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考える糧ゴリーコミュの問題視される人間。

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第一次大戦後、人間という存在の評価ががた落ちになりました。
理性的な人間という考えは一笑されます。

フロイトは、言いました。
「人間は半分以上、動物であるし、しかも、病んだ動物であって、じつは病気から治りたくないと思っている」。

神学者カール・バルトは書きました。
「死の世界であるこの世界の中であるこの世界に住んでいる人々は、罪ある人々である。
…(中略)…私たちは、罪の無い人々を知らない…罪は力、至上の力である。
人々は罪によって支配されているのである」

ナチスの勃興とアウシュビッツ、ヒロシマにナガサキ、マルクス主義。
二十世紀は、人間の病理性をこれでもかと見せ付ける世紀でもありました。

第二次大戦後に興隆した神の死の神学では、
「われわれは、既に死んでしまった『全能の介入者としての神』がいなくても生きていけるが、
キリストなしでは生きていけない」として、
人間の生命を委ねることのできるようないかなる超越者をも失われるようにみなされました。
そして、それは超越者だけではなくて、楽観的人間観における人の理性そのものでさえ、信頼するには足りないと思われたのです。

民主主義という新しい人類の神も、全能者ではありません。
ドイツではナチスを生み、日本では軍閥と、最近では民主党を生みました。
アジアでは開発独裁を行う権威主義体制が経済的繁栄を国民にもたらし、
民主主義国の憲法のコピーのような、民主主義憲法を持つ発展途上国は、内戦と動乱に明け暮れています。

ヤスパースは言います。
「どれほどよい法律でも、どれほどすばらしい制度でも、どれほど信頼すべき学識でも、どれほど効果的な技術でも、
本来の目的に反する使われ方をされ得る。
これらは、一人一人の人間が、効果的で貴重な現実性を付与して完成させない限り、役にたたないのである」

観念的な理性万能主義は、最終的には社会主義国家群の計画経済の理論的根拠にもなり、
その結果経済からの報復を受けて貧困と飢餓を国民にもたらしました。
現実から遊離した民主主義への信頼は、選挙の度に暴力が起こる社会を発展途上国にもたらせていたりもします。

911以後、対テロ戦争と称してアメリカが起こした一連の軍事行動は、
イラクの混乱とイスラーム過激派の跋扈を生み、
リビアは権威主義体制が崩壊し、カダフィが倒れた後に起こったことは、政治と社会の混乱の激化。
国家の崩壊の名に等しいほどの混乱状況です。
カダフィを殺したのは、カダフィから援助を受けていたとされるフランスのサルコジ元大統領からの諜報員であったという報道もなされました。
すでに「第二のソマリア」化が懸念され、カダフィ時代を懐かしむリビア国民も多いとか。

果たして、人間は信頼に値するのか。
民主主義は人類の至上の価値であるのか。
考えてみませんか。

コメント(73)

>>[33]

平等や公正は単なるフィクションであっても、疎外されている人間の不満が一番少ないのが民主主義。
社会主義だろうが何だろうが、旧ソ連のノーメンクラトゥーラみたいな特権階層が形成される。
溜まりすぎた不満はいつかは爆発するだろうが、民主主義の場合は、「選挙に行かない有権者が悪い」「ロビー活動をしない選挙民が悪い」という論理に抑え込まれる。

総じて、民主主義というのはその程度のものです。
>>[34]

日本人は理性を馬鹿にしているのではなくて、理性を使う術をそもそも知らない。
思いっきり感情的に、非合理的に、情緒的に動いているのに、それを「自分は理性的だ」と思い込んでいる。
自分の欠陥を知らないから、自分が全てだから、自分が理性的と思い込んだら理性的に振舞っていると思ってしまう。
その結果が今の日本社会。

日本でロジカルシンキングの本が流行したときに、
それを知った外国人が「日本人が論理的思考?(爆笑)」扱いされた例もありましたな。
>>[035]ー-私も選挙の投票に行かないくちなのですが、私の知り合いの韓国料理店の奥さんは在日韓国人で、参政権がありませんから「どうして(選挙投票に)行かないの?もったいない。わたしなら絶対に行く」と言ってます。


-投票に行かないのも贅沢なんですね。


-それにしても、トピのゼロポストにある「民主主義はナチスや日本の軍閥や民主党を生んだ」ってご意見。思わず吹き出してしまいましたー-。


〜イリア・エレオスさんは、民主党が嫌いで、このトピの主旨は、民主党非難だったのでしょうかー-。


>>[37]

民主党は一例ですよ。
維新でもどこでも、ポピュリズム政党がまともだった試しはないです…が、
僕は「第二の自民党」になるかもしれないと思って、投票所してしまった。
その自戒も含めて、です。
ぼくは人間を信頼し期待しているし、

民主主義を信頼し期待をかけている。
>>[40]

人間への信頼は民主主義への信頼につながる。
問題は、人間というのは信頼に値するか、ということ
(信頼しない人生は寂しい人生だ、という感傷はこの際除く)。

また、社会心理学で知られている研究で言えば、
「集団は個人より、より良い決定は出来るのか」という命題について、割と否定的。
集団における情報の共有化は期待できないという研究結果があって、
「個人で考え付かないような新たな知恵が集団で生まれることは極めて希」(亀田達也、1997)。
むしろ、集団による検討は個人の検討より劣った結果になりやすく、難しい課題を、多数の人間が集まって話し合うのは返って危険だ、という結論が出てます。

まあ、社会心理学を持ち出さなくても、ちょっとした数学でも論理的に示唆できますな。
十の分野があって、集まった十人の人がそれぞれ一つの分野でエキスパートで、他の分野について平均以下とする。
すると、この十人が話し合えば必ず、一つの分野について平均以下の推論が多数派を占める。
つまり、あらゆる分野において、この集団は必ず間違った結論を多数決で下す。

近代ってのは厄介な概念で、
実は全ての分野において平均以上の知識を持ち、理性を働かせる近代人というのを前提にしてます。
しかも、この近代人が完全情報、すなわち、全ての情報が瞬時に、コストゼロで、得られるという、極めて夢みたいな状況にいる、というモデルを基にしてます。
そうでなければ、必ず集団は個人より劣った決断を示す。

プラトン以下、賢人政治を主張する系譜がヨーロッパに残ったのも決して故なきではないです。
インターネットの普及で、完全情報というイデアの話が、達成できるかに思われましたが、
あにはからや、デマは飛び交う・中傷と罵声も当たり前・自分の思想を補強するような情報しかアクセスしない、という大衆の動向そのものの行動がパターンとして見られます。

僕らは未だ近代という夢物語の中で夢を見ていて、
現実の人間がどうであるかを放置している。
しかし、社会制度や法制度、政治体制は夢を前提に形成されている。

教育で、<現実の人間>を近代人に近づけるか、
人がそれぞれ持つ前近代性を認めて、それを飼い慣らす形で制御させるか、
僕なんかはその程度しか解決策を思い浮かべられませんが、
しかし、先進国では市民が無気力に陥っている(投票率が下がっている)とは良く指摘されますな。
「少ないエリートだけで物事を取り決めてゆくほうが衆愚がそろって考え、決めようとするよりずっといい」
という考えは、確かにさまざまな場面で現実的であるように思わされますが、

やっぱりそこにある危険もぼくたちはしっかりと認識しておくべきだと思います。
>>[43]

危険ですな。
確かに、少数エリートが正しいとは限らないし、腐敗もするし、そもそも国家の為に動くとは限らない。

ただ。
「開発独裁も民主主義もどっちが正しいとは言えないよね」では話にならないから、
どこかで「見切り発車している」んだということを心の中に留めておかないと、
結局、少数派の暴力か多数派の暴力かのどちらかに陥るだけだと思いますね。
>>[045]

人間という種が生きてゆくために、人間中心主義で他の生き物を傷つけたり殺したりしている、
ということは広く見られることですね。
これを仕方ないと考える多くの人と、すべての生き物は平和的に共存すべきだと理念的に訴える人たちとがいますね。
>>[047]

自然界において人類が生き延びようとする時に、人類中心主義に立って他の生き物たちを邪険に扱うように、

人間界ではさらに個人主義、自分中心主義に立って他の人たちを邪険に扱うということが起こりえますね。
>>[049]

インドのジャイナ教徒は、微生物が間違って口に入って食ってしまわないようにマスクをして過ごし、
小さな虫を誤って踏みつけてしまわないように摺り足で歩きます。
>>[051]  

蚊を逃がしてやったというのは、ヒューマニスティックとかヒューマニズムと形容されるのではなく、
違うふうに形容されるのではないでしょうか?
ぼくは英語が苦手だからよくわかりませんが、何と言うのでしょう?
>果たして人間は信頼に値するのか。


人間という全体性の概念を据えて考えるよりも、
むしろ自分が他者やこの世の中と、心や言葉や行動で関わってゆく時に、いかにしたら、より良い世界の形成に自分も関われるか、
という道筋で考えていったほうがいいように思います。
信頼の内に生きている生物なんているの?
生き物は犬だろうが人間だろうがその生き物の許される範囲をただ生きているだけ
果たして民主主義というのは、このまま普通に続けられていくものなのでしょうかね。
一昔前には、“民主主義の本場”と称されるアメリカで、帝国論が流行しましたな。
近代世界システムの中心地で、格差は大きく固定化され、世界システムの辺境を軍事力で支配し、
“独占資本”が政治を支配していて(ま、連邦準備銀行は言うほど株主に支配されているわけではないですが)、
制度上の共和国であるだけの帝国である、と。

古代ローマ帝国も、アウグストゥスが第一市民になるまでは、共和政だったわけだが、
世界帝国として地中海に君臨していた。
アメリカがそのまま帝国として君臨してもおかしくない。
ま、オバマは残念ながらカイザーとしては力不足ですがね。

小泉が細川を担ぎ出すような(反原発はともかく、東京佐川で猪瀬並みの爆弾を抱える細川を使ってどうするつもりなんだあの男は)国は、
精々騙し騙し外見上の民主主義を守って、形式上の独立を守るしか手はないのかもしれませんな。
黒船来航に右往左往していたのが、当時の武士の頂点たる幕閣ですが。

幕末の動乱は、当時の老中がどうすれば良いか分からなかったので、輿論に意見を聞いたことから始まっている。
民主主義の走りですな。
そのせいで輿論が沸騰して、軍事独裁政権である江戸幕府が倒れた。

明治の福地桜痴だったか、「幕府は開明的過ぎたので滅びた」とか書いてましたな。
日本人に一番合っているのは、ムラ社会でナアナアの「井戸端民主主義」を続けることなんでしょうな。
問題やら何やらに「おとな」らが議論するわけでもなし、対話するわけでもなし、ただそれぞれの意見をつぶやく。
それを、ムラのボスが汲み取る形でまとめて、問題に対処する。
ムラの「空気」が出来てしまえば、まあ僕みたいなへそ曲がり以外は大人しく従う。
責任は「皆で決めたことだから」とらない。
良ければ「皆頑張った」、悪くなれば一億総懺悔、「あの時は仕方なかった。そういう『空気』だった」。
多分それが一番日本人にあっている形態でしょう。

だから、ひょっとしたら、小さい自治体でネットを利用した直接民主制を敷いてしまえば、
上手くいくような気がしないでもない。
どうせムラはボスが支配しているのだし。

問題は、そういう共同体政治は効率が悪く臨機応変の対応が出来ないので、
国家間の謀略や社会悪や犯罪なんかには脆弱だということですな。
皆お人好しの日本人が、何も知らないまま、悪意にさらされることもなくずっと生きていくなら、
多分それが一番良い、というだけで。
>>[63]

鎖国すると、江戸時代の人口が三千万人だったことから考えても(戦時中の内地人が八千万人)、
四分の三は飢えて死にますな。

一発逆転の妙計なんてないですよ。
地道に、少しづつ、教育やら“まともな”共同体の形成や自己決定権や自然権に対する意識を育成していって、
…それで、三世代後、百年ぐらいしたら、どうにかなるんじゃないですかね?
>>[65]

移民を受け入れた社会は、特に欧米などで、
文化衝突や軋轢でボロボロになっているという事実が…

移民を特効薬に考えたって、移民だろうが誰だろうが皆自分のことしか考えないのだから、
日本社会を良くする万能薬にはなりませんよ。
日本社会を良くするのは日本人の責任で、その義務を放棄してしまえば、悪くなるしかない。
結局、自分たちでどうにかするしかないです。

教育は百年の長計。
…ま、今の奴隷化教育ではどうにもなりませんけど。
>>[68]
そりゃそうだ。 相手は共感してもらいたかっただけで、あなたの意見は求めてないのだよ。
人間が静かに、自己信頼と希望をみずからの中に見出すことができなかったら、

人間自身にとってもそれは不幸なことだし、
人間の社会にとっても、絶望の深淵に落ちてゆくことでしかないだろう。
冒頭のトピックについて言えば、

<<
第一次大戦後、人間という存在の評価ががた落ちになりました。
理性的な人間という考えは一笑されます。
<<

まずこの図式自体が間違っていて、非常に馬鹿げています。

「第一次大戦後」ではなく、人間への悲観論など、古代から溢れ返っています。

ラブジョイの『人間本性論』など、どうせ読んだことがないでしょうけど、一度読むことをお勧めします。

楽観的な理性万能主義の人間観などという方が、長い人類の歴史の中では例外的ですし、近代においてもそのような傾向に対しては、常に懐疑や批判が必ず伴っていました。

一次大戦前は人間に対して楽観的で、その後が変わったなどという単純な図式こそが、お花畑そのものです。

だいたい、トピック冒頭のバルトの、

「死の世界であるこの世界の中であるこの世界に住んでいる人々は、罪ある人々である。
…(中略)…私たちは、罪の無い人々を知らない…罪は力、至上の力である。
人々は罪によって支配されているのである」

などという主張も、別に目新しいものではなく、パウロやその後のキリスト教世界で古代中世を通じてずっと言われてきたことです。
バルトは、パウロの主張を現代にはっきりとあらためて示したという点ではその時代における功績がありますが、パウロやルター等々、同様な主張は歴史上ずっと言われてきたことです。

「果たして、人間は信頼に値するのか。
民主主義は人類の至上の価値であるのか。
考えてみませんか。 」

こんな問いも古代や中世で山のように問われてきたことで、本当に真摯に問うているならば古典に耳を傾けるべきですが、ミルもろくに読んでない人には到底この問いを本気で考えるつもりはないのではないかと思います。

民主主義が人類の至上の価値など、いったい誰がそんなことを言ったのか。
歴史の上では、民主主義はむしろネガティブにとらえられることが多く、18世紀以前には肯定的な言説はほとんどありません。

バーナード・クリックが指摘しているように、民主主義は「善き統治」のための必要条件ではあっても十分条件ではありません。
善き統治のための必要条件としては大切にすべきですが、それだけでは善き統治は生じないことを肝に銘ずべきでしょう。

そして、人間が信頼に値しないからこそ、代議制民主主義が権力者の交代や監視のために必要であるわけですし、それと同時に、民主主義だけではダメということにもなります。

絶対的な権力を持ったら腐敗するという程度には人間を信頼しない分別を具えるのと同時に、権力掣肘や法の支配がしっかり機能すれば、それなりに人間は分別を持って行動するという程度の信頼や予測可能性は持ちうるというのが、長い歴史の中で人類が培ってきた良識というものでしょう。
人間って奴は、ほんと呆れるような欠点や弱さを持っていたりするけど、

みんな!せめて希望をもって、昨日よりも今日、今日よりも明日がよくなるように、
怠惰にならず、力を尽くして、心を寄せ合い、

深い愛情と思いやりを持ち寄って、

各人の幸せのためにみんなで頑張ってゆこうよ。

>>[71]

いつも、的確な御意見を、ありがとうございます。

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