわち、御父は、神の永遠の定められた御旨のために選び、定めることで(3-6節)、御子は、神の永遠の定められた御旨を完成するために贖うことで(7-12節)、その霊は、神の完成された定められた御旨を適用するために証印を押すことと、担保を入れることで(13-14節)賛美されています。神聖な三一のすべての美徳を通して、わたしたち堕落した罪人は、召会、キリストのからだとなり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満、表現となります」

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エペソ1:3ノート6
「神がわたしたちを祝福されたあらゆる祝福は、霊のものであり、聖霊と関係があります。神の霊は、神の祝福の通路だけでなく、それの実際でもあります。この節では、父なる神、子なる神、霊なる神が、すべてわたしたちに与えられた祝福と関係があります。神がわたしたちを祝福するのは、事実上、彼がご自身をわたしたちに分与することです」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_1_3_0_6
エペソ4:4
「一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです」

エペソ4:4ノート1
「使徒は、一を守るようにと勧める時、わたしたちの一の基礎を形成する七つの事柄を示します。それは、一つからだ、一つ霊、一つ望み、一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、一つ神です。これら七つの「一つ」は、三つのグループから成ります。最初の三つは第一グループを形成し、その霊のグループであって、彼の表現としてのからだを伴います。このからだは、からだの本質としてのその霊ですでに再生され、今や浸透されつつあり、キリストの完全な姿へと変貌させられていく望みを持っています。次の三つは第二グループを形成し、主のグループであって、わたしたちが彼に結合されるための信仰とバプテスマを伴います。七つの最後が第三グループ、一つ神また父であって、彼はすべての創始者、源です。からだの執行者としてのその霊、からだの創造者としての御子、からだの創始者としての父なる神(三一の神の三すべて)は、からだと関係があります。三一の第三が4節から6節で最初に述べられているのは、ここでのおもな関心がからだであり、その霊がからだの本質であり、からだの命と命の供給であるからです。次にその順序は御子へ、そして御父へとさかのぼります」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_4_4_0_1



エペソ4:6
「すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです」

エペソ4:6ノート3
「三一が、ここでさえ暗示されています。「すべての上に」はおもに御父を、「すべてを貫き」は御子を、「すべての中に」はその霊を言います。三一の神は、その霊としてわたしたちに臨むことによって、最終的にわたしたちすべての中へと入られます。キリストのからだの一は、神たる方の三一で構成されています。すなわち、源また起源としての御父は創始者であり、主またかしらとしての御子は完成者であり、命を与える霊としてのその霊は執行者です。三一の神ご自身は、わたしたちが日常生活の中で、彼を実際となし、経験する時、わたしたちの一の基礎、元素となられます」

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啓示録1:4
「ヨハネがアジアの七つの召会に書き送る.恵みと平安があなたがたにあるように.今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方から、また彼の御座の前の七つの霊から」



啓示録1:4ノート3
「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方は、永遠の父なる神です。神の御座の前の七つの霊は、神の活動する霊、霊なる神です。神に対して忠信な証人、召会に対して死人の中から最初に生まれた方、この世に対して地上の諸王の支配者である方イエス・キリストは(5節)、子なる神です。これは三一の神です。永遠の父なる神として、彼は過去におられ、現在おられ、やがて来られる方です。霊なる神として、彼は神の活動のために七倍に強化された霊です(参照、ノート5)。子なる神として、彼は、(1) 神の証人、証し、表現、(2) 召会、新創造のために死人の中から最初に生まれた方、(3) この世に対しては地上の諸王の支配者です。そのような三一の神から、恵みと平安が、諸召会に分け与えられます」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=66_1_4_0_3

啓示録1:4ノート4
「「やがて来ようとしておられる方」とは、キリストの再来を暗示しています。このことは、彼の被造物、特に彼の贖われた者にとって、三一の神が何であるかについて、過去、あるいは現在よりも、その時さらに現実のものとなります」

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啓示録1:4ノート5
「七つの霊は、疑いもなく神の霊です。なぜなら、それは4節と5節で、三一の神の間に置かれているからです。七は神の活動における完全な数ですから、七つの霊は、地上における神の行動のためでなければなりません。本質と存在において、神の霊は一ですが、神の運行の強化された機能と働きにおいて、神の霊は七倍です。それは、ゼカリヤ書第4章2節にある燭台のようです。存在においては、一つの燭台ですが、機能においては、七つのともし火です。本書が書かれた時、召会は堕落して、時代は暗くなっていました。ですから、神の七倍に強化された霊が、地上における神の行動と働きのために必要でした」

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啓示録22:1
「また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた.それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」

啓示録22:1ノート5
「聖なる都の大通りは純金です(21:21)。金は神聖な性質を象徴します。命の水の川は「大通りの中央を」流れており、神聖な命が、神の贖われた民の日常生活のための唯一の道として、神聖な性質の中を流れることを表徴します。神聖な命が流れる所に、神聖な性質が聖なる道としてあり、神の民はそれによって歩きます。そして神聖な性質の聖なる道がある所に、神聖な命が流れています。神聖な命と、聖なる道としての神聖な性質は、常に同行します。ですから、神の命の水の川はこの神聖な道に沿って有効であり、わたしたちはこの命の道の中で歩くことによって、命の水の川を享受します」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=66_22_1_0_5
第二ペテロ3:16
「また、彼のすべての手紙の中でも、これらの事柄について語っているとおりです.その中には、理解し難い事柄もいくつかあり、学びのない者や心の定まっていない者たちは、聖書の他の部分についてもしているように、曲解して、自ら破壊に至っています」

第二ペテロ3:16ノート2第二段落
「(1) 三一の神の面から: 父なる神は、予知にしたがって、永遠の中で一つの民を選び(?ペテロ1:1-2.2:9)、彼らを彼の栄光の中へ召されました(?ペテロ5:10.?ペテロ1:3)。キリストは、世の基が置かれる前から神にあらかじめ知られていましたが、この時代の終わりに現れ(?ペテロ1:20)、彼の身代わりの死によって(?ペテロ2:24.3:18)、命の復活と力の昇天を通して(?ペテロ1:3.3:21-22)、神の選びの民を贖い、救いました(?ペテロ1:18-19、2)。天から遣わされたその霊は、キリストが贖われた人たちを聖別し、きよめられました(?ペテロ1:2、12、22.4:14)。(御使いたちは、これらの事柄をうかがい知ろうとしています―?ペテロ1:12)。三一の神の神聖な力は、命と敬虔にかかわるすべての事柄を彼らに備え(1:3-4)、彼らを守って完全な救いへ至らせられます(?ペテロ1:5)。神はまた彼のいくつかのさまざまな統治上の裁きによって(?ペテロ1:17.2:23.4:5-6、17.?ペテロ2:3-4、9.3:7)、彼らを訓練し(?ペテロ5:6)、彼のあらゆる恵みによって彼らを成就し、堅固にし、力づけ、土台づけてくださいます(?ペテロ5:10)。主は彼らに対して辛抱強くあられます。それは、彼らがすべて悔い改めて救われる機会を持つためです(9、15節)。その後、キリストは彼を愛する者たちに対する彼の完全な救いを携えて、栄光の中で出現されるでしょう(?ペテロ1:5、7-9、13.4:13.5:4)」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
<彼の性質と属性>

・霊

第一ヨハネ1:5
「さて、わたしたちが彼から聞いて、あなたがたに伝える知らせはこれです.すなわち、神は光であって、神の中には少しの暗やみもありません」

第一ヨハネ1:5ノート3
「『神は光』、『神は愛』(4:8、16)、『神は霊』(ヨハネ4:24)のような表現は、比喩的にではなく、叙述的に用いられています。それらは神の性質を言い表し、描写します。神はその性質において、霊、愛、光です。霊は神のパースンの性質であり、愛は神の本質の性質であり、光は神の表現の性質です。愛と光はいずれも、命としての神と関係があり、この命は霊に属します(ローマ8:2)。神、霊、命は実際上一です。神は霊であり、霊は命です。この命の中に、愛と光があります。神聖な愛がわたしたちに現れると、それは恵みとなり、神聖な光がわたしたちの上を照らすと、それは真理となります。ヨハネの福音書は、主イエスが恵みと真理をもたらして(ヨハネ1:14、17)、その結果、わたしたちが神聖な命を持つことを啓示します(ヨハネ3:14-16)。ヨハネの手紙は、神聖な命の交わりが、恵みと真理の源である神聖な愛と神聖な光に、わたしたちをもたらすことを啓示します。ヨハネの手紙は、彼の福音書の継続です。ヨハネの福音書では、神が御子の中で恵みと真理としてわたしたちに来て、わたしたちを神の子供たちとならせました(ヨハネ1:12-13)。ヨハネの手紙では、わたしたち神の子供たちが、御父の命の交わりの中で、御父に来て、彼の愛と光にあずかります(参照、4:8のノート2)。前者は、神が外庭に出てきて、祭壇でわたしたちの必要を満たすことです(レビ4:28-31)。後者は、わたしたちが至聖所の中へ入っていき、契約の箱で神と接触することです(出25:22)。これは、神聖な命のさらに進んだ、さらに深い経験です。ヨハネの福音書で、わたしたちは御子の中へと信じて神聖な命を受けます。この命を受けた後、この手紙にあるように、わたしたちはこの命の交わりを通して、継続してこの命を享受すべきです。彼のすべての手紙はこの一つの事、すなわち、神聖な命の交わりに住むことによって、この命を享受することを明らかに示します」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_1_5_0_3



ヨハネ4:24
「神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。

ヨハネ4:24ノート2
「ここの『霊』は、三一の神全体の性質を言っています。それは単に、霊なる主のことを言っているのではありません。霊なる神を礼拝するには、彼と同じ性質であるわたしたちの霊をもって礼拝しなければなりません」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・愛


第一ヨハネ4:8
「愛さない者は神をまだ知っていません.なぜなら、神は愛だからです」

第一ヨハネ4:8ノート2
「第2章5節のノート2を参照。この手紙は、まず神は光であると言い(1:5)、次に神は愛であると言います。愛は神の本質の性質であり、恵みの源です。光は神の表現の性質であり、真理の源です。神聖な愛がわたしたちに現れると、それは恵みとなります。神聖な光がわたしたちを照らすと、それは真理となります(参照、1:6のノート6、最後の段落)。この二つは、ヨハネによる福音書の中で、このようにして現されました。その所で、わたしたちは、御子の現れを通して恵みと真理を受けました(ヨハネ1:14、16-17)。今やヨハネの手紙の中で、わたしたちは御子の中で御父に来て、恵みと真理の源に触れます。これらの源、愛と光は、父なる神ご自身です。それは、わたしたちが御子の中に住むことによって(2:5、27-28.3:6、24)、御子にある御父との神聖な命の交わりの中で(1:3-7)、さらに深い、さらに細やかな享受を得るためです。第1章5節のノート3を参照」

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第一ヨハネ4:16
「そしてわたしたちは、神がわたしたちの中で持っておられる愛を知っており、また信じています。神は愛です.愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます」

第一ヨハネ4:16ノート3
「8節のノート2を参照。神が愛であることは、彼が御子を遣わして、わたしたちの救い主、また命とされたことで現されました(9-10、14節)」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_3


第一ペテロ1:7
「あなたがたの信仰が試されることは、朽ちる金が火によって試されることよりもはるかに尊く、イエス・キリストの出現の時に、賛美と栄光と誉れとなって現れるのです」

第一ペテロ1:7ノート2
「『金が火によって試されることよりもはるかに尊い』。この『火によって』は、『あなたがたの信仰』を修飾するのではなく、『試される』を修飾します」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=60_1_7_0_2


以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・光

第一ヨハネ1:5
「さて、わたしたちが彼から聞いて、あなたがたに伝える知らせはこれです.すなわち、神は光であって、神の中には少しの暗やみもありません」

第一ヨハネ1:5ノート2
「これまでの節で、御父と御子ははっきりと述べられており、その霊は永遠の命の交わりの中に暗示されています。ここで、この書簡では初めて神が述べられており、彼は三一の神―父、子、霊―として述べられています。福音書の光の中で啓示されているように、この神は光です。
 ヨハネと他の初期の弟子たちが聞いた知らせは、ヨハネによる福音書第8章12節と第9章5節で主イエスは光であるという、ご自身によって語られた言葉であるに違いありません。これは、主イエスが神であることを示し、神聖な三一の本質を暗示します」

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_1_5_0_2


第一ヨハネ1:5ノート4
「光が神の表現における性質であるように、暗やみはサタンの邪悪なわざにおける性質です(3:8)。神に感謝します! 彼はわたしたちをサタンの暗やみから救い出し、神聖な光の中へ入れてくださいました(使徒26:18.?ペテロ2:9)。神聖な光は、神聖な命、すなわち、御子の中の命であり、わたしたちの中で活動する命です。この光はわたしたちの内側の暗やみの中で輝き、そして暗やみはこの光に勝つことができません(ヨハネ1:4、5)。わたしたちはこの光に従う時、決して暗やみの中を歩くことはありません(ヨハネ8:12)。文脈によると、この暗やみは罪の暗やみです(7-10節)」

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第一ヨハネ1:7
「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩くなら、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めます」

第一ヨハネ1:7ノート1
「わたしたちは光の中を歩きますが、神は光の中におられます。なぜなら、神は光であるからです。『光とは、その中に神が住んでおられる要素である(参照、?テモテ6:16)……光の中のこの歩みは、神が光の中にいますように、神の単なる模倣ではなく、神の永遠のあることの本質的な要素を伴った、わたしたちの日常の歩みの本質的要素における同一性である。模倣ではなく、命の雰囲気の一致と同一性である』(アルフォード)」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・聖

エペソ1:4
「すなわち、この方は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び」

エペソ1:4ノート3
「『聖く』とは、神へと聖別され、分離されるだけでなく、あらゆる俗的なものとは異なっていて、区別されることを意味します。ただ神だけが、すべてのものとは異なり、区別されています。ですから、彼は聖です。聖は彼の性質です。彼は、わたしたちが聖くなるようにと選ばれました。彼がわたしたちを聖くされるのは、聖なる方であるご自身を、わたしたちの中に分け与えることによります。それはわたしたちの全存在が、彼の聖なる性質で浸透され、飽和されるためです。わたしたち、神の選ばれた者たちが聖くなるとは、神の神聖な性質にあずかること(?ペテロ1:4)、わたしたちの全存在が神ご自身で浸透されることです。これは、単なる罪なき完全、罪なき純潔とは異なります。これはわたしたちの全存在を、神の性質と特性の中で、神ご自身のように聖くします」

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第一ペテロ1:15
「あなたがたを召してくださった聖なる方にしたがい、あなたがた自身もすべての生活様式において聖となりなさい」

第一ペテロ1:15ノート1
「聖なる方は、三一の神―選ぶ御父、贖う御子、聖別するその霊(1-2節)です。御父は選びの民を再生し、彼の聖なる性質を彼らの中へ分与されます(3節)。御子は彼らを血をもって、むなしい生活様式から贖われました(18-19節)。その霊は御父の聖なる性質にしたがって彼らを聖別し、彼らを神以外のどんなものからも聖別されます(2節)。それは、彼らが御父の聖なる性質によって、神ご自身が聖であるように(15-16節)、すべての生活様式において聖となるためです」

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第一ペテロ1:15ノート2
「その霊の聖別を通して(2節)、わたしたちに神の聖なる性質をもたらし、聖なる生活に至らせる再生に基づいて(3節)」

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第一ペテロ1:17
「そして、人を偏り見ることなく、それぞれの行ないに応じて裁く方を、あなたがたは御父と呼ぶのであるなら、あなたがたの寄留の時を、畏れのうちに過ごしなさい」

第一ペテロ1:17ノート1
「わたしたちを召してくださった御父としての聖なる方は、わたしたちを再生して、聖なる家族(聖なる御父と聖なる子供たち)を生み出されました。わたしたちは聖なる子供として、聖なる生活様式で歩くべきです。そうでないと、御父は裁判官となり(4:17)、わたしたちの聖でないものを対処されるでしょう。彼は、内側で命をもってわたしたちを生んで、わたしたちに彼の聖なる性質を持たせてくださいました。彼がわたしたちを外側で裁きをもって懲らしめるのは、わたしたちが彼の聖にあずかるためです(ヘブル12:9-10)。彼の裁きは、人を偏り見ることなく、わたしたちの行ない、振る舞いにしたがって行なわれます。ですから、わたしたちは寄留の時を、畏れのうちに過ごすべきです。わたしたちが彼をわたしたちの御父と呼ぶのであれば、彼をわたしたちの裁判官として畏れ、畏れのうちに聖なる生活をすべきです」

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第一テサロニケ5:28
「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にありますように」

第一テサロニケ5:28ノート1
「ヨハネ第1章14節のノート6、17節のノート1、?コリント第15章10節のノート1を参照。わたしたちは、主を恵みとして享受する時はじめて、召会生活のための聖なる生活をすることができます。この聖なる生活とは、命の供給としての主にあずかることによって実行される、召会のための真の正当な生活です。
本書では、召会生活のための聖なる生活が展開されています。聖別されるとは、聖となることです。この宇宙で、神だけが聖であられます。神だけが、他のあらゆるものから区別されて、異なっています。彼は世俗的でないがゆえに、汚れていません。聖は神の性質です。それは、神の属性の内在的な特徴です。ですから、完全に、徹底的に聖となり、外側の地位だけでなく、内側の性情においても聖となるためには、神の特徴である聖なる性質を持たなければなりません。神のこのような神聖な性質を持つためには、神を所有し、彼をわたしたちの命、性質としなければなりません。ただ神だけが、わたしたちを徹底的に聖別し、わたしたちの全存在、すなわち、霊と魂と体とを守って、完全にし、世俗的になったり汚れたりしないようにすることができます。神はわたしたちを聖別することを願い、それを自ら行なわれます。わたしたちが、聖別としての神(ヘブル12:14前半)を進んで追い求め、このことで神と協力すれば、神はわたしたちを聖別してくださいます。こうして、わたしたちは、彼が聖であられるように、聖となることができます(?ペテロ1:15-16)。聖別がなければ、だれも主を見ることはありません(ヘブル12:14後半)。
神は、キリストの贖いの血によって、わたしたちを地位上において聖とするだけでなく(ヘブル13:12.10:29)、ご自身の聖なる性質によって、わたしたちを性情においても聖別しておられます。わたしたちをこのように聖別することによって、彼はわたしたちの霊と魂と体を本質において造り変え、性質において徹底的に彼のようにしてくださいます。このようにして彼は、わたしたちの霊と魂と体を徹底的に、完全に守ってくださるのです。彼がわたしたちを地位上において聖とするのは、外側のことですが、性情において聖別するのは、内側のことです。それは、わたしたちの霊、最も深い部分から始まり、魂である中間の部分を経過して、外なる部分の体に到達します。この働きは、わたしたちに深く浸透し、霊の再生(ヨハネ3:6)、魂の造り変え(ローマ12:2)、体の贖い(ローマ8:23.エペソ4:30)を通して、神の命を与える霊によって、達成されます。そのような聖なる聖別された生活が、神を喜ばせ、彼を表現する召会生活を持つために必要です」

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ヘブル12:29
「なぜなら、わたしたちの神は、焼き尽くす火でもあるからです」

ヘブル12:29ノート1
「神は聖です。聖は神の性質です。彼の聖なる性質にそぐわないものは何であれ、彼は焼き尽くす火として、焼き尽くします。もしヘブル人信者たちが、神の目に世俗的である(聖でない)ユダヤ教にそれるなら、彼らは聖でないものとなります。そして聖なる神は焼き尽くす火として、彼らを焼き尽くします。神は義であるだけでなく、聖でもあります。わたしたちは神の義を満足させるために、キリストの贖いを通して義とされる必要があります。彼の聖の要求に応じるために、天的な、現在の、生けるキリストによって聖別され、聖とされる必要があります。ローマ人への手紙は、神の義のために(ローマ3:25-26)、義とされること(ローマ3:24)をより強調しています。ヘブル人への手紙は、神の聖のために(14節)、聖別されること(2:11.10:10、14、29.13:12)をさらに強く打ち出しています。この聖別のために、ヘブル人信者たちは、自らを聖でないユダヤ教から、新契約の下で御子にあってご自身を完全に表現された聖なる神へと、聖別しなければなりません。そうでないと、彼らは自分たちの古い、世俗的な宗教で自分自身を汚し、焼き尽くす火としての聖なる神によって対処されます。それは恐ろしいことです(10:31)! ですから、パウロが主を畏れるのを重要なことと考えた(?コリント5:11)のも当然です」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。




・義

ローマ1:17
「なぜなら、神の義は福音の中で啓示され、信仰から信仰へと至らせるからです.『義人は信仰によって命を持ち、そして生きる』と書かれているとおりです」

ローマ1:17ノート1
「ヨハネによる福音書第3章16節で、神の愛は神の救いの源、動機です。エペソ人への手紙第2章5節、8節で、神の恵みは神の救いの手段です。ここでは、神の義は神の救いの力です。神の義は確固としていて、神の御座の土台であり(詩89:14)、神の王国が建て上げられる基礎です(14:17)。法的に言えば、愛も恵みも揺らぐことがあり得ますが、義は揺らぐことがありません。神の義はなおさらそうです。神の福音の中で啓示されるのは、神の義であって、わたしたちの義ではありません。ですから、福音は、すべて信じる者を救いに至らせる神の力です」

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第一ヨハネ3:10
「このことで、神の子供たちと悪魔の子供たちとは明らかです。すべて義を実行しない者は、神から出ていません.また、自分の兄弟を愛さない者も同様です」

第一ヨハネ3:10ノート2
「義は神の行ないの性質であり、愛は神の本質の性質です。神であることは愛であり、神の行なわれることは義です。愛は内側のものであり、義は外側のものです。ですから、愛は義以上に、わたしたちが神の子供たちであることの有力な現れです。こういうわけで、使徒はこの節から24節で、神の子供たちの生活の現れにおいて、義から愛へ言葉を進めるのです。愛は、主の中に住む生活のさらに進んだ条件です」

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第二ペテロ1:1
「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロから、わたしたちの神また救い主、イエス・キリストの義の中で、わたしたちと共に同じ尊い信仰を割り当てられている人たちへ」

第二ペテロ1:1ノート9
「わたしたちの神は義です。神の義を通して、神は尊い信仰を神聖な分け前として、キリストにあるすべての信者に、ユダヤ人にも異邦人にも、人を偏り見ることなく、等しく割り当てられています。今や彼は、わたしたちの神であるだけでなく、わたしたちの救い主でもあります。ですから今や彼の義は、神の義だけでなく、キリストの義だけでもなく、わたしたちの神また救い主、イエス・キリストの義です。主がわたしたちの救い主であることから言えば、彼の義は彼の義なる行為です。すなわち、彼は絶対的に従順に十字架上で死に(ピリピ2:8)、それによってわたしたちのために贖いを達成し(ヘブル9:12)、わたしたちを神によって義とされます(ローマ5:18)。主がわたしたちの神であることから言えば、彼の義は彼の公正です。ですから、彼はわたしたちの救い主イエス・キリストの義なる行為、贖いに基づいて(ローマ3:24-25)、ユダヤ人と異邦人(ローマ3:30)、すべてキリストにある信者たちを(ローマ3:26)義とされます。そのような二重の義、わたしたちの神また救い主、イエス・キリストの義の中で、またそれによって、尊い信仰、新約の祝福の尊い実体化が、すべての諸国民のすべての信者に等しく割り当てられているのです」

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第一テモテ6:11
「しかし、神の人よ、あなたはこれらの事柄から逃れなさい.そして義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」

第一テモテ6:11ノート2
「神の義なる厳格な要求にしたがって、神の御前で、人々に対して正しくあること」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
・栄光

ローマ3:23
「なぜなら、すべての人は罪を犯したので、神の栄光に欠けており」

ローマ3:23ノート1
「神の栄光とは、表現された神です。神が表現される時はいつも、神の栄光が見られます。人は神によって、神のかたちに造られました。それは人が、神の栄光のために、神を表現するためです。しかし人は罪を犯して、神の聖と義に相反しました。人は神を表現するどころか、罪と罪深い自己を表現します。ですから、人は神の栄光に欠けています。神の栄光と表現に欠けていることが罪です。罪人は、神の聖と義の要求の下にあるだけでなく、神の栄光の要求の下にもあります。すべての人は神の聖であることに違犯し、神の義の律法を破り、すべて神の栄光に欠けています。ですから、すべての人は神の罪定めの下にあります」

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テトス2:13
「祝福された望み、すなわち、わたしたちの大いなる神また救い主、イエス・キリストの栄光の出現を待ち望むようにさせています」

テトス2:13ノート3
「父の栄光(マタイ16:27)。これは、御子に与えられ(ヨハネ17:24)、わたしたちは、神の多くの子たちとして、この栄光の中へともたらされます(ヘブル2:10)。神はご自身の知恵によって、もろもろの時代の前にわたしたちをこの栄光へと定め(?コリント2:7)、すべての恵みの神は、この永遠の栄光へとわたしたちを召し、救われました(?ペテロ5:10.?テモテ2:10)。この重い栄光は、卓越しており、永遠であって(?コリント4:17)、この栄光をもって、わたしたちは栄光化されます(ローマ8:17、30)。わたしたちの大いなる神であり、救い主であるキリストのこの栄光の出現は、わたしたちが待ち望んでいる祝福された望みです」

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啓示録21:11
「それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」

啓示録21:11ノート1
「神の栄光は神の表現、表現された神です。わたしたちはこの栄光のために運命づけられ、この栄光へと召されました(?コリント2:7.?ペテロ5:10.?テサロニケ2:12)。わたしたちはこの栄光へと造り変えられていき(?コリント3:18)、その中へともたらされます(ヘブル2:10)。最終的に、わたしたちはキリストと共に栄光化され(ローマ8:17、30)、新エルサレムでの神の表現として、神の栄光を現します」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。
今回から「神のエコノミー」に入ります。

<彼のみこころと大いなる喜び>

エペソ1:9
「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので」

エペソ1:9ノート2
「神は永遠において、一つのみこころを計画されました。このみこころは、彼の中に隠されていました。ですから、それは奥義でした。神は彼の知恵と思慮の中で、この隠された奥義を、キリストにある彼の啓示を通して、すなわち、キリストの肉体と成ること、十字架、復活、昇天を通して、わたしたちに知らせてくださいました」

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エペソ1:9ノート3
「みこころの奥義をわたしたちに知らせることは、神の心の喜びでした」

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エペソ1:9ノート4
「神の大いなる喜びは、彼がご自身の中で計画されて、時代の満了時のエコノミーへ至るものです(10節)。これは、神ご自身が、彼の永遠の定められた御旨の始まり、起源、領域であることを示します。何ものも、これを覆すことはできません。万物はこのために働いています。彼はこのことについて、だれとも協議されませんでした」

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エペソ1:5
「みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました」

エペソ1:5ノート4
「これは、神にはみこころがあり、その中に彼の大いなる喜びがあることを啓示します。神は彼の喜びにしたがって、彼の心の歓喜にしたがって、わたしたちが彼の子たちとなるようあらかじめ定められました。エペソ人への手紙は、ローマ人への手紙とは違って、人の罪深い状態の見地から語るのではなく、神の心の大いなる喜びの見地から語っています。ですから、エペソ人への手紙はさらに深く、さらに高いのです」

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啓示録4:11
「『わたしたちの主また神よ、あなたは、栄光と尊貴と力とを受けるにふさわしいです.あなたは万物を創造され、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、創造されたからです』」

啓示録4:11ノート2
「神は定められた御旨を持つ神であり、ご自身の喜びとするみこころを持っておられます。彼は定められた御旨を成就し完成するために、万物を彼のみこころのままに創造されました。本書は神の宇宙的行政を啓示して、わたしたちに神の定められた御旨を見せています。ですから、二十四人の長老の、神の創造に関する賛美の中で、神の創造がみこころと関係づけられているのです」

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ローマ12:2
「またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです」

ローマ12:2ノート6
「この章で神のみこころとは、前の十一の章で、神が選び、召し、贖い、義とし、聖別し、栄光化へと同形化したわたしたちが、互いに肢体となって、キリストのからだの生活をすることです(3-5節)。キリストのからだは、神の神聖な啓示の頂点です。からだの生活は、わたしたちの体をささげること、思いが新しくされること、そしてこれまでの章での、あらゆる命の実行の結果であり、目標です」

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ピリピ2:13
「なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです」

ピリピ2:13ノート6
「すなわち、みこころの大いなる喜びです(エペソ1:5)。神の大いなる喜びは、わたしたちが神の究極の救いの頂点に達することです」

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コロサイ1:9
「こういうわけで、わたしたちもこの事を聞いた日から、あなたがたのために絶えず祈り、そして願い求めています.どうかあなたがたが、あらゆる霊的知恵と理解力において、神のみこころを知る全き知識で満たされ」

コロサイ1:9ノート1
「ここの神のみこころとは、神の永遠の定められた御旨のみこころ、キリストに関する神のエコノミーのみこころ(エペソ1:5、9、11)を言うのであって、さ細な事柄でのみこころではありません」

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コロサイ1:10
「主のものにふさわしく歩いて、すべての事で主を喜ばせ、あらゆる善いわざで実を結び、神を知る全き知識によって成長し」

コロサイ1:10ノート1
「主のものにふさわしく歩くことは、神のみこころの全き知識を持つことから出てきます。そのように、ふさわしく歩くことはわたしたちがキリストを生きる歩みです」

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。



<彼の隠された奥義>

マルコ4:11
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、神の王国の奥義を知ることを賜わっているが、外の人たちには、すべての事がたとえで語られる.

マルコ4:11ノート1
神の王国に関する神のエコノミーは、隠された奥義でしたが、奴隷・救い主の弟子たちには明らかにされました。しかし、神の王国の性質と特徴は完全に神聖であり、神の王国をもたらす要素は神聖な命と神聖な光ですから(参照、3節のノート1、26節のノート1、21節のノート1)、神の王国は、特にこの時代における王国の実際としての真の召会(ローマ14:17)に関しては、天然の人にとってやはり全くの奥義です。これを理解するためには、神聖な啓示が必要です。

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エペソ1:9
みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので、

エペソ1:9ノート2
神は永遠において、一つのみこころを計画されました。このみこころは、彼の中に隠されていました。ですから、それは奥義でした。神は彼の知恵と思慮の中で、この隠された奥義を、キリストにある彼の啓示を通して、すなわち、キリストの肉体と成ること、十字架、復活、昇天を通して、わたしたちに知らせてくださいました。

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_1_9_0_2


ローマ16:25
神は、わたしの福音、すなわち、イエス・キリストについての宣べ伝えにしたがって、世々にわたって沈黙のうちに保たれてきた奥義が啓示されることにしたがって、あなたがたを堅固にすることができます.

ローマ16:25ノート3
世々にわたって沈黙のうちに保たれてきた神の奥義には、おもに二つの点があります。一つは神の奥義、すなわちキリストです(コロサイ2:2)。彼は信者たちの内にいて(コロサイ1:26-27)、彼らの命、またあらゆるものとなっておられます。それは、彼らが彼のからだの肢体となるためです。もう一つはキリストの奥義、彼のからだとしての(エペソ3:4-6)、彼の豊満を現す召会です(エペソ1:22-23)。ですから、キリストと召会が偉大な奥義です(エペソ5:32)。

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コロサイ2:2
それは、彼らの心が慰められ、彼らが愛の中で結び合わされ、理解力から来る全き確信のあらゆる豊富へと至るため、すなわち、神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至るためです.

コロサイ2:2ノート5
エペソ人への手紙はキリストの奥義、すなわち召会、からだに関するものです(エペソ3:4)。本書は神の奥義、すなわちキリスト、かしらに関するものです。

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コロサイ1:27
神は彼らに、異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富がどんなものであるかを、知らせたいと願われました.それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです.

コロサイ1:27ノート1
異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富は、異邦人信者たちに対してキリストであるすべての豊富です(エペソ3:8)。

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コロサイ1:27ノート2
「それ」は、「この奥義」を言います。この奥義は、異邦人の間で栄光に満ちており、それは、わたしたちの内にいますキリストです。わたしたちの内にいます命なるキリストは奥義であり、栄光でもあります。

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コロサイ1:27ノート3
わたしたちの霊の中に住んで、わたしたちの命、パースンとなっておられるキリストは、栄光の望みです。彼が来られる時、わたしたちは彼にあって栄光化されます。これは、内住のキリストが、わたしたちの全存在に浸透して、わたしたちの体が変貌させられ、彼の栄光の体へと同形化されることを示しています(ピリピ3:21)。

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コロサイ1:27ノート5
キリストは今や、栄光に満ちている奥義です。この栄光は、キリストが再来して彼の聖徒たちを栄光化される時(ローマ8:30)、極限まで明らかにされます。ですから、それは望み、栄光の望みです。キリストご自身がまた、この栄光の望みです。

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マタイ16:18
そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない。

マタイ16:18ノート1
キリストに関する御父の啓示は、キリストと召会という偉大な奥義(エペソ5:32)の前半にすぎません。ですから、主はペテロに、後半の召会についても、啓示する必要がありました。

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_16_18_0_1


エペソ3:3
わたしが前に簡単に書き送ったように、その奥義は、啓示によってわたしに知らされました.

エペソ3:3ノート1
神の隠された、定められた御旨は奥義ですが、この奥義を開くことが啓示です。使徒の務めは、この啓示を遂行して、召会を生み出すことでした。

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_3_3_0_1


エペソ3:4
あなたがたがそれを読むなら、キリストの奥義に関するわたしの理解を、知ることができます.

エペソ3:4ノート1
神の奥義(コロサイ2:2)はキリストです。ここのキリストの奥義は召会です。神は奥義です。キリストは、神の具体化として神を表現するので、神の奥義です。キリストも奥義です。召会は、キリストのからだとして彼を表現するので、キリストの奥義です。この奥義は神のエコノミーです。それは、神の具体化としてのキリストを、神の選びの民の中に分与して、からだを生み出し、キリストにある神の具体化の増し加わりとならせ、こうして神が団体の表現を持たれることです。

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エペソ3:9
それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり、

エペソ3:9ノート2
神の奥義は、彼の隠された、定められた御旨、すなわち、彼の選ばれた民の中へと、ご自身を分与することです。ですから、神の奥義のエコノミーがあります。この奥義は神の中に、各時代にわたって隠されてきましたが、今や、新約の信者たちは、それが明らかにされたので、それを見ることができます。

http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_3_9_0_2


エペソ5:32
この奥義は偉大です.実は、わたしはキリストと召会について言っているのです。

エペソ5:32ノート1
キリストと召会が一つ霊である(?コリント6:17)ことは、夫と妻が一つの肉体となることで予表されています。それは偉大な奥義です。

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啓示録10:7
しかし、第七の御使いが声を発する 日、彼がラッパを吹こうとしている時に、神の奥義は完成される.神が彼の奴隷である預言者たちに、福音を宣べ伝えたとおりである」。

啓示録10:7ノート2
アダムからモーセまでの時代、またモーセからキリストまでの時代で、あらゆることは明らかにされ、現されて、何の奥義もありませんでした。千年王国と新天新地の時代でも同じであり、あらゆることは明らかにされ、もはや奥義はありません。しかし、キリストから千年王国までの時代では、あらゆることが奥義です。この奥義の時代はキリストの肉体と成ることで始まります(?テモテ3:16)。キリストご自身(コロサイ2:2)、召会(エペソ3:4-6)、天の王国(マタイ13:11)、福音(エペソ6:19)、キリストの内住(コロサイ1:26-27)、そしてこの奥義の時代の終わりとしての、聖徒たちの来たるべき復活と変貌(?コリント15:51-52)は、すべて奥義であって、世々にわたって隠されていました(ローマ16:25.エペソ3:5.コロサイ1:26)。すべてこれらの奥義は、第七のラッパが吹き鳴らされる時に全うされ、完了し、終結します。

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以上、引用は第2版から。リンク先は第1版です。

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