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mixii岡林信康三宅洋平の会コミュの『伝説 岡林信康』を読む

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 『伝説岡林信康』増補改訂新装版(白夜書房刊)は、1991年に小学館から刊行された『伝説 信康』の増補版である。増補と言っても1991年以降を新たに書き加え、ほぼ新刊と同じである。

 岡林信康。この名前は、1960年代後半以降、日本のみならず世界的に席巻した学生や青年達の叛乱と言われる反戦運動や学園闘争を背景としていた。高石ともやによって、アメリカン・モダンフォークの模倣ではなく、日本人独自の歌詞と作曲によるフォークソングが開始された。岡林も高石に影響を受け、彼のデビューも高石ともやのコンサートへの飛び入り出演がきっかけである。

 学生運動が下火になったのは、警察当局の熾烈な管理取り締まりと情勢が厳しくなった時に連合赤軍事件などの発生によって闘争が挫折していった構造のもとではなかば必然的だった。東大全共闘代表の山本義隆氏は物理学研究室に残ることもままならず、予備校の講師として人生を歩んでいった。大規模な闘争の代表となった日大全共闘議長の秋田明大氏は、一時全く世間から行方が知れなかった。最近では憲法九条の護憲運動などに参加されているという。
 民青系全学連の内部でも指導する日本共産党の 内部で、新日和見事件と言う名の内部統制により、東京大学や早稲田大学で全学連の指導を担った川上徹や宮崎学などの諸氏はその後に離党や除籍となっている。

 労音でコンサートを続け、全共闘からも支持を受けた岡林信康は、しだいに「フォークの神様」とまつりあげられることに苦痛を覚えて心身症に近い胃腸炎に悩まされ、ついには農村に移住し、農耕生活に入った。同じく先輩格の高石ともやもアメリカに渡り、そこでカントリーソングを習得していった。

 高石が帰国後、ザ・ナターシャー・セブンを率いて再びフォークを歌いはじめたのに比べ、岡林は農耕生活に専念していった。しばらくして音楽活動を再開したときも、演歌やポップスを歌った。やがてイギリスにわたり、現地のミュージシャンから「日本の独創的なロックはないのか?」と問われて衝撃を受ける。帰国した岡林は、民謡に伝わる土着のリズム「エンヤトット」に依拠して、韓国のソムルノリと合同ツアーをくんだり、民謡のリズムで新作に取り組んだ。

 そして、現在。岡林は、農耕生活の頃に上京して逢った美空ひばりさんに提供した「月の夜汽車」などがきっかけで親交を温めた。そのひばりさんとの間で作られた歌「レクイエム〜麦畑のひばり」がクローズアップされている。1975年に岡林は上京してそれまでの総決算のような歌をピックアップしてコンサートを新宿で開催した。そこでは客席の美空さんが突然出演して「風の流れに」を別々に競演するなど大いに盛りあがった。その様子は当時に作られたアルバムが最近二枚組のCDに復刻され発売されている。
 歌詞はもともとその当時にひばりさんから預かっていた。岡林はしまったままの作詞が書かれた手紙を再発見して、涙を流したようだ。二番の歌詞と一番の歌詞との食い違いの疑問から当時は歌に出来ないと思っていたが、一番が歌手美空ひばりの視点で、二番が実際の人間加藤和枝の視点で書かれていることに気づいた。補作詞と作曲によって、「レクイエム〜麦畑のひばり」を収めたアルバム『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』が完成した。

 岡林さんは、一切のジャンルを超えて、歌は魂から発する心によって共通するものであることに思い至った。それまで岡林は、自分の現在を否定することによって、次の音楽を模索してきた。
 しかし、ひばりさんを追悼するアルバムを制作する前後から、今までのすべての音楽活動を肯定できるようになった。最近の彼は、初期の「山谷ブルース」から「月の夜汽車」などの演歌、エレキギターを手にしポップス、和楽器を伴奏に控えたエンヤトットのリズムの歌などを構成してコンサートを行っている。

 つねに変わることで、自己を証明する模索を続けてきた岡林。彼の「自由への長い旅」の歌のように、変革と保守の相克の中で、岡林信康は日本の音楽に大きな足跡を残している。その証のひとつとして『伝説岡林信康』が、2009年3月に完成している。

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